第36話 毎冬止まる暖房
八柱暦4102年11月13日、火の日。寮の窓の下に置いた水の器が、朝には縁まで凍っていた。秋の授業が進んで今年初めての冷え込みだった。指で突くと薄い氷がぱりんと割れて冷たい水がしみてきた。
同じ部屋のハインツは毛布を頭までかぶったまま動かない。声をかけると毛布の中から返事が返ってきた。
「起きたくない。今日は実習棟だろ。絶対に寒い」
「実習棟は暖房があるよ。石の建物でも床が温まるって聞いた」
「それがそうじゃないんだよ」
ハインツは毛布から目だけ出した。
「実習棟の暖房は毎年最初に冷え込んだ朝に止まるんだ。呪いだって言う先輩もいる」
「呪い?」
「理由が誰にも分からないからな。行けば分かる」
寮の廊下は夜9時に灯りを落としたままの冷たさが残っていた。外へ出ると吐く息が白い。学舎の丘の石畳には水たまりの縁に氷が張っている。
実習棟の戸を開けると中の空気は外より冷たかった。天井の高い大広間に人の吐く息がいくつも白く浮かんでいる。石の円盤の周りでは1年生が肩をすくめて足踏みをしていた。床に手を当ててみる。石の冷たさが手のひらに刺さった。
「暖房が動いてないな」
「ほらな」
ハインツが歯を鳴らしながら言った。
「毎年のことだよ。去年も一昨年も先輩は同じことを言ってた」
大広間の奥の戸が開いて背の曲がった老人が入ってきた。作業着の肩に灰色の上着をかけ腰に鍵の束を下げている。老人は黙って床の隅にある石の戸を持ち上げ下へ降りていった。しばらくして戻ってきたとき、手に小さな袋を持っていた。
「魔石を替えた」
「動きますか」
近くにいた上級生が尋ねると老人は首を横に振った。
「今日は動かん。3日もあれば動く。毎年のことだ」
上級生は肩を落として別の上級生にこぼした。
「また実習棟か。去年は4日止まったぞ」
「授業は講義棟に移るってさ」
俺は老人に近づいて頭を下げた。
「失礼します。工務係の方ですか」
「そうだ。学生さんは」
「1年のラングナーです。毎年この時期に止まるのですか」
「止まる。俺が来て20年、毎冬だ」
「20年ですか。原因は分かっているのですか」
老人は鼻から息を吐いて首を回した。
「分からん。魔石を替えればそのうち動く。それで足りてきた」
そのまま老人は鍵の束を鳴らして大広間を出ていった。
実習棟の外でオルブリヒ教授が白い息を吐きながら立っていた。小柄な体に厚手の外套を重ねて指にはインクの汚れが見える。
「ラングナー君。授業は講義棟に移ります」
「はい。教授、実習棟の暖房は前から毎年止まっているのですか」
「毎年のことです。私が着任したころにはもう止まっていました」
「原因を調べた人はいませんか」
「聞いたことがありません」
教授は少し目を細めた。
「気になりますか」
「はい。寒いからというより毎年止まる理由が分からないのが落ち着かなくて」
「分かりました。考えておきます」
それだけ言って教授は先に歩き出した。
講義棟の教室は暖かかった。窓ガラスが曇って石の壁に魔導灯の光が丸く映る。1年生がほっとした顔で席に着く中、俺は窓の外の実習棟を見ていた。屋根には朝の霜が白く残ったままで溶けた跡がない。
夕の鐘が鳴ると授業は終わった。寮に戻って食事をし、夜9時の鐘で道具袋を机の下にしまう。寝台に入ってからも暖房のことが頭に浮かんだ。石の床の下で何かが毎年同じように止まっている。毎年同じなら同じ場所で同じ理由で止まっているはずだ。
4102年11月16日、水の日。冷え込みが数日続くうちに建物全体が冷えそろって、実習棟の床は朝から温まっていた。工務係のおじいさんが言ったとおり、誰も魔石の話をしないうちにいつの間にか動いていた。
放課後オルブリヒ教授の研究室を訪ねた。
「機械室を見せてください。暖房の回路を読みたいのです」
「見て何をするのですか」
「どこが止まるのかを確かめます。直すとは決めていません。読むだけです」
教授は書類から顔を上げてしばらく俺を見ていた。
「許可します。ただし手は出さない。立ち会います」
「はい。ありがとうございます」
教授は立ち上がって棚から鍵を取った。研究室を出て廊下を歩いていると窓際にセシリアが立っていた。淡い金色の髪を高い位置で結んで紺の上着の袖をそろえている。教授は足を止めた。
「アーデルハイトさん。ちょうどよかった。これから実習棟の機械室へ行きます。古式の石板を読むので立ち会ってもらえませんか」
「ラングナーさんが読むのですか」
「そうです。古式は読めますか」
「はい。家で読んで育ちました」
「では同席を許可します。手は出さない。2人とも」
実習棟の大広間の隅に床の石戸がある。工務係のおじいさんが先に待っていて、教授の顔を見ると黙って戸を持ち上げた。下へ続く石の階段は狭くて壁に手を添えないと足が滑る。
「触るなよ、学生さん」
「触りません。読むだけです」
「それならいい」
階段を降りきると石の小部屋に出た。壁際の魔導灯がガラスの覆いの中で白く光っている。部屋の奥の壁に俺の背丈の倍ほどもある大きな石板が3枚並んでいた。真ん中の1枚に線が密に刻まれている。床がじんわりと温かい。暖房はこの石板から床の上へ熱を送っているのだ。
「これが暖房の回路ですか」
「そうだ。真ん中のだ」
俺は石板の前に立って顔を近づけた。線の流れを目で追う。根線が左の下から伸びて枝に分かれ、部屋の下へ向かっていく。線の間に記号が刻まれている。古式だ。夏の3週間で覚えた形がそのまま目に入った。
「古式で刻んであります」
セシリアが俺の横に立って、石板に目を落とした。
「見れば分かります。読みましょう」
石板の左の端から記号を拾いはじめる。夏の認定と同じやり方で、記号の並びの終わりから意味を決めていく。線は根線から3本の枝に分かれていた。手前の枝は大広間の左の床へ、真ん中の枝は円盤の下へ、奥の枝は右の奥へ。それぞれの枝の先で熱を送る転じ紋が床の石を温めている。
「根線の量り紋は、大の魔石に合わせてあります」
セシリアがうなずいた。
「はい。3本の枝に等しく分ける形です」
セシリアの声は淡々としていた。読み進める速さは俺より少し早い。家で古式の一枚彫りを読んで育った人の読み方だった。迷いがなく、ひとつながりの記号を読み終えるたびに次へ進む。
「この部分は問題ありません」
「はい」
階段の上から足音がして人影がのぞきこんだ。背が高い黒い上着の老人だった。初演習で見た白髪の教授だ。
「それは昔からの形だ。触るべきではない」
低い声が石の部屋に響く。
「触りません。読むだけです」
「読んでどうする」
「止まる理由を調べます」
白髪の教授は何も答えなかった。足音が階段を上がって遠ざかっていった。
石板の右の端へゆっくり目を移した。ここまで読んだのは根線から枝へ分かれる形とそれぞれの枝の先の転じ紋だ。その先に右の奥の枝の行き止まりがあって、その手前に1つだけ違う印が刻まれていた。
「ここに見張りの記号があります」
セシリアがすぐに答えた。
「はい。入門書にある熱が上がりすぎたら止める記号です」
見張りの記号は古式の入門書にある呼び名で、教授もおじいさんも知っているはずの言葉だった。
「元の回路はここまでです。その先も読んでいいでしょうか」
「どうぞ」
俺は右へ半歩体をずらした。石板の右の端に近づくと刻みの線が変わった。溝が少し浅くなって記号の形も見慣れた現行式に近い。元の古式の線とは彫った人の手が違う。
「ここから先は別の人が刻んでいます」
「別の人?」
教授が一歩石板に近づいた。俺は右の端の線を指で示した。触ってはいけないので指先を石から握りこぶし1つぶん離して線をなぞる。
「元の線は深い溝で角がありません。ここから先は溝が浅くて角があります。同じ石板に別の手が足した部分です」
工務係のおじいさんが背後から低い声を出した。
「実習棟は150年ほど前に右へ1室増やしたと聞いた。そのとき床も足したはずだ」
「継ぎ足しですね」
「継ぎ足しと言うのか。まあそうだ」
俺は継ぎ足しの線を右の端へ向かって追った。足された枝は元の回路の右の奥の枝の先に、枝分かれして増築した1室の床へ伸びている。そこで最後の記号が1つ彫られている。
「この最後の記号が変わっています」
「変わっている?」
セシリアが石板の右の端に目を寄せた。俺はその最後の記号を指さした。
「元の見張りの記号は、並びの終わりの記号で意味が決まります。ここに足された最後の記号は元の形とは違います」
「どう違いますか」
セシリアが聞いた。俺は夏の認定の読み方を思い出しながら言葉を選んだ。
「元は、熱が上がりすぎたら止める意味でした。足された最後の記号が元と違うので、今は足した右の枝と元の枝の熱の差が大きいと止める意味に読めます」
教授が帳面に何かを書きつけた。セシリアは黙って石板を見ている。
「暖かいうちは右の枝と元の枝の熱の差は小さいです。でも急に冷えた朝は、外に面した右の部屋だけが早く冷えて差が開きます。そうなると見張りが止めます。数日たって建物全体が冷えそろうと差が縮んでまた動きます」
おじいさんが腕を組んだまま眉を寄せた。
「魔石を替えると動くのは」
「魔石を替えたから動いたのではなく、その頃に動き出しただけだと思います」
おじいさんは何も言わなかった。長い沈黙のあと小さく鼻で息をついた。
「20年、魔石を替えてきた」
「はい」
「効いてなかったのか」
「効いていなかったと思います」
おじいさんの肩がわずかに下がった。責めるつもりはなかったので俺は続けた。
「誰も調べなかったのは、魔石を替えれば動いたので、それで足りたからだと思います」
セシリアが顔を上げて俺を見た。
「継ぎ足しは見ていませんでした」
「元の回路を読んでから気づきました。アーデルハイトさんが元の部分を読んでくれたので、そこから先が違うと分かったんです」
セシリアは少し黙った。それから静かに言った。
「私は記号の並びを最初から順に読んで、最後に意味を確かめます。あなたは先に最後の記号を見ていますね」
「はい。終わりから読むようにしています」
「だから足された所に先に気づいたのですね」
それ以上は言わなかった。教授が帳面を閉じた。
「分かりました。直し方は」
「継ぎ足し部分の終わりの記号を元の古式の形に彫り直します。溝を浅く1本彫り足すだけでいいと思います」
「学院の備品に手を入れるので学院長に届けます。許可が出るまで待ってください」
「はい」
教授がうなずくと、おじいさんが腰の袋からたがねを1本出して手のひらで重さを確かめるようにした。
「許可が出たら俺が彫る」
「お願いします」
階段を上がると夕の鐘が鳴りはじめた。夜9時まではまだ時間がある。けれど日が暮れたら仕事はおしまいだと決めているので、図は翌日の放課後に描くことにした。
翌日の放課後、寮の食堂の隅の机に紙を広げた。夕の鐘の前だ。右の奥の枝の先、増築した1室へ伸びる線、最後の記号の元の形。それを見ながら溝の位置と長さを石板と同じ大きさの図に写していく。ハインツが向かいの席に座ってパンをかじりながらのぞきこんだ。
「それ何の図?」
「実習棟の暖房の直す所の図だよ。許可が出たら工務係のおじいさんが彫るんだ」
「テオが彫るんじゃないのか」
「手は出さない決まりなんだ。位置と形を間違えないように図に描いて渡す」
「面倒だな。テオなら自分で彫ってしまいそうなのに」
「面倒だけど自分で彫って間違えるより安全だよ」
夕の鐘が鳴る前に描き終えて図を紙挟みにしまった。
4102年11月25日、火の日。寮の窓の下の水の器は、朝には縁まで凍っていた。今年2度目の冷え込みだ。
学院長の許可は19日に出た。オルブリヒ教授が届けを出して3日目の朝、短い紙が研究室に届いたという。その日の午後、工務係のおじいさんが、教授の立ち会いで石板の右の端にたがねを当てた。俺は石に触れず図を指さして位置と形を示した。浅い溝が1本元の古式の線に沿って静かに彫り足された。たがねが石を削る音は思っていたより小さかった。
それから6日。今日が確かめの朝になる。
ハインツは今朝も毛布にくるまったまま目だけ出して言った。
「今日こそ止まるかな。賭けるか」
「賭けない」
「テオは真面目だな。止まったら俺が呪いのせいにするぞ」
「止まらないよ」
実習棟の戸を開けると中の空気は外より暖かかった。大広間の床から足の裏に温かさが伝わってくる。石の円盤のまわりで1年生が靴を脱いで床に足を置いていた。
1年生の1人が小さく声を上げた。
「動いてる。止まらなかったぞ」
ハインツが後ろから俺の肩をたたいた。
「すげえ。本当に動いてる」
「テオ、これお前が直したんだろ」
「直したのは工務係のおじいさんだよ。俺は読んだだけ」
「読んだだけで20年止まってたやつが直るのかよ」
「誰も読んでなかっただけだよ。古式を読める人がもっと早く石板を見ていたらすぐ分かったと思う」
夏の3週間はこのために使ったわけではなかった。それでも石板を前にしたとき記号の木は頭の中にそのまま残っていた。
大広間の奥の戸から工務係のおじいさんが入ってきた。作業着の肩に灰色の上着をかけて腰の鍵の束を鳴らしている。俺は近づいて頭を下げた。
「おはようございます」
「ああ、学生さん」
「右の1室の床も温まっていますか」
「見に行った。温かい。継ぎ足した部屋もだ」
おじいさんは鍵の束を片手に持ち替えて床を踏みしめた。
「20年、分からんかったな」
「毎年のことになっていて誰も古式を読まなかったのだと思います」
「そうだな」
おじいさんは何も言わず腰の袋からたがねを出して布で拭いた。刃の先に石の粉が少し残っていた。
「学生さん。また何か止まったら読んでくれるか」
「私にできることなら見ます」
「それでいい」
おじいさんはたがねを袋に戻して大広間を出ていった。
そのときオルブリヒ教授が戸口に立った。小柄な体に外套を重ねて帳面を抱えている。
「止まらなかったようですね」
「はい。右の1室の床も温かいそうです」
「記録に書きます。学院長にも報告を出します」
教授は帳面の端に短く何かを書いて俺を見た。
「ラングナー君。来週はまた別の課題を出します」
「はい」
「今日は足を温めておきなさい」
教授が先に歩いていった。俺は靴を脱いで石の床に足の裏を置いた。じんわりと下から熱が上がってくる。冷え込んだ朝のはずなのに床の石は変わらず温かい。
朝の鐘が鳴ると、1年生たちは靴を履き直して演習の列に並んだ。炎環の演習が、今日から再開するという。
大広間の戸口の外に黒い上着の背の高い老人が立っていた。白髪の教授だ。老人は床に足を置く1年生たちを黙って見ていた。それから俺と目が合うと、何も言わずに背を向けて歩いていった。
大広間の高い窓の外では石畳の霜がまだ白く残っている。その内側で床の石が静かに熱を保っていた。




