第35話 夏の帰省
八柱暦4102年8月3日、風の日。魔導列車の窓から見える麦畑が夕の光で金色に染まっていた。王都を出て半日、見慣れた川の曲がりが見えてくると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
列車が止まって扉が開く。ミルフェン駅のホームに降りると夏の草の匂いがした。道具袋を肩にかけ直したとき、屋根の柱の陰から誰かが小走りに出てきた。
リリだった。
最後に会ったのは春の駅の見送りだから4か月ぶりになる。それなのに背が指2本ぶんほど伸びていた。髪は高い位置で結んでいて手紙の字と同じように少し大人びて見えた。リリは俺の顔を見つけると走り出しかけて急に足を緩めた。
「走ってないよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に書いてあったもん。テオ兄、おかえり」
「ただいま。背が伸びたな」
「そうでしょ。母さんにもう服の丈が合わないって言われたんだ」
リリは胸を張ってから俺の道具袋に目を向けた。
「ねえ、手紙に書いてた弧の図、持ってきた?」
「持ってきたよ。夕飯のあとで見せる」
「約束だからね。それから学院のごはんっておいしい? お肉は出る?」
「出るよ。スープも出る。母さんのほうが少し味が濃いかな」
「じゃあ帰ってきたら食べ過ぎないようにしないと」
「それは俺が言うことだと思う」
リリは笑って俺の袖を引いた。駅前の通りを並んで歩く。夕の鐘が鳴り終わるころで、通りの店はもう戸を閉めはじめていた。夜が来る前に仕事を終える町の景色は、俺が出ていったころと変わっていなかった。
家に着くと、店の戸が半分開いて中の灯りが外へこぼれていた。母さんが台所から飛び出してきて俺の肩を両手でつかんだ。
「おかえり、テオ。ちゃんと食べてるの? 少し日に焼けたんじゃない?」
「食べてるよ。ただいま、母さん。今年は図書室にこもることが多かったから焼けてないと思う」
「そう。じゃあ手を洗っておいで。お父さんも呼んでくるから」
作業場の戸が開いて父さんが手拭いで指を拭きながら出てきた。木くずの匂いと銀の匂いが一緒に漂ってくる。
「帰ったか」
「ただいま、父さん」
「背は伸びたが肩はまだ細いな。飯を食え」
それだけ言って父さんは台所に入っていった。ぶっきらぼうなのは変わらない。けれど、俺の道具袋をそっと受け取って棚に置いてくれた手は優しかった。
夕食は母さんの豆のスープと焼いた鶏だった。食卓を囲むとリリが先に学院のことを聞きたがった。俺は炎環の話をかいつまんで話した。手紙で書いた内容だから母さんも父さんもうなずきながら聞いていた。
「それと古式の認定を受けたんだ。7月の終わりに。3週間かけて勉強して受かった」
父さんの匙が止まった。母さんが身を乗り出す。
「3週間で? それってすごいことなの?」
「ふつうは2年生が1年かけるって言われた。でも毎日夜9時には本を閉じて寝てたよ。それでも間に合った」
母さんはほっとしたように笑った。
「9時に寝られたのね。それならいいの」
「うん。学院でも家の決まりは守ってる」
父さんは何も言わずスープを一口飲んだ。それから小さくうなずいた。
食後、リリが約束を忘れずに机の端をたたいた。
「はい弧の図」
道具袋から写しを取り出して広げる。古式の写本から写した継ぎ目の図だ。リリは両手を机に突いてのぞきこんだ。
「ほんとに丸い。なんで丸いの?」
「それを調べてるんだ」
「なんで調べてるの?」
「継ぎ目で魔石をたくさん使っちゃうからそれを減らしたくて」
「ふうん。減るのは困るもんね。テオ兄、見つかるといいね」
リリは図に鼻がつきそうなほど顔を近づけて線を目で追っていた。台所の灯りが紙の上にやわらかく落ちる。久しぶりに家の音を聞いた気がした。鍋を洗う音、薪の小さくはぜる音、父さんが戸締まりをする音。
4102年8月4日、水の日。朝の鐘のあと、店の受付に出ると、ルッツが受付の板に注文を書き込んでいる最中だった。窓辺の見本の板が朝の光を受けて台の上で白く光っている。
ルッツは客から預かった携帯灯の札を壁の板に差し白墨で数を書いた。手つきに迷いがない。俺が出ていった春よりもずっと速かった。
「おう、帰ったか」
「ただいま。もう受付は全部ルッツがやってるの?」
「ほとんどな。親方が代わるのは、俺が昼飯を食うときだけだ。それよりお前の手紙を親方が見せてくれてな。炎環を3分で止めたって本当かよ」
「本当だよ。3分と少しだったけど」
「俺は3日かかっても無理だな。炎環ってのが何なのかもまだ分かってねえし」
「見たら分かるよ。今度絵に描いて送る」
ルッツは鼻で笑ってから壁の板を指さした。
「それよりこれ見ろよ。戻りが多いんだ」
「戻り?」
「商会から戻ってきた板だ。量り板がきつくて入らねえって言われてな。作りが悪いって言われるのは俺は嫌だ」
ルッツが棚から出してきたのは、布で包んだ板が何枚も重なった山だった。11枚あるという。今日の昼の鐘のあとにロレンツィ商会へ持っていくと聞いて、俺もついていくことにした。
昼の鐘が鳴ると、ルッツが板の包みを抱え、俺と並んで新市街の通りを歩いてロレンツィ商会のミルフェン支店へ向かった。通りに出ると気づくことがあった。以前は夕方になるとどの店も灯りをつけたまま遅くまで作業をしていたのに、今は窓の灯りが夕の鐘のあとにすっと消えていく。新市街の工房の窓もそのひとつだった。
支店の奥の部屋に通されると、ニナが机に帳簿を広げて待っていた。こげ茶色の三つ編みを背に垂らし深い緑の上着を襟元までとめている。
「テオさん、お帰りなさい。学院でのご活躍は、ハンスさんからうかがいました」
「ありがとう。ニナも元気そうで安心した。さっそくだけど戻りの板の話を聞かせてもらっていい?」
ニナは帳簿を向けて数字を指でなぞった。
「まず売れ行きです。町の修理店に置く規格の板は14軒に増えました。隣町の修理店でも使われはじめています。取り分も予定どおり積み上がっていて、学費は問題ありません」
「よかった」
「ただここ3か月で、量り板がきつくて入らないという板が11枚戻ってきました。それまではほとんどありませんでした」
ニナは帳簿の別の頁を開いた。
「私の恩恵は、品物を見ると、おおよその値段が頭に浮かぶものです。ところが、この3か月の板だけ浮かぶ値段が少し安いんです。見た目は同じなのに、理由が分かりません」
「ルッツ、持ってきた11枚を見せてもらってもいい?」
「ああ。全部ここにある」
ルッツが布を広げると戻りの板が机に並んだ。俺は一枚を手に取った。窓辺の見本の板を持ってきてあったので、戻りの板に重ねて縁をそろえる。窓の光に透かすと、重ねた縁の手前に細い光の線が1本見えた。戻りの板のほうがほんの少しだけ大きい。
指で縁をなぞると手前の角が丸く盛り上がっていた。ほかの10枚も同じだった。本体の板が最初に打った板よりも大きく出ている。それなら量り板がきつくなるのも当然だ。
「本体の板を打つ型の縁がすり減ってるんだと思う」
「型ってそんなに減りますか」
「3年近く毎日同じ所に当てて打っているから。夏は地金も少しのびるから、今になって目立ったんだと思う」
ニナは目を細めて帳簿の日付を指でたどっていった。それから戻りの板の札に書かれた打った日を、小声で数えて確かめた。
「合います。戻ってきた11枚は、どれもこの3か月のうちに打った板です」
「それなら型の縁を見に行ってみるよ。父さんに頼んで」
ニナはうなずいて帳簿を閉じた。
「型を新しくするなら費用は商会で持ちます。戻りの板の代わりは今日中に手配します」
「ありがとう。ニナのおかげで原因が早く分かった」
「いえ。気づいたのはテオさんです」
ニナの耳が少し赤くなっていた。
午後は父さんと一緒に、隣のバルクの鍛冶屋へ向かった。フィーネの父親が営む店だ。奥には板を打つ鉄の型が壁に掛けてある。上下2枚で一組になっていて、板を挟んで槌で一度打てば大きさのそろった板が抜ける。
バルクのおじさんは黙って型を外し、作業台に置いた。俺と父さんの前で親指で縁をゆっくりなぞった。
「ああ、丸くなってるな」
「どれくらいですか」
「爪が引っかからなくなってる。3年打ち続けたらこうなる」
「新しい型を打ってもらえませんか。同じ寸法で」
「いいぞ。古い型は縁を削って別の用途に回す」
父さんは腕を組んで型を見下ろした。
「毎月1日に見本の板を型に当てて縁を見る。それでいつ減ったか分かるな」
「うん。見本の板は、店の窓辺のを借りればいいね」
「分かった。お前が帰ってきたから気づいたな」
父さんはそう言って口の端を少しだけ上げた。
4102年8月5日、光の日。朝の鐘が鳴り終わるころ、町外れのブラントさんの店を訪ねた。戸の前の古い看板は前に来たときと同じ角度で傾いている。
戸を開けると店の奥の作業台でブラントさんが小さな板に向かっていた。拡大鏡越しにこちらをちらりと見て、すぐ手元に目を戻す。
「帰ったか、小僧」
「お久しぶりです、ブラントさん」
「堅苦しい挨拶はいい。ハンスから聞いたぞ。古式を3週間で終えたそうじゃねえか」
「はい。父さんが伝えたんですね」
「あいつは口数が少ねえが嬉しいことだけは早く言いに来る。座れ」
ブラントさんは板を台に置いて拡大鏡を外した。俺は道具袋から古式の写しを出して作業台の上に広げた。
「学院の図書室にあった古い写本の継ぎ目の図です。曲がりが全部弧で結ばれています」
ブラントさんは写しに顔を近づけた。しばらく何も言わずに指先で線の曲がりをなぞっていた。
「それでお前は何をしたいんだ。この曲がりを」
「継ぎ目で魔石を余計に食うんです。部品を分けて組むと分け目のぶんだけ損が出ます。同じ課題で一枚彫りの人と比べたら灯りが落ちるまで25分と30分でした。今は角を丸くして27分です」
「損を認めたのは悪くねえ。で、直しやすさは捨てるのか」
「捨てません。壊れたときに2分で直せるほうが俺は大事だと思っています」
「ならいい。損を減らすのはそのあとの話だ」
ブラントさんは写しをもう一度のぞきこんだ。そしてさっきよりも長く指で線の曲がりをなぞった。眉が寄る。
「この曲がり、どこかで見たな」
「見たことがあるんですか」
「待て。思い出す」
ブラントさんは腕を組んで目を細めて天井の隅を見つめた。
しばらくしてブラントさんが顔を戻した。
「旧市街の広場に古い魔導灯があるだろう。あの台座にこんな線が彫ってあった。ずいぶん前に灯りの根元を直しに行ったときに見た」
「何が彫ってあったか覚えていますか」
「読めなかった。古い字だったからな。ただ曲がりがこんなふうに丸かった。それだけは覚えてる」
俺は思わず身を乗り出した。
「見に行ってもいいですか」
「見るだけだぞ。触るな」
「はい」
ブラントさんは上着を取って立ち上がった。店を出て2人で旧市街へ向かう。石畳の道は夏の日差しで温まっていて足の裏が少し熱い。広場に着くと噴水の脇に古い魔導灯が一本立っていた。
台座は灰色の石でできていて角が丸くすり減っている。ブラントさんが指で示した所の石の表面を俺はしゃがんで見た。こけの下に細い線が走っている。弧を描いてまた別の弧とつながっていた。
灯りの柱は俺の背丈の倍ほどあって、今は灯りがともっていない。ガラスの覆いの内側が、うっすらくもっていた。
線の曲がりは写本の図と似ていた。でも似ているだけで同じかどうかは分からない。こけをはがせばもっとはっきり見えるだろう。けれど触るなと言われたので目だけで追った。
「どうだ」
「似ています。同じ書き方かどうかまでは今は分かりません。こけの下をちゃんと見てみたいです」
「今日は見るだけだ。帰るまでにもう一度来い。そのときまでに拓本を取る道具を用意しておけ」
「はい。ありがとうございます」
広場の石畳に2人の影が長く伸びていた。ブラントさんは手を後ろに組んで灯りの柱を見上げている。
「小僧。夜は」
「9時に道具を置いてます」
「ならいい」
それだけ言ってブラントさんは歩き出した。俺も後ろについて帰り道を歩く。師匠の背中は前よりも少し小さく見えたけれど、歩き方は昔と変わらなかった。
4102年8月6日、闇の日。店は休みで、昼のうちに型の下絵を紙に描き終えた。バルクのおじさんに渡す分だ。夕の鐘のあとは仕事を何も持たずに台所へ行った。
夕食の食卓には父さんと母さんとリリ、それにルッツが並んだ。ルッツは闇の日だけうちで夕飯を食べて帰る。母さんが焼いた魚の皿が回り、リリが魚の骨を取りながら話を聞きたがった。
「テオ兄、古式ってどうやって3週間で終わらせたの?」
「毎日同じ時間に勉強したんだ。朝の鐘の前に起きて、授業のあとに図書室、夕食のあとにまた少し。でも夜9時には必ず本を閉じた」
リリは骨を皿の端に置いた。
「それで間に合ったの?」
「間に合った。夜に解けなかった一文が朝になったら10分で解けたこともあるんだ。夜通しやるよりずっと早かった」
ルッツがパンを割りながら首をかしげた。
「ほんとかよ。徹夜したほうが進むだろ」
「進んだ気はするんだけど、朝になると前の日の分を直すことになるんだ。だったら寝たほうがいい」
「へえ。そんなもんか」
母さんが皿を置いて聞いた。
「そういえば同じ部屋の子はどんな人? 手紙にハインツくんって書いてあったでしょう」
「王都の下町の鍛冶屋の三男で気さくな人だよ。寮の噂に詳しくて、古式の札も毎晩作ってくれた」
「鍛冶屋さんなの。それならバルクさんとも話が合いそうね」
「合うと思う。いつか連れてきたいな」
母さんは笑ってスープを飲んだ。それから思い出したように言った。
「王都に行ったら決まりなんて忘れると思ってた」
「忘れないよ。学院でも夜9時の鐘が鳴ったら道具を置いてる」
「誰かに言われて?」
「ううん。自分で」
父さんが水の杯を置いた。短く低い声で言った。
「それでいい」
それだけだったけれど、母さんが父さんの顔をちらりと見て満足そうにうなずいた。リリがもう一度俺の顔をのぞきこむ。
「テオ兄、無理してない?」
「してないよ。ほんとに」
「じゃあ明日は市に行こうよ。約束ね」
「いいよ。朝の鐘のあとに」
食事のあと、リリが写しの図をもう一度見たいと言って机の端に紙を広げた。昼のうちに下絵を終えていたので夜に手元に残る仕事はない。台所の灯りの下でリリと並んで弧の線を指でたどる。
「やっぱり丸い。ねえ、この丸いのをテオ兄の板にも付けたらいいんじゃない?」
「それを試してるところなんだ。うまくいくかまだ分からないけど」
「うまくいくといいね」
ルッツは帰り支度をして戸口で立ち止まった。
「テオ。明日、受付の板の使い方でひとつ聞きたいことがある」
「いいよ。朝のうちに教えるから」
「頼む」
ルッツが出ていくと母さんが戸を閉めてかんぬきを下ろした。
窓の外で神殿の鐘が鳴りはじめた。1つ、2つと数えていく。9つめが鳴り終わるころ、俺は写しの紙をたたんでリリに言った。
「おやすみ、リリ」
「おやすみ、テオ兄」
父さんが台所の灯りに手を伸ばす。ぱちん、と小さな音がして部屋が暗くなった。




