第34話 三週間の古式
八柱暦4102年7月10日、水の日。術式比べから3週間ほどがたっていた。放課後の第三演習室で俺は継ぎ目の角を丸くした板を試していた。灯りが落ちるまでの時間は25分から27分に伸びた。2分は効いたと言っていい。けれどセシリアの30分には届かない。
角を丸くするだけでは足りない。継ぎ目そのものの合わせ方を変えなければならないのだろう。そう考えてその日は演習室ではなく図書室へ向かった。
図書室の奥には古い写本ばかりを並べた棚がある。背表紙の革は黒ずんでいて、手に取ると紙の端が細かく崩れそうになった。一冊ずつ開いていくうちに、ある写本の図で手が止まった。板の上に引かれた線が、継ぎ目の所でどれも大きく丸みを帯びてつながっている。灯りの回路を2つの部分に分けてその間をつなぐ図だ。分けた所の合わせ方を描いたものだと見ただけで分かった。
ところが図の横に並んだ文が読めなかった。現行の術式言語に似ているのに記号の数が多い。並びの決まりも違うようで、知っている記号が出てきても意味が取れない。
後ろからハインツが写本をのぞきこんだ。
「何それ。うわ古式だ」
「古式?」
「昔の書き方だよ。2年生が1年かけて習うやつ。読めなくても生きていけるって先輩は言ってたけど」
「1年かけるのか」
「記号が今の3倍あるんだってさ。やめとけよ、テオ。変な顔になってる」
自分では分からないが、ハインツが言うなら変な顔をしていたのだろう。俺は写本を閉じずに棚の下の段から古式の入門書を一冊抜き出した。
閲覧の机に着くと入門書を開いた。少し離れた席に見覚えのある淡い金色の髪の後ろ姿があった。セシリアが自分の調べものをしている。ハインツは“俺は寮に戻るわ”と小声で言って出ていった。
しばらくしてセシリアが顔を上げた。机の上の入門書の背を見る。
「古式を学ぶのですか」
「はい。継ぎ目の損を減らす手がかりが古式の写本にあるかもしれないんです」
「なぜそう思うのです」
「継ぎ目の図がどれも弧で描かれていました。アーデルハイトさんの線に似ています」
セシリアは少しだけ黙っていた。それから手元の本に目を落としたまま言った。
「古式の弧はいまの弧とは違います」
「どう違うんですか」
「読めば分かります。読めたなら」
それ以上は何も言わず、セシリアは自分の本に戻った。教えてくれる気はないらしい。けれど違うと分かっているなら違いはあるのだ。
その足でオルブリヒ教授の研究室を訪ねた。灰色の髪をきっちりまとめた教授はインクで汚れた指で書類をめくっていた。
「古式読解の認定を受けたいのです」
そう伝えると教授はペンを置いた。
「認定は年に一度7月の終わりです。今年は28日の水の日。ふつうは2年生が1年かけて授業と課題で備えます。1年生が通ったのは私の知るかぎり過去に1人だけです」
「28日まで18日あります」
「3週間は足りません。ふつうなら」
教授は俺の顔をしばらく見ていた。止める気配はなかった。
「受けるのは自由です。学年の決まりもありません。ただし結果は査定には入れません」
「はい。それでも受けます」
「分かりました。試験は古い刻印の拓本を読んで何をする回路かを口で説明してもらいます。読んだ順に書き出してもらいます」
研究室を出て廊下の窓の外を見た。夕の鐘にはまだ間がある。18日。夜9時には道具を置く。その決まりは動かさない。
翌朝から日々の形を決めた。朝の鐘の前に起きて入門書を1章ぶん読み、授業に出る。放課後は図書室。夕の鐘のあとは食堂で夕食を取り、寮の部屋で夜9時まで古式を読む。
古式の記号は全部で600あまりあった。入門書の表はその600を意味の近いものごとに並べてある。丸暗記するなら1つずつ札に書くしかない。けれど、表の記号を現行の記号と見比べていくうちに、あることに気づいた。古式の記号の多くは現行の記号が枝分かれして増えたものだ。根になる記号が分かれば、枝の意味は形から外れない。頭の中で記号の木が一本ずつ伸びていく。
最初の3日は思うように進まなかった。入門書の記号は覚えられても写本の文になると読む順がつかめない。昼の鐘のあとの食堂でパンをちぎりながら、ハインツに愚痴をこぼした。
「記号は分かるんだ。でも文になるとどこから読めばいいのかが分からない」
「そりゃそうだろ。2年生はそこで半年つまずくって聞いたぞ」
「半年か」
「お前顔が笑ってるぞ」
言われて口の端を触ってみた。確かに上がっていた。分からないことが目の前にあるのは悪い気分ではなかった。
ハインツは紙の札を何十枚も切って寮の部屋で俺に出題してくれた。
「これは?」
「火を足して向きを逆にする記号。ほどくんだっけ」
「合ってる。じゃあこれ」
「その横にある記号と組むと、ほどいたものを元に戻す、という意味になる」
「昨日の100個もう全部言えるのかよ」
「全部ではないよ。でも形で覚えると忘れにくいんだ」
ハインツは札の束を机に打ちつけて、目をぱちぱちさせた。
「こっちは2年生が半年かけた所だぞ」
「たまたま俺に合う覚え方だったんだよ」
覚え方が合っていただけかもしれない。ただ1つ分かったことがある。新しい記号を覚えるたびに頭の中の図が前よりも速く広がっていく。4日目には入門書の半分が終わった。5日目の夜ハインツが札をめくる手を止めて言った。
「テオ、さっきから答えるのが俺が札を出すより早いぞ」
「札の順番を覚えちゃったのかもしれないよ」
「じゃあ順番を変える」
ハインツは札を床にばらまいてでたらめに拾い直した。それでも俺は答えられた。ハインツは“うわ”と言って寝台に倒れこんだ。
1週目の終わりには入門書の最後の章が読めていた。
2週目に入ると入門書は終わって本物の古式の写本を読む番になった。
4102年7月20日、土の日。朝の食堂の隅の席で、2年生の男子学生が目の下にくまをつくって本に突っ伏していた。同じ認定を受けるのだろう。
「昨日は朝まで起きてたんだ。この一文がどうしても読めなくて」
その人はうつろな声でそう言った。俺は隣の席に朝食の盆を置いた。
「ラングナー君、だよね。今日で何日目?」
「10日目です」
「10日でどこまで読めた?」
「写本の中ほどまでです。昨日から止まっている一文があります」
「中ほどまでか」
その人は力なく笑ってまたうつむいた。何を言えばいいのか分からなかった。何も言わずにパンをちぎった。
その夜、寮の部屋の机で、俺は一文を前にしていた。写本の中ほどにある長い一文だ。記号が20ほど並んでいる。文の終わりに近い記号が前にある記号の意味を決めているようだった。けれどどこで決まるのかが見えない。
頭の中の図は2つの層に重なって見えた。2枚の紙を透かして重ねたようで、どの線がどちらの層に属するのか分けられない。あと少しだと思った。この感じは知っている。もう少しでほどける。
ハインツが先に寝間着に着替えて寝台に腰を下ろした。9時の鐘まであと10分だった。
「まだやるのか?」
「9時まではね」
「その一文昨日からだろ」
「うん。あと少しなんだ」
あと少しで終わる。前世で一番多かった嘘がそれだった。あと少し、あと一行、あと30分。
机の上の灯りは強くて手はまだ動く。頭の中の2つの層はいまにもほどけそうに揺れている。ここでやめれば昨日からの苦労が途切れてしまう。そう思った。
家族の決まりは“夜9時を過ぎたら道具には触らない”だ。本を読むことは決まりには入っていない。だから読んでもいいのだ。そう考えかけてやめた。あの決まりは夜に何かを続けた俺を止めるために作ってもらったものだ。言葉の隙間を探すのは決まりを裏切ることになる。決まりを本を読むところまで広げていいのは、俺自身だけだ。
神殿の鐘がゆっくり鳴りはじめた。1つ、2つと数えて、9つで終わった。俺は写本を閉じてしおりを挟んだ。
「解けたのか?」
ハインツが顔を上げた。
「いや。やめた」
「珍しいな。この時期の2年生は朝までやるぞ」
「やらないよ」
廊下で寮監が灯りを1つずつ落としていく足音が近づいてきた。部屋の灯りも落として寝台に横になった。目を閉じると頭の中の2つの層がぼんやりと揺れていた。揺れたままそのうちに眠りが来た。
翌朝は朝の鐘の前に目が覚めた。窓がまだ薄暗い。体が軽い。何も考えずに机の上の写本を開いた。昨日の一文がそこにある。
文の終わりの記号から前へ向かって読んでみた。それだけだった。終わりの記号が最初に意味を決めて、その意味が前の記号を1つずつ決めていく。2つの層は前から読むからほどけなかった。後ろから読めば最初から1枚だった。
10分で一文が読めた。昨夜の何時間よりも早かった。
食堂に行くと、2年生の男子学生は昨日と同じ席で同じ一文にまだ苦しんでいた。目はもっと赤かった。声をかけるべきかと迷って俺は結局パンを食べて席を立った。教えればあの人の1年を取ってしまう気がした。
翌日からも俺は夜9時に本を閉じた。3週目の古式はますます速く読めるようになった。
7月24日は闇の日で、学院は休みだった。朝の鐘のあとに寮を出て、丘の石段を下り、町の通りを一回りした。古式の本は寮に置いてきた。ミルフェンに送る手紙に、古式の勉強を始めたこと、夜は9時に寝ていること、食事はちゃんと食べていることを書いた。リリには、本の中に弧ばかりの図があるから、帰ったら見せる、と付け足した。
手紙を出して寮に戻ると、ハインツが寝台で札を眺めていた。
「休みの日まで古式かよ」
「今日は読んでないよ。手紙を書いてきた」
「へえ。珍しく静かな顔してる」
「そう?」
「ここんとこずっと読んでる最中は怖い顔だったからさ」
自分では気づかなかった。俺は笑って、窓の外の丘の緑を眺めた。
試験の前の夜も夜9時に本を閉じた。ハインツは寝台の上から信じられないという顔で俺を見た。
「明日が本番だろ。最後の夜くらいやっとけよ」
「やっても明日の朝に頭が回らなくなるだけだよ」
「そうなのか?」
「この前一文を朝になってから10分で読めたんだ。夜通しやるよりずっと早かった」
ハインツは天井を見て“へえ”と言った。
「じゃあ俺も寝る」
灯りを落とした部屋にハインツの寝息がすぐに聞こえてきた。俺も目を閉じた。
4102年7月28日、水の日。オルブリヒ教授の研究室の机の上に1枚の拓本が広げてあった。古い石の台座に刻まれた回路を紙に写し取ったものだ。黒い線が白い紙の上に密に並んでいる。
「これを読んでもらいます。時間は鐘ひとつぶん」
教授が大きな砂時計を返した。砂が落ちはじめる。
拓本の端から記号を拾いはじめた。右の上の角から一行ずつ記号を指で追う。教授は机の向かいの椅子に座り帳面を開いたまま黙って見ている。窓の外から人の声がかすかに聞こえた。最初の数行は1つずつ確かめながら進んだ。遅い。けれど記号の木は頭の中にできている。10行目あたりから拾う手が速くなった。根になる記号に枝がつながっていく様子が紙の上にそのまま見えた。一行読むごとに別の紙に読んだ順の記号を書き出す。ペンの先が紙をこする音が研究室に続いた。砂時計の砂はまだ上の半分以上が残っている。
拓本の中ほどで手が止まった。回路の途中に継ぎ目がある。板を2つに分ける線がそこで弧を描いて結ばれていた。図書室の写本の図と同じだ。角はどこにもなく線が滑らかに曲がって次の線へ移っていく。セシリアの線に似ていた。いや似ているのではなく同じ流れの先にあるものかもしれない。
“古式の弧は、いまの弧とは違います”。セシリアの言葉を思い出す。確かに違った。線の曲がり始めの所に小さな記号が1つ添えてある。現行の回路にはない記号だった。
「止まりましたね」
教授が静かに言った。
「ここでなぜ止まったのですか」
「この記号の意味を文の終わりから読んだからです。私はこの記号が弧の曲がり方を決めていると読みました」
「根拠は」
「前にある記号の並びがこの記号で意味を持ちます。これがなければ上の線は行き先が決まりません」
教授は帳面に何かを書き込んだ。それからあごで拓本を示した。
「続けてください」
拓本の続きは後ろ半分に入っていた。回路の終わりに近づくにつれて文は長くなる。けれど終わりの記号から読む読み方はもう手に馴染んでいる。長い一文も後ろから読めば1枚の紙のようにほどけた。
1か所だけ、途中で読み間違いに気づいた。回路の手前の部分で、ある記号を前から読んで意味を決めてしまっていた。続きの記号を読み進めると、つじつまが合わなくなる。そこで手を止めて、終わりの記号から読み直し、手元の紙のその行を線で消して書き直した。教授は何も言わず、ペン先の動きだけを見ていた。
砂が落ちきる前に全部を読み終えた。読んだ順に書き出した紙を教授に渡す。教授は端から端まで指でなぞるように確かめていった。
長い沈黙のあと教授が顔を上げた。
「合格です」
紙を机に置いて教授は続けた。
「3週間は前例がありません。分かりません。なぜそれが可能なのか」
「毎晩9時に寝ていました」
教授は少しだけ間を置いた。それからいつもの乾いた声で言った。
「記録には合格の日付だけ書きます」
「はい」
「結果は査定には入れません。最初に言ったとおりです」
研究室を出ると廊下でハインツが待っていた。
「どうだった」
「通ったよ」
「やっぱりか。……3週間であの2年生たちの1年ぶんだぞ」
「ハインツの札のおかげだよ」
「いや札はお前に必要なかっただろ。出題しただけだ」
ハインツは笑って俺の背中をたたいた。
それから俺は図書室へ向かった。あの古い写本を借り出せない。要る頁だけを紙に写して帰省の荷物に入れよう。写すだけなら誰にでもできる。けれど読めて写すのは今日からは俺にもできる。
奥の棚の前にセシリアが立っていた。俺に気づいて本を閉じる。
「古式の今日が認定の日だと聞きました」
「はい。通りました」
「そうですか」
表情は変わらなかった。俺は気づいたことを1つだけ伝えることにした。
「アーデルハイトさんの言っていた違いを1つ見つけました。古式の弧は曲がり始めの所に小さな記号が添えてありました」
「見つけたのならそこから先は自分で考えてください」
セシリアはそう言って本を抱え直し、俺の横を通り過ぎていった。足音が書架の向こうへ遠ざかる。
俺は黒ずんだ革の写本を棚から取って開いた。継ぎ目の図が、窓から差す夕の光の中に静かに浮かんでいた。




