第33話 一枚彫りと継ぎはぎ
八柱暦4102年6月16日、水の日。初演習から1か月がたっても、“3分で止めた1年生”という呼び名はなかなか消えなかった。廊下を歩けば上級生に呼び止められてあの日の線の引き方を聞かれる。紺の腕章をつけた数人は遠くからこちらを見るだけで声をかけてこない。それでも授業は毎日あって俺は夜9時の鐘が鳴るたびに道具を置いていた。
昼の廊下では、2年生の男子学生に呼び止められた。
「3分で止めたって本当? どうやって?」
「力の逃げ道になる線を足してそのあと根線を細くしたんです」
「そんなやり方、教本に載ってないよね」
「はい。載っていません」
男子学生は難しい顔をして去っていった。
放課後の鐘が鳴ると、道具袋を肩にかけて第三演習室へ向かった。後ろからハインツがついてくる。
「本当に見学していいの? 勝負なんだろ」
「アーデルハイトさんが構いませんって言ってくれたんだ」
「あの人が? 邪魔だって追い返されると思ってた」
ハインツは首をかしげてまだ信じられない顔をしていた。
第三演習室は石の壁に囲まれた小さな部屋だった。作業台が2つ並んでいて奥の窓から午後の光が斜めに入っている。机の上には封をした木の箱と、真ちゅうの輪を何個もつなげた物差しと砂時計が置いてあった。その横でインクの汚れた指が帳面を開いている。オルブリヒ教授だった。窓のそばにはセシリアが背筋を伸ばして立っている。
戸を閉めると、セシリアが窓から離れて歩いてきた。俺の前で足を止める。
「約束の日です、ラングナーさん。延ばす理由はありませんから」
「はい。アーデルハイトさん、よろしくお願いします」
本人に向かってその名を呼ぶのは初めてだった。セシリアはほんの少しだけ目を細めた。
「こちらこそ。手加減はしません」
オルブリヒ教授が帳面を閉じた。俺たち二人の顔を順に見る。
「始める前に、決まりを話します」
それから教授は、立会いのことから話しはじめた。
「立会いはアーデルハイトさんに頼まれて引き受けました。私は推薦者として査定の係に入っていますが、この勝負の結果は査定には入れません。いいですね」
「はい」
「構いません」
セシリアが短く答えた。教授は机の上に指を置いた。
「課題は入学試験と同じです。同じ魔石と同じ地金で灯りをともす回路を鐘ひとつぶんで組みなさい。勝負は2つあります。1つ目は魔石の持ち。灯りを強めにして明るさをそろえ、先に灯りが落ちたほうの負けです」
「強めにするのですか」
俺が尋ねると教授は砂時計を指先で軽く押した。砂が細く落ちていく。
「小の魔石でも強い灯りなら半刻ほどでなくなります。今日の時間に収めるためです。2つ目は壊れたときの直しやすさ。組み上がった板の転じ紋の中の線を私が1本だけ髪の毛より細く断ちます。灯りが戻るまでの時間を比べます。方法は問いません。予備の部品を用意しても構いません」
壁際でハインツが“予備ありなんだ”と小声でつぶやいた。教授が咳払いをする。
「魔石はこの箱から出します。念のため1つずつ物差しに通して大きさを確かめます」
教授は封を切って親指ほどの魔石を取り出した。真ちゅうの輪に1つ通すと魔石は小さな輪にちょうど収まって、隣の大きな輪には空きが残る。教授はそれを1つずつ繰り返して通した石を机の上に並べていった。最後の1つを並べ終えたところでちらりと俺のほうに目をやる。
「全部、小です」
「はい」
先月の演習を思い出して俺は口の端が少し上がった。教授は魔石を2つ選んで二人の台に1つずつ置いた。
「一人1つずつ使います。鐘が鳴ったら始めなさい」
壁際の丸椅子に座ったハインツが声を殺して手を振った。
「どっちを応援したらいいか分からないんだけど」
「静かに見てくれればそれでいいよ」
「分かった。息もしない」
「それは困る」
勝つだけの組み方なら本当は分かっていた。魔石の持ちだけを狙うなら板を分けず一枚の板に線をつなげて彫ればいい。けれど俺はそうしない。壊れたときに直せる形が俺の組み方だからだ。どちらを取っても失うものがあることは前の晩に机の上で数えてあった。
作業台は部屋の左と右に1つずつあった。セシリアは右の台に俺は左の台に着く。互いの手元は背中合わせで見えない。
外で神殿の鐘が鳴りはじめた。
最後の一打が消えるのを待って俺は本体の板に最初の線を引いた。
背後からたがねの音が聞こえてくる。こつ、こつ、と一定の間隔で、迷いがなかった。振り返らなくても分かる。セシリアの手は一度も止まっていない。一枚の板の上で線がひと続きに伸びていくのだろう。対する俺は本体の板と量り板を別々に刻んだ。この2枚は試験のときと同じだ。
違うのは転じ紋だった。渦の部分だけを小さな板に刻んで本体の中央にあけた窓にはめる形にする。そして同じ渦をもう1つ予備として刻む。継ぎ目が増えれば魔石はそのぶん余計に減る。分かっていて選んだ。渦の中の1本のために板ごと作り直す羽目になるのはもっと嫌だった。
銀ごての柄の底に触れると先が赤くなる。魔導銀の棒を当てて渦の線を一本ずつ流していく。1つ目の渦を刻み終えたところで2つ目に移った。同じ形を、同じ太さで、同じ向きに。手は勝手に動いたが目だけは線の端から端まで離さなかった。髪の毛1本ぶんのずれがあとで魔石の減りになるからだ。
背後で銀ごてを引く細い音がした。線を引き終えるたびにひと呼吸おいて次の線へ移る。その間合いがまるで歌っているように規則正しかった。同じ時間に俺は一本ずつ線をつなぎ、止まり、確かめている。
鐘ひとつぶんの時間が終わる少し前に2枚の板と2つの渦が組み上がった。本体の窓に渦をはめて量り板を差す。魔石を台に置いて金具を締めた。
「できました」
「私もです」
背中合わせのまま二人の声が重なった。オルブリヒ教授が立ち上がって俺の台とセシリアの台を順にのぞきこむ。
「では灯りをともしなさい」
魔石に触れると板の中央から淡い光が立ち上がった。後ろの台でも同じ光がともる。教授は灯りの向きを壁に合わせさせ、白い壁から同じ距離のところに二つの灯りを並べさせた。強めの灯りで壁が白く照り返している。それから指を立てて壁に映る影の濃さを見比べる。
「ラングナー君のほうがほんのわずかに明るい。量り紋の縁を髪の毛1本ぶん削りなさい」
言われたとおりに削ると影の濃さが同じになった。教授が頷く。二つの灯りは壁に並んだ。同じ明るさなのに色合いがわずかに違って見える。セシリアの灯りは澄んだ白で、俺の灯りは少し黄みがかっていた。魔石の負担が色に出ているのかもしれないと思ったが、確かめる方法はない。
「ここから灯したまま置きます。先に落ちたほうの負けです。触れてはいけません。私が見ています」
待つあいだ俺は部屋の隅に立っていた。もう一度あの線を見たかった。思い切って近づいて声をかけた。
「アーデルハイトさん。板を近くで見てもいいですか。触りません」
「どうぞ。傷をつけないでください」
台に灯る一枚の板をのぞきこんだ。線は渦の外側から内側へ迷いなくつながっていた。
そこまで見たところで頭の中で線の流れが図になった。力は線に沿って静かに進み、曲がり角に来るたびに角を取るようにゆるい弧を描いて向きを変える。俺の板の曲がり角は鋭い角のままだった。角のある所では力の流れがほんの少し膨らんで淀む。弧にしてしまえば淀みは生まれずそのまますべっていく。
なるほどと思った。この曲がり方は魔石に効く。
「何を見ているのですか」
「線の曲がり方です。どこにも角がないので」
セシリアは返事をしなかった。ただ、台の上の灯りを見つめたままだった。
砂時計が返されるたびに教授が帳面に線を1本ずつ引いていく。20本を過ぎたころ俺の灯りが黄ばんでかすかに揺れはじめた。
25本目の砂が落ちきったとき、灯りがふっと消えた。
「ラングナー君、25分」
セシリアの灯りはまだ澄んだ白のままだった。さらに5本の線が引かれる。
30本目の砂が落ちきったとき、後ろの台の灯りもすうっと消えた。
「アーデルハイトさん、30分。魔石の持ちはアーデルハイトさんの勝ちです」
ハインツが“あ”と小さな声を漏らしてあわてて口を押さえた。セシリアは表情を変えずに俺のほうを向いた。
「私の勝ちです」
「はい。継ぎ目のぶんだと思います」
「分かっていて予備まで作ったのですか」
「作りました。理由は次の勝負で分かると思います」
セシリアの眉がほんの少しだけ動いた。それ以上は何も聞かず台の灯りに目を戻した。
教授は帳面を閉じて机の引き出しから細い針を2本取り出した。新しい魔石を箱から出して物差しに通してから二人に渡す。
「次の勝負です。断つ場所は私しか知りません。二人とも窓のほうを向いて私がいいと言うまで振り返らないこと。ハインツ君も声を出さないように」
「は、はい」
ハインツが椅子の上で背を伸ばす。俺とセシリアは新しい魔石で灯りをともしなおして窓の前に並んで立った。外は午後の光で明るくて庭の木の葉が風でゆれている。
背後で針の先が金属に触れる小さな音が2回した。ちり、という乾いた音だった。
「どちらも断ちました。灯りは消えているはずです。振り返りなさい」
振り返ると俺の台の灯りは消えていた。セシリアの台も同じように暗い。教授が机に置いた砂時計をひっくり返した。1分で落ちきる小さな砂時計だった。
「始め」
俺は台に向き直って、ひとつ息をついた。魔石を外して安全のために脇へ置く。教授は転じ紋の中の線だと言った。ほかの場所ではない。ならば直す必要はなく替えればいい。慌てることはなかった。予備は、手の届く所に置いてある。
本体の窓の縁に爪を当てて渦の板を静かに抜き取った。机の脇に置いていた予備の渦を手に取る。裏返して拡大鏡で線を端から端までなぞった。予備のほうにうっかり傷が入っていることはないか。確かめるのに少しかかる。
線は無事だった。窓にはめる。かちりと音がして渦の板が収まった。魔石を戻して金具を締める。
ぱっと板の中央から光がともった。
砂時計は、2度目の砂が落ちきるところだった。
「ラングナー君、2分」
教授の声が静かに響く。ハインツが歓声を上げかけて教授の視線で口をつぐんだ。俺は息を吐いて外した渦の板を手に取った。
セシリアのほうはまだ暗いままだった。彼女は拡大鏡を目に当てたまま渦の線を一本ずつ追っている。髪の毛より細い断ち目を探して指先が板の上をゆっくり動く。
砂時計が3度、4度とひっくり返される。自分の板ならどこが壊れても見つけられる。セシリアはそう思っているのだろう。事実、彼女は迷わず渦の外側から調べていた。ただ一枚の板では探す場所が渦のなかの何十本もの線のどれかになる。
5度目の砂が落ちきったとき、セシリアの指が止まった。渦の内側から3本目の線の途中だった。
「見つけました」
そこからが長かった。断たれた線を埋めるには魔導銀を針の先ほどだけ置く必要がある。多すぎれば隣の線とつながってしまう。つながれば渦の働きが変わって板が使いものにならなくなる。セシリアは銀ごての先を近づけ息を止めてまた離した。もう一度近づける。隣の線との間にほんの髪の毛1本ぶんの隙間しかない。
6度目の砂が落ちた。7度目も落ちた。
俺は手元の外した渦に目を戻した。教授は“方法は問いません”と言ったが、予備の部品を使ったという事実だけでは勝ったことにならない気がした。壊れたものは直せなければ意味がない。
頭の中の図に断たれた線が途切れた一本として浮かんでいる。位置は迷わなかった。銀ごての先を細い溝に当てて針の先ほどの銀を流す。隣の線との間は髪の毛1本ぶんあいていたが、触れずに済んだ。直した渦を机の端に置いてあとは手を組んで待った。
部屋のなかでは誰も声を出さなかった。ハインツの膝が小刻みに揺れている。教授が一度だけ目を向けると膝はぴたりと止まった。
10度目の砂が落ちきったとき、セシリアが銀ごてを置いた。
「できました」
魔石を戻すと板の中央から光が立ち上がった。安定したぶれのない光だった。教授が手を上げる。
「アーデルハイトさん、10分。判定します。魔石の持ちはアーデルハイトさん。直しやすさはラングナー君。どちらが上かは分かりません。引き分けです。記録します」
オルブリヒ教授は机の上の砂時計と帳面を木箱に収めて蓋を閉めた。
「私は箱を戻してきます。ハインツ君、手伝ってくれますか」
「え、俺ですか? あ、はい」
ハインツは立ち上がって箱の片方を持ち、教授について戸の外へ出ていった。閉まる前に木箱の重さに顔をしかめるのが見えた。
部屋にセシリアと二人だけが残った。
セシリアは自分の板から目を上げて、俺の台の窓に収まった予備の渦を見た。灯りが戻ったのは、部品ごと差し替えたからだ。それが引っかかっているらしい。
「あなたの板は、直ったのではありません。替えただけです」
負け惜しみには聞こえなかった。本当に直したと言えるのか、確かめる言い方だった。俺は机の端に置いた渦を取り、窓にはまっていた予備を抜いて、直したほうをはめた。魔石に触れると光がともる。
「はい。替えるために継ぎ目を作ってそのぶん魔石を余計に食いました。さっき見たとおりです。でも外したほうもこうして直せます」
セシリアは灯りを一度だけ見てから数字を並べるように言った。
「あなたの形は継ぎ目で魔石を2割ほど余計に食います。美しくないのは変わりません。そのうえで、数字で言えば損です」
言葉は冷たかったが数字は正しかった。30分と25分の差をセシリアは正確に言い当てている。5分は短い。けれど魔石を買うのは使う人で、毎日の灯りに積もれば、損はそのまま誰かの財布から出ていく。
「その損は認めます。減らす方法を考えます」
セシリアは自分の台を見下ろした。
「それから、直す速さも認めます。私の板ではあの傷を2分では直せません。10分かかりました。夜中に灯りが消えてすぐに直したい人にはあなたの形のほうが役に立ちます」
「ありがとうございます」
礼を言いながら気になっていたことを聞いた。
「アーデルハイトさんの線はどこにも角がありませんでした。あれは魔石の持ちに効いているんですか」
「はい。角で力がわずかに逃げるので曲がりは必ず弧にします。家で、そう教わりました」
「継ぎ目の形に使えるかもしれません。継ぎ目の角を丸くすれば損が減る気がします」
セシリアの眉がほんの少しだけ動いた。それからわずかに顔を横に向ける。
「それはあなたが考えることです」
教えてもらった、と言うべき場面だったが、セシリアの顔を見て言わないことにした。
「ラングナーさん。入学式の私の挨拶を覚えていますか」
「はい。一人にしか読めない術式を終わらせたくないと」
「私の家の書はどれも一枚彫りです。どこが何をする線なのかは書かれていません」
セシリアは窓の外を見たまま静かに続けた。
「線を写すだけなら誰にでもできます。ですが、壊れたときに直せるのは私だけです。私がいなくなればその書は誰にも直せません。あなたの分け方なら、他の人にも直せる形にできるかもしれない。だから確かめたかったのです」
自分にしか直せないものは、その人がいなくなれば止まってしまう。入学式の日に思ったことがそのまま戻ってきた。
「確かめたいことは同じなのかもしれません」
「まだ分かりません。結論は出していません」
セシリアは俺のほうへ顔を向けた。灰色がかった青い目がまっすぐ俺を見ている。
「次の機会にまた比べさせてください」
「はい。いつでも」
それだけ言うとセシリアは自分の道具を黒い革張りの箱に片づけはじめた。幅の違うたがねが順番に静かに収まっていく。
俺も自分の板と渦を道具袋にしまった。戸を開けると廊下の窓から夕の鐘が聞こえた。夜9時までにはまだ時間がある。階段を下りながら俺は指先でさっき見た線の弧の形をなぞってみた。




