第32話 暴走する炎環
八柱暦4102年5月13日、火の日。入学から3週間がたった朝、俺はハインツと並んで学舎の丘の坂を下り実習棟へ向かっていた。道の両側の木はすっかり緑になり石畳には朝の鐘の余韻がまだ残っている。
「例の壁見た? 実習棟の壁」
「まだだよ。焦げたっていう所?」
坂の途中で、ハインツが両手で空に四角を描いた。
「今は新しい石で継いであるんだ。そこだけ白いから行けばすぐ分かる」
「去年のあとで直したんだね」
「直しただけでなんで焦げたのかは誰も教えてくれないけどな」
ハインツは肩をすくめた。鍛冶屋の三男だけあって火の話になると声が真剣になる。
実習棟は灰色の石を積んだ平屋で思ったより横に長かった。大きな扉を押し開けると天井の高い広間が目の前に開けて足音がよく響く。広間の真ん中には直径2メートルほどの灰色の石の円盤が据えられていた。表面には魔導銀の細い線が輪の形に刻まれていて、窓からの光を受けて鈍く光っている。入口に近い手前の縁には魔石を置く台があり奥の縁には厚い鉄の板が埋めこまれている。鋳型を冷ますための受け鉄だ。床には円盤から5メートルほど離れて白い線が引かれ、新入生48人はその外に並ぶことになっている。
ハインツがあごで右手の壁を示した。言われたとおり、壁の一部だけ石の色が白い。継ぎ目のまわりには消しきれなかった黒い跡がうっすらと残っていた。
「あれが去年の」
「うん。ここまで焦げたんだね」
ハインツは壁から目を離さずに声を落とした。
「しかも今年も去年と同じ形の加熱の輪を使うらしい。教本どおりだからってさ」
「教本どおりなら安全ってことかな」
ハインツが口をゆがめた。
「だといいけどな」
小声で話していると広間の奥の戸が開いて背の高い男が入ってきた。黒い上着で髪は白い。入学式で壇に立った学院長も白髪だったが、こちらはずっと若く60を少し過ぎたくらいに見える。試験のとき俺の台の前で眉をひそめた人だった。
「各自の道具は足元に置くこと。演習のあとで線を測らせる」
低い声だった。新入生が腰の袋やかばんを床に置く。俺も革の道具袋を足元に下ろした。
「これは炎環と呼ぶ。輪の力を円盤の中央に集めて上に置いた鉄の塊を熱する仕掛けだ。鍛冶場の大きな加熱台と同じ働きをする」
円盤の中央には抱えるほどの鉄の塊がすでに据えられていた。白髪の教授は円盤のほうへ手を伸ばした。
「刻んだのは3年のユルゲンだ。標準の教本の図のとおりに組んである。魔石も教本の指定どおり拳より小さいものを使う。君たちは動くところを見て気づいたことを報告に書く。手は出さない。いいな」
「はい」
48人の声がそろって広間に響いた。
新入生の一人が手を挙げて“質問はよろしいでしょうか”と言ったが、教授は首を振った。
「終わってからだ」
前の列に、結い上げた金色の髪の後ろ姿がある。セシリアだった。壁際には紺の腕章をつけた上級生が数人並んでいて、彼女に向かって小さく会釈をした。
ハインツが俺の脇腹を肘でつついた。
「あれが伝統派の先輩たち。紺の腕章のやつはだいたいそうだ」
「よく知ってるね」
「寮の噂は、先に俺のところへ集まるんだ」
セシリアが一度だけ振り返った。灰色がかった青い目が俺をとらえてすぐ正面に戻る。俺は円盤の線に目を移した。輪は手前の魔石台から右と左に分かれて円盤の縁をめぐり、奥で1本に合わさって中央へ向かっている。見ているうちに線の流れが頭の中で図になった。形としてはどこにも不審な所はない。標準の教本の形というのは本当らしかった。
白髪の教授に名を呼ばれて、紺の腕章をつけた3年生が魔石の箱を抱えて円盤の脇に立った。この人がユルゲンらしい。
ユルゲンは箱の中から魔石を1つ選んで魔石台に置いた。ねじ回しで押さえの金具を締めると小さな音を立てて魔石が台に固定される。ユルゲンが数歩下がって手をかざした。
円盤の縁を淡い橙色の光が走りはじめた。広間の空気がじわりと温まってきた。光は魔石台のところで右と左に分かれ、輪に沿ってゆっくり円盤の縁をめぐっていく。新入生のあいだから小さな声が漏れた。やがて光は奥で出会い中央に向かって細く伸びた。鉄の塊の底がぼんやりと赤みを帯びる。
「きれいだ」
ハインツが息を吐くように言った。実際に輪の灯りはきれいだった。橙色の光が一定の速さで回っていて見ているだけで落ち着く。
白髪の教授が円盤のほうを向いたまま言った。
「鉄が赤くなるまでおおよそ1分。そこまでは何も起きない。そのあとの変化をよく見ておきなさい」
鉄の塊が赤から橙へ変わりはじめたとき、奥の一点の光が白くなった。
最初は針で刺したような小さな点だった。それがひと息のうちにふくらんで指の幅ほどの白い筋になる。ぴし、と石が鳴った。鉄の塊は見る間に赤から黄へ近づいていく。輪を回っていた光が奥に近づくたびに速さを落としているのが分かった。詰まっているのだ。
「魔石を抜け」
白髪の教授の声がさっきより低くなった。ユルゲンが鉄の棒を魔石台の金具に差しこんで全身で引く。金具は動かなかった。魔石が自分で熱を持って金具を膨らませ台にかみこんでいる。ユルゲンの革の手袋の先から煙が上がった。
「抜けません!」
白髪の教授は円盤から目を離さなかった。
「全員壁まで下がれ」
円盤の上の鉄の塊は黄色く透け、そのまわりの空気が揺れて向こうの壁が波打って見えた。新入生が悲鳴を上げて後ろへ下がる。誰かが“水だ”と叫んだ。
「かけるな。熱い鉄と石が割れて飛ぶ」
人の波が壁のほうへ流れていくなかで、俺は足を止めた。
頭の中の図がさっきよりはっきり見えていた。右の枝と左の枝は奥の一点で同じ太さの1本に合わさっている。左右から来た力がそこで重なって、通れる量の倍が1本の線に押しこまれている。白いのはその1点だけだった。教本の形は拳より小さい石の力でちょうど通れるように、ぎりぎりに作られている。今、台に入っているのはそれより少し大きい石かもしれない。
ハインツが俺の腕を引いた。
「テオ、下がれ」
「ハインツ、数えてほしいんだ」
「は?」
「ゆっくり百八十。途中で止まらないで」
ハインツが目を丸くした。
「百八十って3分かよ」
「俺が終わるまで。止められると思う」
ハインツの顔がこわばった。俺は腕を外して前に出た。
「お前、死ぬ気かよ」
無理に口の端を上げてみせた。
「死ぬ気はないよ。夜9時までには寮に帰りたいんだ」
俺は白髪の教授のほうへ向き直った。
「教授。私に3分ください。止められます」
「下がりなさい。手を出すなと言ったはずだ」
「魔石は抜けません。教本に抜く以外の止め方はないと思います。でも壁まで48人を出しきる前に石が割れます」
ぴしぴし、と円盤の表面に細いひびが走った。白髪の教授が円盤を見て口を結んだ。
「何をする気だ」
「力の行き場を作ります。合流の手前から奥の縁の鉄の板へ線を引きます。逃がし線と呼びます。そのあと魔石台の脇の根線を髪の毛ほどに細くします。身代わり線です。強すぎる力で細くした所が自分で焼き切れて止まります」
「合流の手前で逃がせば板がその分を受けるというのか」
「はい。受け鉄は厚いのでしばらくは持ちます。その間に根線を細くします」
白髪の教授は円盤の奥の縁を見やった。
「なぜ逃がし線が先なのだ」
「根線を細くしても削り終える前に合流が割れるからです」
ユルゲンが叫んだ。
「勝手に線を足すな! 教本にない形だ!」
目はひびの走る円盤に向けたまま答えた。
「教本の形だから止まらないんです」
言い返すつもりはなかったが口から出ていた。ユルゲンが口をつぐむ。また石が鳴った。白髪の教授が数拍だけ黙った。
「3分だ。それ以上は私が全員を壁の外まで下げる」
「ありがとうございます」
俺は足元の袋から銀ごてと木槌と細いたがねを出した。細いたがねは線を削る道具で石に溝を彫るには刃の幅が足りない。袋を探る手が一瞬止まった。
壁に下がらず列の端で足を止めていたセシリアが、黒い革張りの箱を開けて歩み寄ってきた。たがねが幅の違う順にきちんと並んでいる。
「ラングナーさん。幅の広いものが要るのでしょう」
彼女は中の1本を抜いて持ち手を俺に向けて差し出した。
「貸すのは一度だけです。傷をつけないでください」
「ありがとうございます。お借りします」
ユルゲンが何か言いたげに口を開いたが白髪の教授が手で制した。
受け取った持ち手は手になじむほど磨かれていた。
「始めるよ。数えて」
ハインツが唾をのみこんだ。
「……いち、に、さん」
ハインツの声が震えていた。俺は銀ごての柄の底の魔石に触れた。先が赤くなる。
逃がし線は合流の手前、右の枝の途中から出す。円盤の奥の縁までは30センチほどだ。鉄の塊の熱が顔を焼いた。線と石そのものは魔導銀が溶ける温度よりずっと低いのに、上に載った鉄が黄色く透けて息を吸うたびにのどが渇く。幅の広いたがねを石に当て尻を木槌で打って溝を彫っていく。削り屑が飛んでくる。目に入らないよう片目を細めた。
「十一、十二、十三」
石は熱で硬く1回打つたびに手首に響いた。溝は線の幅の倍ほどで足りる。浅くてもつながっていれば力は通る。右の枝の途中を削って口を開け、そこから奥の縁へまっすぐ溝を伸ばす。
「二十八、二十九」
前世で止まらなくなったものを止める夜を何度も過ごした。そういうとき頭の中は不思議と静かになる。やることを順に並べて1つずつ片づけるだけだ。
奥の縁の鉄の板に溝が届いた。銀ごての先で魔導銀の棒を溶かし溝の始めから流しこむ。銀は溝の底をすべって鉄の板まで一息に走った。
「五十八、五十九、六十」
つながった瞬間に白かった合流の光がすっと一段落ち着いた。鉄の板が低くうなってほんのりと熱を帯びる。力の一部が板に流れて熱に変わっているのだ。板のまわりの空気が揺れて手をかざせないほど熱くなっていく。合流の白い筋は消えない。だがさっきまでの勢いはなかった。
「次は手前だ」
自分に言い聞かせて円盤の縁を回った。左側を通ると熱い風が頬に当たる。壁際の新入生の列が目に入った。誰も声を出さず息を止めてこちらを見ている。その列の端で、セシリアは黒い箱を開けたまま、合流のあたりから目を離さずにいた。
魔石台の脇まで来ると押さえの金具が熱で膨らみ魔石にかみついていた。その手前の根線の上に細いたがねの刃を立てる。根線は太い。断ち切るには時間がかかりすぎる。だから髪の毛ほどの細さまで削る。細い所が強い力で自分から切れてくれればいい。
「九十五、九十六」
1回削ると線の幅が半分になった。2回目で針の先ほどになる。細くなった所が赤く透けはじめた。
「百三十」
削る手を止めずに声をかけた。
「ハインツ、あと少し」
返事は震えていたが、数える声は途切れなかった。
「分かってる」
3回目でたがねを引くと削り跡が髪の毛の太さに見えた。線がそこだけ赤く光っている。後ろでユルゲンが何か言いかけて息をのむ音がした。
「百五十」
ぷつ、と小さな火花が散った。
根線に約1ミリのすき間が開いていた。輪を回っていた光が魔石台から順に消えていく。右の枝も左の枝も奥の合流も、最後に中央の鉄の塊の底の赤みがゆっくりと引いた。石の鳴る音が止まる。
「百六十二」
ハインツが数え終わらないうちに広間は静かになった。
しばらく誰も動かなかった。鉄の塊が冷えていく音だけがかすかに聞こえた。俺は銀ごての柄の魔石から指を離し先が暗くなるのを確かめた。両手が少し震えている。熱のせいだと思うことにした。
壁際から新入生が少しずつ戻ってきた。ユルゲンは床に座りこんだまま自分の手袋を見ている。白髪の教授が円盤に歩み寄って奥の縁に身をかがめた。逃がし線の溝を指でなぞり根線の細くなった所の前で長く動かなかった。
「教本にない」
「はい」
「誰に教わった」
「家の修理店で似た形を使っています。細い所をわざと作っておくんです」
白髪の教授は黙って立ち上がった。それからユルゲンが抱えていた魔石の箱を持ってこさせ、中の石を1つずつ手に取って並べた。小さな石ばかりが並ぶなかに、1つだけひと回り大きな石が混じっていた。
「台に入れたのはこれか」
ユルゲンが顔を上げた。
「……はい。取り違えました」
ユルゲンの声はかすれていた。白髪の教授は石を箱に戻した。
「箱の仕分けを確かめなかった私の落ち度でもある。だが去年も同じ合流が焼けた。教本の形が小さな石の余裕しか持たないことを私は疑わなかった」
新入生たちのあいだにざわめきが広がった。教授が学生の前でこう言うのは珍しいことなのだろう。白髪の教授は俺のほうを向いた。
「ラングナー。手を出すなと言った私の言葉を破ったのは事実だ。止めたのも事実だ。どちらも記録する」
「はい。申し訳ありませんでした」
「謝らなくてよい。今日の報告は書かなくてよい。解散」
壁際で新入生の誰かが小声で言うのが聞こえた。
「あの一年、今何をしたんだ」
査定にどう響くのかは言われなかった。それでいいと思った。記録に残るならあとで誰かが同じ合流を見たときに役に立つ。
広間が人の声でいっぱいになった。ユルゲンが立ち上がって俺の前に来た。
「……助かった」
頭を下げられて、慌てて首を振った。
「いえ。先輩の手が無事でよかったです」
「怒られるのは私のほうだと思っていた」
ユルゲンはそれ以上は何も言わず一礼して広間を出ていった。
ハインツが駆け寄って俺の肩をつかんで揺すった。
「テオ! おい、すげえじゃないか。手、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。数えてくれてありがとう」
「声、裏返ってたよな、俺」
「少しだけね」
ハインツが耳まで赤くなった。
「言うなよ」
俺は借りたたがねの刃を布でふいて、傷がないのを確かめてからセシリアの前に持っていった。
「ありがとうございました。傷はつけていません」
セシリアは受け取って刃を窓の光にかざした。それから静かに箱の中の元の位置へ戻した。
「壊れたのはあなたの回路ではありませんでしたね」
「はい」
「ですが直す所は見ました」
「ありがとうございます」
セシリアは箱の縁に指をかけたまま、視線だけをこちらへ向けた。
「あの細い所を作る考えはいつ思いついたのですか」
「11歳のときです。町の修理屋で、手あぶりが暴発しかけたので」
「11歳」
セシリアは箱の蓋を閉じた。冷たい声は変わらなかったが視線は円盤の奥の縁から離れていない。
「来月、術式比べを申し込みます。受けますか」
「受けます」
「そうですか」
それだけ言うとセシリアは箱を持って広間の出口へ歩いていった。ハインツが俺の袖を引く。
「あれ、喧嘩じゃなくて約束のほうだよな」
「うん。たぶん」
その日の夕の鐘が鳴るころには俺の呼び名が寮じゅうに回っていた。
食堂で顔も知らない上級生が俺の盆を見て笑った。
「あれが、3分で止めた1年生だ」
席に着いたハインツがふふんと鼻を鳴らす。
「な? もう名前が回ってる。言ったとおりだろ」
「そんなこと言ってなかったよ」
「言ってないけどそうなると思ってたんだ」
ハインツはパンを半分に割って身を乗り出した。
「それよりさ、あの細い線、お前の家の店でやってるやつなんだろ? 俺にも教えてくれよ」
「いいよ。夜9時までならね」
ハインツの目が食堂の奥へ動いた。紺の腕章の上級生たちが同じ長椅子に並んで食事をしている。こちらを見る者はいなかったが誰も笑っていなかった。去年も同じ合流が焼けたのに誰も細い所を作ろうとは言わなかった。教本が正しいものだったからだ。正しいと信じたものは、疑われない。
ハインツが声を落とした。
「面白く思わない先輩もいるぞ。気をつけろよ」
「うん」
夜9時の鐘が鳴る前に俺は机に向かって家への手紙を書いた。
『父さん、母さん、リリへ。実習棟で少し大きな仕事をしました。けが人はいません。夜9時に道具を置きました。ご飯もちゃんと食べています。テオ』
封をして戸口の箱に入れに行く。戻ってきて銀ごてを袋にしまうと鐘が鳴った。廊下の灯りがぱちりと落ちる。
寝台に入ると両手の震えはもう止まっていた。隣の寝台からハインツの寝息が聞こえてきた。




