第31話 入学の日
八柱暦4102年4月17日、光の日。試験から2日がたった朝、俺はハルトマンさんに連れられて学舎の丘の上にある学院へ向かった。教授の研究室を訪ねるためだ。坂道の石畳は朝露で濡れていて道の両側には灰色の石造りの建物が並んでいる。どの窓の奥にも回路板をのぞきこむ人影があった。
研究室の戸の前で俺は先に声をかけた。
「テオドール・ラングナーです。お招きにあずかりました」
「どうぞ」
戸を開けると紙の束が床から腰の高さまで積み上がっていた。奥の机では灰色の髪をまとめた教授が立ち上がっている。
「紙の山は崩さないように気をつけてください。並べ直すのに3日かかります」
「気をつけます」
紙の山のあいだを横歩きで抜けて机の前の椅子に座った。隣にハルトマンさんが腰を下ろす。教授は一枚の書類を手に取った。
「結果をお伝えします。合格です。ただし第一学年の評価は学年末の査定で決めます」
「査定ですか」
「審査が割れました」
教授は書類を机に置いた。
「部品に分けて組み直す形は標準の教本に前例がない、という意見が出ました。白髪で背の高い男の方です。覚えていますか」
「はい。私の台の前で足を止められた方です」
「査定はこの1年の演習の成績と学年末の実技で行います。係は私を含めて3人です。白髪の男の方もその一人です」
「そうなんですか」
「私は推薦者として査定の係に加わっています。ラングナー君が結果を出せば私がそれを見ます」
「そんな、テオくんは合格なのに! 査定なんて試験をもう一度やるようなものじゃないですか。しかも前例がないというだけで、あの回路は実際に動いて、動いただけでなく分けてあるから直しやすいという大きな利点が――」
ハルトマンさんが椅子の端に腰を浮かせた。俺は思わず笑ってしまった。
「ハルトマンさん。続きはあとで聞きます」
「あ、はい。すみません」
ハルトマンさんは赤くなって座りなおす。俺は教授のほうを向いた。
「構いません。結果はあとで出せますから」
「首席はセシリア・フォン・アーデルハイトです」
教授は表情を変えずに続けた。
「灯りの明るさはほぼ同じでした。魔石の持ちは彼女の回路が上でした」
「はい。そう見えました」
「悔しくありませんか」
「悔しいです。でも魔石の持ちなら直せます」
あの隣の席で見た板の端から端まで一続きの線が頭に浮かんだ。あの線に勝てる所はきっとある。まだ見つかっていないだけだ。
教授はほんの少しだけ口の端を動かした。笑ったのかどうかは分からない。
「入学式は22日です。寮には19日から入れます。3階の7号室を取ってあります。寮監には私から話を通しました」
「ありがとうございます」
「最後に一つ。学院には派閥があります。入学すればどれかに誘われるでしょう。誘いを受けるかどうかはラングナー君が決めてください。私は何も言いません」
「分かりました」
研究室を出るとハルトマンさんが廊下で大きく息を吐いた。
「査定のこと、私もっと怒ると思っていたんです。でもテオくんはずっと落ち着いていましたね」
「怒っても点は増えませんから」
「私は本院に戻りますが、何かあればいつでも手紙をください。ミルフェンのご家族にも私から一言お伝えしましょうか」
「手紙は自分で書きます。母さんと約束していますから」
そう答えながら胸の奥は少しだけ熱かった。悔しいのは本当だ。ただミルフェンで数えることを覚えたおかげで、悔しさを数字に変えられるようになっただけだ。
その夜、本院の宿舎の机で俺は家への手紙を書いた。夜9時の鐘が鳴る前に終わらせる。母さんとの約束で週に1度は必ず書くことになっている。
『父さん、母さん、リリへ。試験は合格しました。ただ評価は学年末の査定で決まるそうです。部品に分ける形は学院の教本にまだ前例がないからです。結果を出して査定を通します。夜9時には道具を置いています。ご飯もちゃんと食べています。テオ』
封をして宿舎の戸口の箱に入れた。ミルフェンに着くのは早くても3日後だろう。リリが読んで返事を書くと言っていた。その返事が楽しみになっている自分に少し驚いた。
4102年4月19日、火の日。学院の寮は学舎の丘の東側に建つ石造りの四階建てだった。門の前に着くと、見覚えのある制服の人影が大きく手を振っていた。
「テオ! こっちこっち」
姉のエマだった。王都の第二騎士団の見習い騎士で、俺が王都にいるあいだは家族の代わりになってくれる人だ。最後に会った3年近く前より背が伸びて制服の肩幅も広くなっている。
「姉さん。迎えに来てくれたの?」
「非番だからね。……なんだ、顔色いいじゃない。査定つきなんだって? ハルトマンさんから聞いたよ」
「うん。学年末に結果を出せばいいんだ」
「テオらしいね。家のみんなは元気?」
「元気だよ。リリは見張りを続けるって張り切ってる」
「あの子らしいね。はい、差し入れ」
エマは紙袋を突き出した。中から甘い匂いがする。焼き菓子だ。
「日持ちするやつを選んだから夜中にこっそり食べないこと。困ったら第二騎士団の詰め所に来な。門番に私の名前を言えば取り次いでくれる」
「分かった。ありがとう」
エマは俺の頭をぐしゃりとなでて手を振りながら坂道を下っていった。
寮の玄関の帳場には中年の女性が座っていた。きびきびした目つきで帳面から顔を上げる。
「今日から入寮します、テオドール・ラングナーです。お世話になります」
「寮監です。ラングナーさんですね。3階の7号室です。夜9時には廊下の灯りを落とします。それ以降の物音は慎むこと」
「はい」
階段を上がって7号室の戸の前に立ち戸をこんこんと鳴らした。中から「開いてるぞ」と声が返ってくる。
「失礼します」
2人部屋だった。窓際の寝台の横で荷を解いていた少年が振り向く。ぼさぼさの茶色い髪で袖をまくった腕は細いのに、指だけが節くれだっていた。
「お、来たな。同室のハインツだ。よろしく」
「テオだよ。よろしく」
「査定つきで入った奴がいるってもう寮じゅうで噂になってるぞ。お前だろ」
ハインツは笑いながら空いている寝台を指さした。
「俺は王都の下町の鍛冶屋の三男。成績で学費を免除してもらった奨学生だ。手を動かすほうが得意だから実務派寄りだな」
「実務派?」
「学院には3つの顔があるんだよ。一枚彫りの美しさと秘伝を重んじる伝統派。工房や現場で使える術式を重んじる実務派。理屈を突き詰める研究派。新入生はたいていどれかに誘われる」
「ハインツはどれに誘われた?」
「実務派だけだな。伝統派は俺みたいな下町の鍛冶屋の息子には声をかけない」
あっけらかんとした口ぶりだった。荷を解き終えると夕の鐘が鳴った。ハインツに連れられて1階の食堂へ降りた。長い卓に麦の粥と焼き魚が並んでいる。
「あの紺の腕章の連中は伝統派の上級生だ。目を合わせるな」
「どうして?」
「査定つきの奴はだいたい絡まれる。……ほら、見てる」
隣の卓の紺の腕章の何人かが確かにこちらを見ていた。俺が顔を上げると目をそらして食べ続ける。粥の温かさだけがやけにはっきり分かった。
部屋に戻ると俺は最後の包みを開けた。部屋には寝台と机が二つずつ壁には作り付けの棚がある。窓からは丘の斜面とその下に広がる王都の屋根が見えた。壁の魔導灯は丸いガラスの覆いでつまみで明るさを変えるふつうの型だ。ただ窓の外が暗くなるにつれて、その灯りが数十数えるごとに一度ちらつくのが気になった。
「その灯り、前から?」
「さっきからずっとこうなんだ。寮監に言ったら前からだそうで修理は来月まで来られないって」
ちらつくたびに隣の部屋の壁の向こうから低いうなりが聞こえる。暖房具が動く音だ。うなりが始まると少しあとに灯りが揺れる。
その二つが同じ間隔で重なっていることに気づいた瞬間、頭の中に壁の裏の線が図になって浮かんだ。この部屋の灯りの線と隣の部屋の暖房具の線がどこかで一本につながっている。
「壁の覆いの中を見てもいいかな。寮監に断ってからだけど」
「勝手にいじると怒られるぞ。寮監、厳しいんだ」
「だから先に断るよ。一緒に来てくれる?」
帳場に降りて事情を話すと寮監は帳面から目を上げた。
「見るだけなら構いません。覆いは私が鍵を開けます」
3人で7号室に戻った。寮監が壁の下の覆いの鍵を開け、俺は膝をついて中をのぞいた。思ったとおりだった。魔導銀の太い線が壁の中を走り、その途中で隣の部屋へ向かう線とこの部屋の灯りへ向かう線に分かれている。分かれ目が継ぎ足したように雑だった。
「寮監さん。ここで隣の暖房具の線と、この部屋の灯りの線が、力を運ぶ太い線を一本分け合っています。向こうが動くたびに力を取られてこちらがちらつくんです」
「太い線を分け合っている」
「前の改修でそうなったんだと思います。暖房具が増えたときに近くの太い線に継ぎ足してしまった。暖房具の線を別の太い線につなぎなおせば、ちらつきは止まります」
寮監は腕を組んでじっと覆いの中を見た。
「直せるのですか」
「15分で終わります。道具は自分のを使います。線を引きなおすだけです」
「……やりなさい。私が見ています」
俺は革の袋から父さんにもらった銀ごてとたがね、魔導銀の棒を出した。銀ごての柄の魔石に触れると先が赤くなる。たがねで分かれ目の線を削り落とし、溶かした魔導銀で別の根線に向けて線を引きなおす。線がきれいに走るのを見届けて覆いを閉じた。
部屋の灯りは揺れなかった。隣の部屋で暖房具のうなりが始まっても、まっすぐな光のままだ。
「……修理の人を呼ぶ手間が省けました」
寮監は短く言って部屋を出ていった。戸が閉まるとハインツが俺の肩をつかんだ。
「お前、何者だ? あの寮監が礼を言ったぞ」
「礼かどうかは分からないけど」
「礼だよ! 今のは!」
ハインツは腹を抱えて笑った。俺も笑ってしまった。笑いが収まるとハインツは俺が革の袋にしまった銀ごてを、物欲しそうに見た。
「その銀ごて、持ち手の太さが手に合ってるな。誰かに削ってもらったのか」
「父さんが俺の手に合わせて削ってくれたんだ」
「いい親父さんだな。……ただの修理屋の息子とは思えないけど」
「ただの修理屋の息子だよ。実家が魔術具の修理店なんだ」
「通りで手が早いわけだ。……なあ、テオ。ここにはお前みたいなやり方を面白く思わない奴もいる。気をつけろよ」
最後だけハインツの声が少し低くなった。
夜9時の鐘が鳴ると、俺は机の上を片づけた。廊下の灯りがぱちりと落ちる。
「もう止めるのか。今夜ならまだやれそうな顔してるぞ」
「約束してるんだ。夜9時には道具を置くって。母さんと」
「母さんとの約束か」
ハインツはからかうでもなくふうんと言った。
「いいな、そういうの」
窓の外では王都の灯りが丘の下にずっと広がっていた。川下には夜通し灯りの消えない一角もある。俺はそれをカーテンの隙間から少しだけ見て寝台に入った。
4月22日、水の日。入学式の朝、学院の講堂には新しい制服の列が整然と並んでいた。長い椅子の列の真ん中あたりに俺はハインツと並んで座った。ハインツは落ち着かない様子で何度も襟を直している。講堂の壁際には教授たちの席が並び、その端にオルブリヒ教授の灰色の髪が見えた。隣には試験で俺の台の前に立った白髪で背の高い男が座っている。男の視線は一度だけこちらをかすめて通り過ぎた。
「なあ、テオ。前の列の端、見えるか。紺の上着の」
「見えてるよ」
「あれが首席のアーデルハイトだ。入学前から有名だったらしいぞ。伝統派の名家で空の恩恵の令嬢」
「詳しいね」
「寮の噂は全部俺のところに来るんだ」
前の列の端には、淡い金色の髪を高い位置で結んだ後ろ姿があった。背筋がまっすぐに伸びていて周りの誰よりも静かだった。
正面の壇上に白髪の老人が立った。学院長だ。椅子のざわめきが静まるのを待ってゆっくりと講堂を見渡す。
「新入生の諸君。学院は術式を受け継ぎ磨く場所である。ここで学ぶ者は先人が刻んだ線を一本も欠けさせぬよう心するように」
短い挨拶だった。それだけ言うと学院長は一礼して壇を降りた。
次に壇上へ上がったのはセシリアだった。紺の上着の裾をまっすぐに整え、講堂の端から端まで届く声で話しはじめる。
「新入生代表、セシリア・フォン・アーデルハイトです」
冷たい声だった。ただその冷たさには迷いがなかった。
「術式は受け継がれてきたものです。先人が一本ずつ刻んだ線を私たちは欠けさせずに次へ渡す責任があります。私はその責任を負うためにここへ来ました」
講堂のあちこちで年上の学生たちがうなずいた。セシリアは続けた。
「私の家には、私にしか読めない術式の書があります」
その一言で講堂が少し静かになった。
「一人にしか読めない術式を終わらせたくないのです。そのために私はこの学院で学びます」
拍手が起こった。壁際の教授たちの席では、オルブリヒ教授だけが手を打たず、じっと壇上を見ていた。ハインツは「すげえな」と小声で言う。俺は拍手をしながらその言葉を頭の中で繰り返していた。
一人にしか読めない術式を終わらせたくない。
それは俺が仕事でいちばん恐れていたことに似ていた。自分にしか分からない仕事は自分がいなくなったときに止まる。だからミルフェンで手順書を書いた。セシリアが向かう先はきっと別の方角だ。それでも同じ場所から出発しているように思えた。
式が終わると新入生たちは講堂の外の廊下へ流れ出た。人波のなかで俺はセシリアの後ろ姿を見つけた。声をかけようか迷っていると、向こうが先に足を止めて振り向いた。
「ラングナーさん。査定つきの入学だと聞きました」
「はい。結果はあとで出ます」
「結果で決まるというのは私も同じです。一つ尋ねてもよろしいですか」
「どうぞ」
「試験のとき、量り板の縁をたがねの背でこすっていましたね。あの板は型で打ったものではなかったはずです。どうやって寸法を合わせたのですか」
「手で切りました。髪の毛1本ぶんの差は見えるので」
「見える、ですか」
セシリアはわずかに目を細めた。信じていない顔ではなかった。確かめたいという顔だった。
セシリアは灰色がかった青い目でまっすぐに俺を見た。
「次の演習であなたの回路が壊れる所を見られるのを楽しみにしています」
「壊れたら直します」
セシリアは一瞬だけ眉を動かした。それから何も言わずに人波のなかへ戻っていった。
「うわ、おっかねえ」
ハインツが小声で言った。
「喧嘩売られたのか、今の」
「売られてないと思う。たぶん本気で見たいんだ」
廊下の突き当たりの掲示板に新しい紙が貼り出されていた。黒い墨で大きな字が書かれている。
『初演習 5月 実習棟にて 大型加熱術式の演習』
「もう演習か。早いな」
「うん」
「去年は初演習で上級生が大型の加熱術式を暴走させたらしいぞ。けが人は出なかったけど実習棟の壁が焦げたって」
「誰も止められなかったの?」
「止め方を知ってる奴がいなかったんだろ」
大型の加熱術式は、力の出入りが大きい。ミルフェンの炉の脇で暴発寸前の板を見たことを思い出した。
紙の端が窓から入る風でかさりと音を立てて揺れた。




