第30話 推薦状と、空の恩恵の少女
八柱暦4102年3月10日、水の日。昼の鐘のあと店の戸の鈴がちりんと鳴った。作業台の向こうで父さんが顔を上げ、俺も銀ごてを炉の脇に置いた。
「こんにちは、ラングナーさん。お邪魔します」
入ってきたのは亜麻色の髪を後ろで束ねたハルトマンさんだった。恩恵院の記録官で俺の恩恵を調べに来てくれた人だ。12歳の夏には魔導列車で王都の本院まで連れていってくれた。それからも手紙のやり取りは続いているが顔を合わせるのは久しぶりだった。いつものかばんを胸に抱えている。俺が頭を下げると、ハルトマンさんは笑ってうなずいた。その後ろには見知らぬ小柄な女性が戸口で足を止めて待っていた。灰色の髪をきっちりとまとめ外套の袖口からインクで黒ずんだ指がのぞいている。
「入る前に名乗らせてください」
女性は帽子を取って深く頭を下げた。
「王立魔術学院で回路学の教授をしております。エルゼ・オルブリヒです。前触れもなく伺ったことをお詫びします」
「ようこそお越しくださいました。ヨハネス・ラングナーと申します。……学院の先生がうちの店に」
ふだんはハンスと呼ばれている父さんが本名で名乗っている。聞いていると少しくすぐったい。父さんは作業台の前で立ち上がり前掛けで手をぬぐった。奥から出てきた母さんが客席の椅子を二つ引く。母さんの後ろではリリが柱の陰から顔だけ出していた。ハルトマンさんとオルブリヒ教授が並んで座り向かいに父さんと俺が座る。母さんが運んできた茶から湯気が立った。
「ラングナー君」
教授は茶に手をつける前に俺を見た。
「本院の奥の記録庫に何十年も光らない開示盤がありました。私がそれを直したのはあなたが王都から帰ったあとです。直す前に記録に一行ありました。写しの図で描き落とされた印を指摘した子供がいたと。12歳だったとも。それはあなたですね」
「はい。でも僕が見たのは写しの図だけです。盤には触っていません」
「触らなかった」
教授は短くくり返した。
「そこに感心しました。分からないものに手を出さないというのは回路学の第一歩です。できる人ほどこれを忘れます」
「テオくんは日が暮れたら、自分から切り上げたんです!」
ハルトマンさんが身を乗り出した。
「あのとき盤の前でもう少し見ていたい、という顔をしていたのに夕の鐘の前に自分で。それで私、これは只者ではないと思ってそのあとも、テオくんがくれる手紙とリリさんが書いてくれる手紙で、ミルフェンでの板の分け方のことや手順書のことを順番にまとめて学院にお送りして、あの板というのは量り紋を別の小さな――」
「ハルトマンさん。続きは後で」
教授が静かに止めた。ハルトマンさんは口を押さえて赤くなって座りなおす。
「報告は全部読みました。長かったです。ですが役に立ちました」
それから教授は窓辺に置いてある見本の板に目をやった。
「あの板を見せていただけますか」
「どうぞ」
父さんが取って渡すと、教授は指先でつまんで光にかざし根線をたどった。途中で指がぴたりと止まる。
「根線の途中が一か所だけ意図して細くしてありますね。強い力が来ればそこから先に切れて板が残る。……なるほど。量り紋は別の板ですか」
「はい。小さな板に刻んで差し替えられるようにしてあります」
俺が答えると、教授は板を静かに机へ戻した。
「ラングナー君。王立魔術学院に推薦状を書かせてください。試験は4月15日、王都です。推薦があれば受験料はかかりません。入学は試験に通ればこの春のうちです」
一瞬、店の音が全部止まった気がした。炉の火のはぜる音だけが聞こえる。
「あなたのやり方は型を覚えて写すのではなく、仕組みを分けて組み直す形だと聞きました。学院にはそれを異端と呼ぶ人もいます。私は見てみたいのです」
「僕でいいんですか」
「それは試験で分かります。ただ私は推薦します」
教授はそこで初めて茶を一口飲んだ。
「返事は急ぎません。ご家族とお話しになってください。ハルトマンさんが4月まで連絡の窓口になります」
父さんはすぐには何も言わなかった。作業台の上で組んだ指をゆっくりとほどく。
「分かりました。夜に家で話します。返事は数日のうちに」
「お待ちします」
教授とハルトマンさんは茶を飲み干して頭を下げ店を出ていった。戸の鈴が鳴りやんだあとも俺はしばらく椅子から立てなかった。
その夜、夕食のあとの台所で家族4人が食卓を囲んだ。卓の端には冷めかけたスープの鍋とリリが描きかけの絵が残っている。昼のあいだ教授の話について誰も一言も感想を言わなかった。それがかえって怖かった。母さんが食器を片づけた卓に帳面を開く。
「先にお金の話をするね」
母さんは帳面の頁を指でとんと打った。
「学院の学費と寮費は店の板の取り分を今までためてきた分でまかなえる。3年ぶんは足りる。午後のうちにニナさんにも帳面を見てもらって確かめてきたの」
「午後のうちに?」
「教授が帰ってすぐ走ったの。足りなかったら話にならないでしょ」
母さんはこともなげに言った。俺は何も言えずに帳面の細かい字を見つめた。
「店のことは心配するな」
父さんが腕を組んだまま口を開いた。
「店はお前がいなくても回る。それはお前が作ったことだろう。お前が俺たちに作らせた」
「作ったから行くっていうのも変な話なんだけど」
「変じゃない」
母さんが帳面を閉じて俺を見た。
「テオは行きたいの? 行きたくないの?」
台所の窓の外で風が戸板を鳴らした。俺は少し黙ってから答えた。
「行きたい。回路をもっとちゃんと学びたい。教授の話を聞いたとき胸の奥がぐっと熱くなった。……店を置いていくのは怖いけど」
リリが卓の端から身を乗り出した。
「なんで?」
「なんでテオ兄が行かなきゃいけないの。ここにいても勉強はできるじゃん」
「ここでしかできないこともあそこでしかできないこともあるんだ」
俺はリリの目を見て言った。
「ここで作った仕組みは向こうの人たちに見せたらもっと良くなるかもしれない。向こうで学んだことをここに持って帰れるかもしれない。僕は両方やりたい」
リリは唇を結んでしばらく考えていた。
「帰ってくるよね」
「帰ってくる」
「じゃあいい。テオ兄がいない間も見張りはリリが続ける」
誰も笑わなかったが台所の空気が少しだけゆるんだ。母さんが帳面の上で両手を組んだ。
「ひとつだけ条件。リリが見ていられない所はテオ自身が守ること。向こうでも夜9時には道具を置く。いい?」
「約束する」
父さんが腕を組みなおした。
「困ったときはどうするんだ」
「ハルトマンさんに手紙を書く。ニナさんの便に頼めないか、あとで聞いてみる」
母さんがすかさず言い足す。
「週に1度は家にも書いてね」
「リリが読んで返事を書く!」
リリが勢いよく手を挙げた。父さんが小さく息を吐いて笑った。
「向こうにはお前の手順書を知らない人間が大勢いる」
父さんが低い声で言った。
「最初は通じねえだろう。それでもお前の考えは通じる。俺はそう思ってる」
それから卓を指でこつんと打った。
「行ってこい」
短い一言だった。母さんが鼻をすすって慌てて茶碗を持ち上げる。リリはなぜか得意そうに胸を張っていた。
それから3週間、夜9時までの時間を使って引き継ぎを進めた。まず紙を1枚書いた。12歳の夏、王都へ発つ前にも、店の手順を1枚にまとめて父さんに渡したことがある。あれと同じ引き継ぎ書だ。同じものをもう1枚写して1枚は作業場の壁に掛け、1枚は旅のかばんに入れることにした。
店と板づくりは父さんとルッツとブラントさん、鍛冶屋のバルクのおじさん。ギルドの仕組みはヨナスさんと事務長。商会との取引はニナさん。名前を書き並べていくと紙の半分も埋まらなかった。引き継ぐことがほとんど残っていないのだ。
「何だ、これ。ほとんど白いじゃねえか」
作業台の端からルッツが紙をのぞきこんだ。刻みかけの板を銀ごての先で押さえたままだ。
「引き継ぐことがもうないんだ。みんなが僕なしで回せるようになったから」
「ふうん。……お前がいなくても俺は刻める」
ルッツはぶっきらぼうに言ってから板に目を戻した。
「いなくなるのは困るけどな」
「ルッツがいるから行けるんだよ」
返事はなかった。ただ銀ごての先がいつもよりゆっくり線をなぞっていた。
町外れの畑の道を歩いてブラントさんの店にも寄った。床板の鳴る戸口でブラントさんは腕を組んで待っていた。
「聞いた。学院だそうだな」
「はい。4月に発ちます」
「向こうで夜に倒れるなよ」
「はい。約束します」
「約束は守るためにするもんだ」
ブラントさんは鼻を鳴らした。
「……行ってこい、小僧」
出張所ではヨナスさんが袖で額をぬぐいながら言った。
「依頼票も戻りの予定の板も僕たちで回していきます。倒れない範囲で」
奥の机から事務長の低い声が飛んでくる。
「闇の日は休め」
商会の支店ではニナさんが帳面から顔を上げて言った。
「学院宛てのお手紙は商会の便にお預けください。ほかの荷と同じ日に確かにお届けします」
「ありがとうございます」
「テオさんが戻ってこられたときにこの町の帳面がちゃんと動いていますように。それが私の仕事です」
ある晩、父さんが使い込んだ革の道具袋を作業台にどんと置いた。何も言わなかった。袋を開けると、先を研ぎなおした銀ごてが3本並んでいた。どれも俺の手に合わせて柄の太さが削ってある。
「向こうの道具は手に合わねえかもしれねえ」
「……ありがとう、父さん」
「礼はいらねえ。折れたら折れたと手紙に書け」
出発の前の晩、台所で紙を父さんと母さんに見せた。母さんが横から鉛筆を取り、余白の隅に1行だけ書き足した。
『帰る日はいつでも空けておく』
母さんは同じ1行をかばんに入れる写しの余白にも書き足した。それから壁に掛けるほうの紙を作業場の壁の釘に引っかけた。写しは折りたたんで俺の旅のかばんの底にそっと入れてくれた。
4102年4月13日、火の日。朝の鐘のころ、ミルフェン駅のホームには春先の冷たい風が吹き抜けていた。柱の前には父さんと母さんとリリが並んで立っている。少し離れた別の柱のそばには衛兵の制服のフェレスさんと、荷物袋を肩に掛けたダリオがいた。
「おはようございます、みなさん」
改札のほうからハルトマンさんが小走りで来て頭を下げた。ダリオがそのハルトマンさんにも軽く会釈してから俺のほうへ歩いてくる。騎士学校の制服ではなく濃い灰色の外套を着ていた。見習い騎士の旅の装いだ。昨夜遅くに帰ってきたダリオとはうちの店先で少しだけ話した。ゆっくり話す暇はなかったのだ。
「テオ。学院へ行くと聞いた」
「うん。ダリオもいよいよだな」
「俺は北だ。第三騎士団の見習い騎士として街道の砦の町へ配属される。冬が長い所らしい」
ダリオはいつものまじめな顔で言った。
「お前が学院へ行くのは当然だと思う。俺はあまり驚かなかった」
「ありがとう。ダリオにそう言ってもらえると心強い」
照れくさくなって、俺は懐から小さな包みを出した。規格の板が1枚と大きい魔石用の量り板が2枚。布に包んで紐で結んである。
「携帯灯用だよ。向こうは冬が長いんだろ。大きい魔石も使うと思うから量り板は魔石の大きさに合わせて替えて」
「身代わり線のある板だな」
ダリオは包みを両手で受け取って外套の内側へしまった。
「使わせてもらう。……お前も夜に無理をするな」
「それ、みんなに言われるんだよ」
横からフィーネが割りこんできた。冒険者の革の胴着を着て腰に短い剣を下げている。
「ちょっと2人だけで盛り上がらないでよ。私は入口付近までだけど。いつか奥まで行くから。2人ともちゃんと見ててよ」
ダリオが短く答えた。
「分かった。見てる」
フィーネはにっと笑って俺たち2人の背中を同時にどんと打った。痛い。フェレスさんがダリオの肩に手を置いた。
「ダリオ。体に気をつけなさい。手紙は月に1度は書くこと」
「はい、父さん」
その向こうで父さんが帽子を取った。何も言わずただ黙って頭を下げる。母さんは笑ってひらひらと手を振っていた。リリはホームの柵に身を乗り出して叫んだ。
「見張りは続けるからねー!」
ホームの端で合図の旗が上がった。長い笛が朝の空に鳴り響く。ダリオは反対側のホームに止まっている北行きの列車へ、荷物袋を肩にかけなおして歩いていった。振り返らない背中は少しだけ大きく見えた。
「行きましょう、テオくん」
ハルトマンさんに促されて王都行きの列車の踏み段に足をかける。ホームの端からフィーネの大声が追いかけてきた。
「帰ってきたらちゃんと話聞かせてよ!」
列車がごとりと車輪を鳴らして動き出した。ホームの柱が一本ずつ窓の外を流れ手を振る家族の姿が少しずつ小さくなる。反対側のホームでは北行きの列車もゆっくりと動きはじめていた。
4102年4月15日、風の日。学舎の丘の上に立つ王立魔術学院の門は、3年近く前に外から見上げたときよりずっと高く見えた。
「証書は先に届けてあります」
門の手前でハルトマンさんが足を止めた。
「私はここまでです。テオくんなら大丈夫だと私は思っていますから。……いってらっしゃい」
「はい。いってきます」
門をくぐると石造りの回廊が長く続いていた。高い窓から差す春の光が床の石に四角い形を落としている。案内の係の人についていくと突き当たりの大きな部屋に通された。
部屋には長い作業台が何列も並び受験者が一人ずつ席に着いていた。俺と同じ年頃の少年少女が多いが、ひげの濃い青年もまじっている。どの背中も手の動きの確かさが座り方だけで分かった。台の上には決められた魔石が1つと、地金の板が数枚銀ごてとたがねが一揃い置いてある。俺は札のある席に座り、荷物を足元に置いた。少し遅れて、隣の席に一人の少女が静かに腰を下ろした。
正面の高い席には審査をする人たちが3人並んでいた。真ん中に灰色の髪をまとめた小柄な女性が座っている。エルゼ・オルブリヒ教授だ。教授は俺に気づいたのかほんの少しだけあごを引いた。
係の人が名簿を手によく通る声で名前を読み上げていく。
「セシリア・フォン・アーデルハイト」
「はい」
返事は、さきほど隣に座った少女のものだった。淡い金色の髪を高い位置で結び、紺の上着の背筋をまっすぐに伸ばしている。こちらを見ない。すると後ろの列から押し殺したささやきが聞こえた。
「あれがアーデルハイト家の……」
「`空の恩恵`の令嬢だろう。伝統派の天才だって」
隣の少女の指が一瞬だけ台の上でこわばったのが目の端に映った。
「テオドール・ラングナー」
「はい」
俺の名前が呼ばれるころにはささやきはやんでいた。名簿を読み終えた係の人は、正面に立って部屋じゅうの受験者を見渡した。
「これから課題を説明します。渡された魔石と地金で灯りをともす回路を組んでください。制限時間は鐘ひとつぶん。鐘が鳴ったら手を止めること。道具は台にあるものでも、持参したものでも構いません。完成した人は鐘が鳴るまで席で待ち、審査の人が途中で台を見て回ります。他の受験者の台に触れてはいけません」
部屋じゅうの空気がすっと引き締まった。誰かが唾をのむ音まで聞こえそうだった。俺は台の上の道具を一つずつ確かめた。たがねの刃は研ぎたてで曇りがない。銀ごては柄が少し細すぎる。
「始めてください」
最初に動いたのは隣のセシリアだった。迷いがない。地金の板を一枚選び銀ごてを持つと最初の線を引いた。そのまま一度も手を止めずに一続きの線を板の上に走らせていく。複雑な形のはずなのに線の流れが水のように自然だ。継ぎ目が一つもない。
きれいだ、と素直に思った。光の通り道が板の端から端までひと息でつながっている。
俺は父さんにもらった銀ごてを革の袋から出した。柄が手のひらにちょうど収まる。まず本体の板を刻む。根線と転じ紋と身代わり線。それから別の小さな地金を切り出して量り紋だけを刻んだ。手で切った板はふつうならきつかったりゆるかったりする。けれど俺には髪の毛1本ぶんの差が見える。たがねの背で縁をそっとこすって合わせ本体のくぼみにはめこむ。ぱちんと音がするのを確かめた。
はめこんだところへ審査の人が一人後ろの通路を歩いてきた。白髪の背の高い男だ。俺の台の前で足を止め板が2つに分かれているのを見て眉をひそめる。何も言わず手元の紙に何かを書きつけて通り過ぎていった。
魔石を差すと、灯りがふっとともった。
隣を見ると、ほとんど同時にセシリアの回路も光っていた。一枚の板に刻まれた線が静かな白い灯りになってまっすぐに部屋を照らしている。
「お隣の方」
セシリアが初めて俺のほうを向いた。声は低く、前の席までは届かない。作業を終えた者が、鐘を待つあいだの短い時間だ。灰色がかった青い目がまっすぐに俺の台の上を見ている。
「テオドール・ラングナーです」
「セシリア・フォン・アーデルハイトです。……その回路。板を2つに分けているのですね」
「はい。魔石に合わせて量だけ替えられるように」
「継ぎはぎですね」
セシリアは静かな声で言った。
「美しくありません」
反論の言葉はいくつも浮かんだ。継ぎ目があるから壊れたときに壊れた所だけ替えられる。分けてあるから誰が組んでも同じに動く。けれどどれも口には出さなかった。ここは論じ合う場ではない。それに彼女の線を美しいと思ったのも本当だった。継ぎはぎという言葉は前世でも言われたことがある。急ぎの仕事をありものの部品でつなぎ合わせて納めたときに。
「そう見えますか」
それだけ答えた。セシリアの指が台の上で一瞬だけ止まった。それから何も言わずに自分の台に目を戻した。
正面の高い席から教授がこちらを見ていた。表情は変わらない。鐘が鳴るまでの短い間、隣と俺の台の上で二つの灯りが少しだけ違う色で並んでともっていた。




