第29話 工房の灯りが消えた夜
八柱暦4102年1月8日、土の日。昼の鐘のあと、父さんの代わりに、俺は1人でギルド出張所の戸をくぐった。年明けの修理が店に詰まっていて、父さんは手が離せない。“行ってこい。話は、お前が聞けば足りる”と、作業台から顔も上げずに送り出されたのだ。
奥の部屋では、ケストナー事務長が机の前に座っていた。隣の椅子にニナさんが、壁際にヨナスさんが立っている。机の真ん中には、封を切った厚い手紙が置いてあった。
「来てもらってすまない。本部から返事が来た」
事務長は、いつもの低い声で言った。
「夏に出した報告書への答えだ。昨日の夕方に、商会の便で届いた」
「私も同じ便で預かりましたが、中身は事務長がお開けになるまで見ておりません」
ニナさんが背筋を伸ばして答える。事務長はうなずいて、手紙の頁を指でたどった。
「番号付きの依頼票、危険度の物差し、戻りの予定の板。この3つを、各支部への参考として回すそうだ。それと、貸出品の部品は、身代わり線のある規格の板を勧める、という一文もある」
「ミルフェンの貸出品は、もうそうなっています」
俺が言うと、事務長は短く鼻で息をついた。
「ああ。うちは、もうそうなっている。だから、この返事で、ここの何かが変わるわけではない」
ニナさんが手紙をのぞきこんで、小さく言った。
「ミルフェン支部の仕組み、としか書かれていないのですね」
唇を少しだけ結んだ横顔に、俺は言った。
「ほかの支部の人たちが、自分たちのものとして使い始めてくれるなら、それで十分です」
ニナさんは小さく息を吐いて、うなずいた。
「本題はここからだ」
事務長は手紙を畳んで、机の端へ寄せた。
「12月の、あの事故のことだ。写しの板を入れた携帯灯が、カウンターで煙を出した。けが人は出なかったが、同じ携帯灯を持っている冒険者は、まだ町にいる。そこで、2つのことを決めた」
指を1本立てる。
「ひとつ。出張所の壁に、紙を貼る。君とニナさんが作った、『板の見分け方』を大きく写して掲げたい。構わないか」
「はい。あの紙には、写しの悪口は書いていません。そのまま大きく写してください」
「助かる。ふたつ目だ」
もう1本の指が立つ。
「週に1回、午後を、点検の日にする。携帯灯を持ち込んだ冒険者に、ここの職員が板を見せてもらう。写しの板が入っていたら、身代わり線のある規格の板に差し替える。差し替えの代金は、冒険者が半分、ギルドが半分持つ。ギルドの分は、貸出品の修理の約束が終わって浮いた予算から出す。期限は2月の終わりまでだ」
ヨナスさんが、袖で額をぬぐった。
「見るのは僕たちですよね。その、負担が、増えますが」
「だから、週に1回にした」
事務長は、ヨナスさんの顔をまっすぐ見た。
「毎日やれば、お前たちが倒れる。倒れた職員の代わりを探すほうが、よほど高くつく」
ヨナスさんは目を丸くして、それから、ほんの少し笑った。
話がひと区切りついたところで、ニナさんが、思い出したように口を開いた。
「関係のないお話ですが、ご報告です。写しの板に替えていた修理店の3軒が、先週のうちに、そろって商会へ来ました」
「そうなんですか」
「はい。替え直したい、とだけおっしゃいました。理由はうかがわず、元の値段で、規格の板をお出ししました」
ニナさんは、それだけ言って、帳面の頁をめくった。責める言葉は、ひとつも添えなかった。
4102年1月15日、風の日。霜の降りた石畳を踏んで、ヨナスさんとフェレスさんが、新市街の市へ向かった。俺は少し離れて、紙の束を抱えてついていく。紙の束は、小さく刷り直した『板の見分け方』だ。
市は、朝の鐘のあとからにぎわっていた。台の上に、果物や古着や陶器が並び、売り子たちが白い息を吐いて呼び込みをしている。焼き栗の甘い匂いが、人の肩のあいだを流れてきた。足元の石畳は、踏まれたところだけ霜が溶けて、黒く濡れている。通りの真ん中あたりに、携帯灯ばかりを並べた台があった。筒の形をした灯りが、ずらりと一列に並んでいる。
台の後ろで、年配の売り子が、毛糸の肩掛けにくるまって座っていた。
「お忙しいところ、失礼します。衛兵のフェレスです」
フェレスさんが帽子を取って、静かに頭を下げた。
「先にお断りしておきます。これは、お触れではありません。お願いに伺いました」
「お願い、ねえ」
売り子は、少しだけ眉を上げた。ヨナスさんが前に出て、紙を広げて見せる。
「ギルド出張所の者です。この紙に書いてあるとおり、写しの板には、強すぎる力が流れたときに先に切れて、灯りを止めてくれる細い所が入っていません。大きい魔石を入れると、止まらずに熱くなってしまいます。冬に、出張所のカウンターで、煙を出した携帯灯がありました」
「聞いてるよ」
売り子は、肩掛けの端をぎゅっと握った。
「冬に燃えかけた、って聞いてから、誰も手に取らなくなってね。台に出しといたって、しょうがないんだ」
そう言うと、台の上の携帯灯を、1つずつ手に取って、足元の木箱に入れはじめた。1つ、また1つ。最後の1つを入れると、布をかけて、蓋をする。それを見て、隣の台の売り子も、向かいの台の売り子も、同じように携帯灯を木箱に移しはじめた。誰かが命じたわけではない。ただ、買う人がいなくなった物を、そっと下げていく。
フェレスさんは、その手元をじっと見ていた。
「ありがとうございます。持ち込まれた携帯灯は、出張所で見ます。お客さんにも、そうお伝えください」
「もう買っていったお客さんは、どうなるんだい」
「出張所で板を見て、写しなら規格の板に差し替えます。差し替えの代金は、半分をギルドが持ちます」
ヨナスさんが答えると、売り子は初めて、ほっとしたように息をついた。通りがかりの若い冒険者が、足を止めてこちらをのぞいた。腰には、使い込んだ携帯灯が下がっている。
「点検の日って、いつだ? 俺のも、見てもらえるのか」
「毎週、風の日の午後です。出張所のカウンターまで、お持ちください」
ヨナスさんが答えると、冒険者は“風の日の午後な”と繰り返して、人混みの中へ戻っていった。
俺は、紙の束を抱えたまま、ずっと黙っていた。写しの悪口は言わない、と決めてきたのだ。売り子たちが悪いわけでもない。俺の腕の束から、ヨナスさんが紙を1枚ずつ抜いて、売り子の手に渡していく。その背中を、ただ見ていた。
そのとき、市の奥から、荷車を引いた男が歩いてきた。灰色の前掛けをしている。見覚えのある顔だった。
「ご苦労さまです」
男は、フェレスさんとヨナスさんに向かって、丁寧に頭を下げた。
「お話は伺いました。承知しました。工房に伝えます」
「お手数をおかけします」
フェレスさんの返事は、いつもの落ち着いた声だった。男は荷車を台の横に着けて、売り子に向かって言った。
「お預かりしていた分は、売れ残りも含めて、工房で引き取ります。お代は、お返しします」
売り子が小さくうなずくのを見てから、男は木箱を1つずつ積みはじめる。その途中で、ふと顔を上げた。俺と目が合う。
目は笑っていなかった。けれど、男は何も言わなかった。軽くあごを引いただけで、また木箱に手を戻す。俺も、同じように小さく会釈した。それだけだった。
荷車の車輪が、ごとごとと石畳を鳴らして、市の外れへ遠ざかっていく。勝った、という気は、少しもしなかった。胸の中にあったのは、冷たい風の匂いと、あの男の荷車が重そうだ、ということだけだった。
4102年2月5日、光の日。朝の鐘のあと、店の作業台の前に、ルッツが立っていた。両手を前掛けでぬぐって、落ち着かない様子だ。その後ろには、背の低い少年が、うつむいたまま黙って立っている。暮れに熱を出していた、あの子だ。名前は、ペーターという。手には、細い傷の跡が何本も残っていた。向かいには、父さんが腕を組んで座っている。
「ペーターも、そこの椅子に座ってろ。立ってると疲れるぞ」
「……はい」
父さんは少年に声をかけてから、ルッツに向きなおった。
「ルッツ」
「……ああ」
「うちで、見習いをやらねえか」
ルッツが、ぽかんと口を開けた。
「見習い。俺が、か」
「ああ。条件は3つだ。日が暮れたら、仕事はおしまい。夜9時を過ぎたら、道具には触らない。それから、給金は月ごとに払う」
「月ごとって、出来高じゃねえのか」
「出来高だと、数を稼ごうとして無理をするからな」
父さんは、そっけなく答えた。
「お前は、夜に倍刻んだ手だ。数が稼げる分だけ、止まれなくなる。だから、月でいい」
ルッツは、何か言い返そうとして、結局、口をつぐんだ。しばらくして、ぼそりと言う。
「住む所は」
「ブラントさんの納戸のままでいい。あの人が、薪割りを家賃の代わりにすると言ってた」
「あのじいさん、薪割りさせる気かよ」
ルッツは、思わず吹き出した。吹き出してから、慌てて口を引き結ぶ。その顔が、少しだけ、泣きそうに見えた。台所から、母さんが湯気の立つ茶碗を運んできて、何も言わずにルッツとペーターの前に置いていった。ルッツは茶碗を両手で包んで、しばらく湯気を見つめていた。
戸の鈴が鳴って、ニナさんが入ってきた。帳面を胸に抱えている。
「おはようございます、ラングナーさん、テオさん。お時間をいただいて、すみません」
「いらっしゃい。待ってた」
父さんが椅子を引くと、ニナさんは作業台の端に帳面を広げた。
「工房を出た見習いの方々の、行き先のご報告です。ペーターさんのほかに、5人いらっしゃいました。2人はヴェルナーさんの店、あとの3人は、ほかの修理店に入りました。ペーターさんは、オットーさんがご自分から引き取ると申し出てくださって、今日、お迎えにいらっしゃいます」
「ほかの修理店は、どこに」
「どちらも、暮れの分担で組みを受け持ってくださった店です」
ニナさんは、帳面の名前を指でたどった。
「暮れのとき、あの店は、日が暮れたら仕事を終えて、板を回しました。ですから、私から声をかけました。夜に触らない店なら、見習いの方々も、安心して預けられます」
「……そういう決め方が、あるのか」
ルッツが、ぽつりと言った。俺は、そっとうなずいた。
そこへ、戸の鈴が鳴って、オットーさんが入ってきた。“ハンス、邪魔するぞ”と低い声で言い、父さんがうなずくのを待ってから、白く太い眉の下でペーターを見る。
「その子か」
ルッツが、椅子から立った少年の背中を軽く押して、前に出した。
「ああ。ペーターだ。ペーター、この人が、オットーさんだ。今日から、お前の親方になる」
「……はい」
ペーターの声は、小さく、かすれていた。オットーさんは、低い声で言った。
「手を、見せろ」
ペーターが、おずおずと両手を差し出す。オットーさんは、その手のひらを、ゆっくりと見た。節の太い指が、細い傷の上をなぞる。
「夜は、道具に触るな」
短い一言だった。けれど、重みがあった。
「うちは、日が落ちたら道具を置く。昼に覚えた分で、十分だ。残りは、明日にしろ」
「……はい」
「寝る部屋は、店の奥にある。狭いが、風は入らん。飯は、朝と夕だ。足りなければ、言え」
「はい」
オットーさんは、懐から何も刻んでいない地金の板を1枚と、小さな砥石を取り出した。
「今日の分だ。縁を、石で丸めろ。急ぐな。手が痛んだら、やめていい」
「……はい。ありがとうございます」
ペーターは、板と砥石を両手で受け取った。その手の中で、板がかすかに光った。
「ペーター」
ルッツが、ぶっきらぼうに声をかけた。
「ちゃんと、食えよ」
「……うん」
それだけだった。オットーさんがペーターの肩に軽く手を置いて、2人は戸を出ていく。小さな背中が、石畳の向こうへ小さくなっていった。
ルッツは、しばらくその方向を見ていた。それから、俺のほうを向いた。聞きたいことが、顔に出ていたらしい。
「テオ。聞きたかったんだろ。工房のこと」
「……うん」
「黒い上着の使いが、年が明けてから、来てねえ」
ルッツは、前掛けの端をいじりながら続けた。
「夜なべの仕事が、止まったんだ。大きいとこは、安売りの写しの評判と、納期の遅れで、下請けを替えたらしい。詳しいことは、俺も知らねえ。残ってる奴らが、そう言ってた」
「そうか」
「職人は、半分くらい暇になった。見習いは、何人か出ていった」
それ以上は、ルッツも言わなかった。俺も、聞き返さなかった。
4102年2月18日、闇の日。店も役所も休みの日の夕方、戸が鳴って、ルッツが顔を出した。
「頼みがある」
戸口で、ルッツは言った。
「工房に、道具箱を置いてきた。取りに行きてえ。残ってる奴に頼んで、裏口で渡してもらうことになってる。ただ、1人で行くと、親方に会うかもしれねえ。……付き合ってくれ」
俺は、父さんに断ってから、上着を羽織って外に出た。夕の鐘が鳴りはじめている。新市街へ向かう道を、ルッツと並んで歩いた。日が落ちるにつれて、石畳の冷えが靴の底に染みてくる。大通りの店は、闇の日らしく、どこも戸を閉めていた。ただ、通りの角のパン屋の窓だけが、明日の仕込みの小さな灯りをともしている。
新市街の裏の路地に入ると、見覚えのある大きな建物が見えてきた。石造りの、大きな工房だ。横にずらりと並んだ窓は、ほとんどが暗い。点いているのは、数えるほどだった。
「前は」
ルッツが、立ち止まって、窓を見上げた。
「闇の日でも、夜中まで、端から端まで点いてた。夕の鐘が鳴っても、誰も手を止めなかった」
「……今は」
「今は、点いてるのは、見習いの寝る部屋と、食堂の窓くらいだ。それも、飯が済んだらすぐ消える」
話しているあいだにも、食堂の窓の灯りが、ふっと消えた。続いて、二階の端の窓も暗くなる。
裏口の戸が、きしんで開いた。出てきたのは、俺たちより2つ3つ下くらいの少年だった。ルッツが置いていったという道具箱を、両手で抱えている。
「ルッツ兄ちゃん」
「おう」
「これ。ちゃんと、取っておいた」
少年は、道具箱を差し出した。ルッツがそれを受け取る。
「親方は、毎日、窓の前に立ってる。仕事が来ねえ、仕事が来ねえ、って。……俺たちは、夜に寝られる。久しぶりだ。飯のあとに、横になっても、誰にも怒られねえんだ」
少年は、うつむいたまま、ルッツの顔を見ずに言った。
「うれしいのに、親方の顔を見ると、悪いことをしてる気になるんだ。……こんなの、変かな」
ルッツは、少年をまっすぐに見て、首を横に振った。
「変じゃねえ。お前らが悪いんじゃねえ」
それから、少年の頭を、乱暴にくしゃりとなでた。
「寝ろ。寝られるときに、寝とけ」
「……うん」
少年は、小さく笑って、裏口の戸の向こうへ戻っていった。
帰り道、ルッツは道具箱を肩に担いで、黙って歩いた。俺も、何も言わなかった。後ろを振り返ると、工房の窓の灯りは、もうほとんど残っていない。最後の一つが、ふっと消えた。
王都の橋の上から見た、川下の窓の灯りを思い出す。ひとつも欠けずにともっていた、あの灯りを。今ここで消えていく灯りは、あれとは違う。誰かが責めて消したわけでもない。ただ、夜に働かなくてもよくなった、というだけだ。
見習いたちが眠れるのは、いいことだ。けれど、窓の前に立つ親方や、仕事の減った職人たちのことを思うと、胸のどこかが、すっきりとは晴れなかった。それをどう考えたらいいのか、俺にはまだ分からなかった。
ルッツの肩の上で、道具箱の中の銀ごてと槌が、かたり、と小さく鳴った。




