第23話 戻らない一行
八柱暦4101年5月12日、闇の日。朝の鐘が鳴り終えるころ、俺は街道の坂を上って、出張所に着いた。父さんには、出張所に行ってもいいが中には入らない、日暮れ前には帰る、と言ってある。闇の日は、町の外へ出る依頼がいちばん多い。戻りの予定の板の見直しを、この日に決めたのは、ケストナーさんだ。4月に受けた依頼の続きで、見直しの手間も、報酬に入っている。母さんとニナさんは、帳面と数字の見直しを別の日にしたから、今日は俺一人だった。
受付のそばの壁に、細長い黒い板が掛かっていた。白墨の字が、何行も並んでいる。『第208号 2人 朝の鐘に入る 昼の鐘に戻る』。『第211号 3人 朝の鐘に入る 昼の鐘に戻る』。どの行にも、名前はない。名前は、依頼票のとじ込みの中にある。板に書くのは、いつ入って、いつ戻るつもりか、それだけだ。
板の脇には、大きな字の紙が貼ってあった。戻る予定は、夕の鐘より前に書くこと。戻ったら、自分で消すこと。迷ったら、動かないこと。魔物が近いあいだは、合図具を鳴らさないこと。物音が消えてから、長く1回、短く2回、ゆっくり百を数えるごとに鳴らすこと。最後の2行は、4月に俺が足したものだ。
紙から3歩下がって、字の大きさを確かめた。朝いちばんの、まだ眠そうな冒険者でも、一目で読めるか。『迷ったら、動かないこと』の行だけが、ほかより少し小さい気がする。ヨナスさんに言って、書き直してもらおう。
「ヨナスさん、『迷ったら、動かないこと』の行を、少し大きく書いてもらえますか。いちばん大事な行なので」
「分かりました。日が暮れる前に、書き直しておきます」
そう答えてから、ヨナスさんは、紙の別の行を指した。
「夕の鐘より前に戻る、という決まりも、ちゃんと守られていますよ。夕の鐘に戻る予定だと、半刻過ぎて気づくころには、もう日暮れです。探しに出られるのは、明るいうちだけですから」
受付の机では、ブルーノさんが、黙って帳面をめくっていた。今日の受付の当番だ。貸出品の係とは別の役で、板を見回るのも、当番の仕事になっている。見回るのは、昼の鐘と夕の鐘が鳴って、半刻たったとき。口数が少ない分、ブルーノさんは、約束の時刻を外したことがない。
紙を書き直すと約束してくれたあと、ヨナスさんは、カウンターの奥から、手のひらに収まる筒を1つ持ってきた。5月の貸出品の係は、ヨナスさんだ。
「合図具を、見ていってください」
底の蓋を開けて見せてくれた。根線の脇に、もう1本、細い銀の線が走っている。2年半前の秋に、携帯灯へ引いたのと同じ、二重の線だ。貸出品の合図具には、すべてこれが入れてある。ひびが走っても、隣の線が生きていれば、音は止まらない。
「3月の係のとき、ブルーノさんが、全部吹いて確かめてくれました」
「甲高くて、耳が痛かった」
帳面から目を上げずに、ブルーノさんが短く言った。ヨナスさんが、くすりと笑う。
壁の板には、新しい行が、ひとつ、またひとつと増えていく。若い冒険者が、掲示板から外した票に受付印をもらい、その場で白墨を握って、予定を書きこんでいく。書き終えてから、柵の向こうへ出ていく。その繰り返しを、しばらく眺めていた。
「予定を過ぎる一行は、月に何度かあります」
並んで板を見ながら、ヨナスさんが言った。
「たいていは、少し遅れただけです。道草をしたとか、採集に手間取ったとか。でも、昔は、遅れたのか、困っているのか、見分ける物がありませんでした。日が暮れても気づかなくて、誰かが駆けこんでくるまで、分からなかったんです」
2年半前の秋のことを、思い出した。灯りが消えて、相棒を暗い坂道に残したまま、ここへ転がりこんできた少年の、土で汚れた顔。あのとき出張所にいた誰も、少年が駆けこむまで、何が起きているか知らなかった。
今は、板がある。誰が、いつ、どこへ入って、いつ戻るつもりなのか。それが、壁に書いてある。
戸が開いて、2人組の冒険者が入ってきた。肩に草の汁をつけて、腕に薬草の束を抱えている。
「戻りました」
「消せ」
顔を上げずに短く言うブルーノさんの前で、2人は慌てて白墨の布を取り、『第208号』の行を、ごしごしと消した。白い粉が、板の下に少しだけ落ちた。
昼を告げる鐘が、町のほうから低く響いてきた。坂道の入口あたりまでは、この鐘が届く。それから、半刻。
椅子を引く音がして、ブルーノさんが立ち上がった。何も言わずに板の前へ行き、端から順に、指で行をたどっていく。『第211号 3人 朝の鐘に入る 昼の鐘に戻る』のところで、指が止まった。その行だけが、まだ白墨の字のまま残っている。
そのまま出張所の戸を出て、ブルーノさんは柵のところまで歩いていった。坂の奥へ向かって、腹の底から声を張る。
「3人組! 戻りが遅れてるぞ! 聞こえるか!」
返事はなかった。もう一度、呼ぶ。鳥の声と風の音だけが、返ってきた。
戻ってきたブルーノさんは、ヨナスさんの机の前で、短く告げた。
「211号。半刻過ぎた。呼んだが、返事なし」
「分かりました」
動きは、速かった。ヨナスさんは、とじ込みから第211号の控えを引き出し、指でたどる。
「二段の薬草の採集です。札は『二段 場1・深1・魔1・季0』。坂道の入口近くの脇にある、横穴ですね」
棚から場所の帳面を取り出して、その横穴のページを開く。『冬』『雪解け』『夏』の欄の下に、報告の履歴が並んでいる。その指が、ある1行の上で止まった。
「『雨のあとは、小さな魔物が増える』。ヴィリさんの聞き取りで書いたところです」
昨日の夕方、雨が降った。今朝、街道の土が湿っていたのを、俺も思い出した。ヨナスさんも同じことを考えたらしく、帳面から顔を上げた。
「雨の翌日ですね。ブルーノさん、詰め所へ」
返事の代わりに、ブルーノさんはもう戸口を出ていた。
すぐに、フェレスさんと若い衛兵が2人、詰め所から駆けてきた。革の胸当てに、腰の携帯灯。フェレスさんは出張所の入口で足を止め、ヨナスさんの広げた帳面をのぞきこんだ。
「第211号、3人。入った所は、坂道の入口近くの横穴ですね。枝道や、足場の悪い所は」
「ページの隅に、絵があります」
帳面をカウンターに寝かせて、ヨナスさんが開いた。母さんが決めた書式には、ページごとに、小さな絵地図を描く欄がある。そこには、ヴィリさんの話をもとに描いた線が、何本か走っていた。横穴の入口から、数歩で下りになる。そこで道が二つに分かれて、左は短く行き止まり、右は奥へ続いて、細い曲がりに入る。
「濡れていると、入口の下りで滑ります。魔物は、右の奥に集まりやすい、と」
「右の奥ですね」
絵地図を、フェレスさんが指でたどった。
「奥の曲がりは、人が入れる広さですか」
出張所の隅の長椅子から、低い声がした。自分の依頼から戻って、水を飲んでいたヴィリさんだ。のっそりと立ち上がって、腰の帯を締め直す。
「入れる。ただし狭い。小さいのが隠れるのに、ちょうどいい広さだ。……もし隠れるなら、俺なら、そこだ」
短くうなずいたのは、フェレスさんだった。
「右の奥から探します。二手には分かれず、全員で進みましょう」
「案内する。ヨナ坊の帳面は、俺の口で書いたんだ。嘘は書いてねえ」
「私も行く」
戸口から、フィーネが顔を出した。町の中の配達の報告に来ていたらしい。フェレスさんが、少しだけ眉を寄せる。
「フィーネさん。あなたはまだ、町の外は入口付近までです。この横穴は、入口付近ですが……」
「入口付近なら、いいんでしょ。力もあるし、足も速いよ」
「……私の後ろから離れないでください」
うなずくフェレスさんの前に、ヨナスさんが一歩出た。
「探しに出てくださる冒険者の方には、ギルドから日当が出ます。事務長が、そう決めています」
ヴィリさんは、ふん、と短く答えただけだった。フィーネは、ぱっと笑って、うなずいた。
その場の流れが、すっと動き出していくのを、俺は見ていた。誰も慌てていない。誰が詰め所へ走り、誰が帳面を開き、誰が案内に立つか。話し合う前に、もう決まっている。
一行が、戸口へ向かった。その背中を見ているうちに、足が勝手に動いた。気づくと、俺は、一歩、踏み出していた。
けれど、そこで足を止めた。父さんとの約束だ。それに、ダンジョンの中で俺が増えれば、その分、探す人の手が足りなくなる。
「テオくん」
振り返ったフェレスさんが、静かに言った。
「ここにいてください。待つ人がいることも、大事な役目です」
「……はい」
一行が、柵の向こうへ出ていく。俺は、ヨナスさんとブルーノさんと一緒に、板の前に残った。壁の板には、『第211号』の行だけが、白く浮かんでいる。
待つ時間は、長かった。
貸出品のかごに手を入れては、ヨナスさんが携帯灯を1本ずつ出して確かめていく。つまみを回し、振り、底の蓋を開ける。その手元は落ち着いているのに、ときどき目だけが、柵のほうへ動く。ブルーノさんは、板の前に立ったままだった。腕を組んで、白く残った『第211号』の行を見つめている。
俺にできることは、何もなかった。手を貸したくても、貸す場所がない。2年半前の秋は、ここで走っていた。携帯灯の底の蓋を開けて、線を引いて、衛兵たちの手に押しつけるように渡した。あの日の自分は、動ける場所があったから、まだ楽だったのかもしれない。
今日は、待つしかない。“待つ人がいることも、大事な役目です”。フェレスさんの言葉を、もう一度、頭の中でなぞった。
窓の外で、風が草を揺らした。鳥が一羽、屋根の上で鳴いて、飛んでいった。
その音が止んだあとで、遠くから、別の音が聞こえてきた。
高くて、細い、笛のような音だ。長く1回、それから短く2回。しばらく間があって、また、長く1回、短く2回。
「合図具だ」
手にしていた携帯灯を置いて、ヨナスさんが立ち上がった。ブルーノさんは、もう戸口にいた。3人で出張所を出て、柵のそばまで走る。
坂の奥から、音は、まっすぐ届いてきた。ひび割れもしないし、途切れもしない。決まりどおり、一定の間をあけて、同じ形を繰り返している。隣で、ヨナスさんは目を閉じて、小さく息を吐いた。
「鳴っていますね」
「ああ」
ブルーノさんが、短く答えた。
それからしばらくして、坂の曲がり角から、人影が見えた。先頭を歩いているのは、フェレスさんだ。続いて、若い衛兵が2人。その後ろから、ヴィリさん。そして、フィーネ。
フィーネの背中には、見知らぬ冒険者が、ぐったりと背負われていた。ひねったらしい片足が、フィーネの腰のあたりで、力なく揺れている。フィーネは、`力の恩恵`のおかげか、息も乱さずに、軽々と坂を下りてくる。
そのあとに、もう2人。2人とも、泥だらけだった。顔色は悪いけれど、歩けている。腰に下げた携帯灯が、まだ白く灯っていた。
「見つかりました。3人とも、無事です」
出張所の前で、フェレスさんが静かに言った。ヨナスさんの肩が、ふっとゆるむのが分かった。
フィーネは、背中の人を出張所の長椅子にそっと下ろして、俺のところへ来た。
「音がね、すごくよく聞こえたんだよ」
「前より、聞こえやすかった?」
「ぜんぜん違うよ。横穴に入ったら、右の奥から、ぴーって。高いのに、少しもかすれなくて、どっちから鳴ってるか、すぐ分かった。ヴィリさんが、あっちだ、って言う前に、私、走りかけてた」
手のひらを広げて、フィーネはにっと笑った。
「前の灯りとか笛、覚えてる? ちらちらして、すぐ消えちゃうやつ。あれのままだったら、見つけるの、ずっと遅れてたと思う」
出張所の長椅子の前で、足をひねった人の手当てが始まった。衛兵が、手慣れた様子で足首を固める。そのあいだに、泥だらけの2人が、ヨナスさんの前で、ぽつりぽつりと話した。
「小さいのに、追われて……奥の曲がりに、逃げこんだんです」
「出てこないように、じっとしてました。壁の紙に、書いてあったから。迷ったら、動かないって」
「音が聞こえなくなってから、合図具を、鳴らしました。長く1回、短く2回で」
1人が、腰の携帯灯を持ち上げた。
「落としたのに、消えなかったんです。これが消えてたら、どうなってたか」
うなずきながら、ヨナスさんはひとつずつ聞いていく。それから、場所の帳面の、あの横穴のページを開いた。報告の欄に、鉛筆を走らせる。『雨の翌日。小さな魔物が増え、奥の曲がりに隠れていた。合図具は、静かになってから鳴らした』。書くのは出来事だけで、名前は入れない。ページの『冬』『雪解け』『夏』の欄の横に、小さく『天気』と書き足しながら、ヨナスさんがつぶやいた。
「天気の欄も、要りますね」
泥だらけの1人が、白墨の布を取って、板の前に立った。『第211号』の行を、ゆっくりと消していく。その横で、ブルーノさんが、黙って見ていた。
探しに出たヴィリさんとフィーネには、日当が渡された。決まりで、ギルドが払う。ヨナスさんが、帳面の受け取りの欄を2人の前に出した。フィーネは、嬉しそうに署名して、受け取ったお金を握りしめた。ヴィリさんは、しばらく自分の署名を眺めてから、ぼそりと言った。
「……ああ」
それだけだった。けれど、受け取ったお金を、ちゃんと懐にしまった。
「テオくん」
俺のところへ来たヨナスさんが、声をかけた。
「2年半前と、違いますか」
少し考えて、俺は答えた。
「はい。誰も、駆けこんで来なくて済みました」
袖で額をぬぐって、ヨナスさんは笑った。その顔が、2年半前より、ずっと穏やかだった。
日が傾きはじめていた。夕の鐘が鳴る前に、帰らなければならない。ヨナスさんとブルーノさんに頭を下げて、出張所を出た。
戸を閉める前に、ふり返った。壁の板には、消されたあとの行が、白く残っている。




