第22話 危険度の物差し
八柱暦4101年2月9日、風の日。昼すぎ、商会の人足が運んできた故障品の木箱を、ニナさんと父さんが作業台の脇で数え終えた。いつもの10個だ。そのあとで、ニナさんは帳面のあいだから、1通の封筒を取り出した。
「ケストナーさんからです。マルタさんにも、見ていただきたくて」
夕方、母さんが役所から帰るのを待って、封筒は作業台の上で開かれた。
試しの期間が終わって、ギルドは依頼票を、このまま使い続けると決めたそうだ。900ディルは、もう支払われている。ラングナー店と商会で半分ずつ。紙代は、別に実費でギルドが払った。分け方は、ニナさんと母さんが、先週のうちに帳面をそろえて決めていたらしい。
封筒の底には、新しい依頼票が1枚入っていた。右上に『第80号』とある。内容は、2行だけだった。『危険度の見積もりの決まり作り』『貸出品の係の決まり作り』。報酬は700ディルで、預かり印がもう押してある。ギルドが、先に預けてくれたのだ。
「今度も、ただ働きにはなりませんね」
ニナさんが小さく笑うと、母さんは満足げにうなずいた。去年の12月に決めたことが、ちゃんと続いている。気持ちだけで引き受けた仕事は、いつか誰かの夜を削る。票に頼まれた範囲と、受け取る額が書いてあれば、昼のうちに区切りをつけて、日が暮れたら手を止められる。
そこへ、仕事を終えた父さんが、前掛けで手をふきながら来た。
「ハンス、店の名で受けていい?」
票をちらりと見て、父さんは短く答えた。
「いいぞ」
◇
4101年2月18日、闇の日。母さん、ニナさん、俺の3人で、冬の終わりの街道を歩いた。雪は道の端にわずかに残るだけで、岩山のふもとの土が、朝の日射しを受けてうっすらと湯気を立てている。
出張所の奥の机には、ケストナーさんが座っていた。灰色の短い髪の下で、細い目が、書類を1枚ずつ追っていく。その前で、ヨナスさんが紙を広げて待っていた。去年の秋より、顔色がずっといい。袖で額をぬぐう回数も、減った気がする。
「札の付け方は、ずっと職員の記憶でした」
言いにくそうに、ヨナスさんが切り出した。
「前に似た依頼があったので、と」
「記憶は、人が替われば消える」
ケストナーさんは、書類から目を上げずに言った。
「毎年、札を信じて怪我をした者の報告が、何件か上がってくる。原因は、たいてい、札を付けた者の記憶違いだ」
誰かを責める声ではなかった。ただの事実を言う声だ。それでも、ヨナスさんは肩をすぼめた。
「ええと……では、たたき台を」
見せてくれたのは、4つの欄を並べた表だった。『場所』『深さ』『魔物』『季節』。ヨナスさんが、去年の秋にフィーネが受けた傷薬の草の採集を例に、書き出してくれたものだ。値を入れる欄は、まだ空いている。
「危ない所の記録は、場所ごとに引けないと使えないよ」
表を見ながら、母さんが言った。
「役所の台帳は、家ごとにページがあるでしょ。誰が住んでいて、いつ直したか、そこを見れば全部分かる。あれと同じ形にするの。1つの場所に、1ページ」
「依頼票のとじ込みは、番号順です。場所の帳面は、場所順ということですね」
確かめるように言うヨナスさんに、母さんはにっと笑った。
「そう。番号で引くのと、場所で引くのと、2通りあれば、探し物はなくなる。ページには、時期ごとの欄も作って。冬と、雪解けと、夏で、同じ場所でも危なさは変わるから」
「見積もりのほうは、私から」
ニナさんが、帳面を開いて続けた。
「4つの項目を、それぞれ0、1、2の3段階で見積もります。4つを足して、0から2は一段、3から5は二段、6から8は三段。数字にしておけば、誰が見積もっても、同じ見方になります」
「僕の勘より、ずっと説明しやすいです」
袖で額をぬぐいながら、ほっとしたように言ったのは、ヨナスさんだった。
俺は、表の端に置かれた札の見本を、じっと見ていた。『二段』とだけ書かれても、どこが危ないのかは分からない。
「札に、段と一緒に、内訳を小さく書いたらどうでしょうか。『二段 場2・深1・魔0・季0』のように。なぜ危ないのかが、見て分かるように」
「それ、いいです」
ぱっと、ヨナスさんの顔が明るくなった。
「札を見た人が、自分で考えられますね。やってみます」
そのとき、出張所の戸が、ばたんと乱暴に開いた。のっそりとした大柄な男の人が入ってきた。去年、東の見回りの依頼を、ヨナスさんに聞きに来たあの冒険者だ。
「ヨナ坊、何だそりゃ」
大柄な男の人は、机の上の表に顔を近づけて、ざっと読んだ。眉間のしわが、みるみる深くなる。
「ヴィリさん、それはまだ、たたき台で……」
ヨナスさんが、あわてて立ち上がる。この古株の冒険者は、ヴィリさんというらしい。
「危ない所を、紙で決める? 俺は30年、勘と足で、この穴に潜ってきた。紙の札で、危なさが決まるか」
「これは、あくまで目安で……」
「その目安を信じた駆け出しが、札にない危ない所で死ぬんだ。魔物は急に湧く。足元は、一晩で変わる。紙の数字が言えるのは、昨日のことだけだ」
ニナさんが唇をかんで、帳面をぎゅっと握った。袖で額をぬぐったまま、ヨナスさんも言葉が出ない。確かに、ヴィリさんの言うことには、筋が通っていた。
勘は、捨てるものではない。師匠のブラントさんの目も、父さんの手も、長い年月で身についた勘が支えている。ただ、その勘が、本人の頭の中にしか残らないのが問題なのだ。本人が倒れたり、引退したりすれば、一緒に消えてしまう。前世で、そういう場面を何度も見た。
母さんが何か言いかけたのを、目で止めて、俺は一歩前に出た。
「札だけで決めるのが危ない、というのは、その通りだと思います」
ヴィリさんの目が、すっと細くなった。
「坊主、お前……」
「だから、札には『目安』と押して、最後に決めるのは、行く人自身にしたいです。内訳を書くのも、そのためです。……それと、ヴィリさんの知っている危ない所を、この帳面に残させてください。昨日のことしか言えない紙に、30年分を足したいんです」
鼻から短く息を吐いて、ヴィリさんは顔をしかめた。
「口のうまい坊主だ」
しばらく、誰も何も言わなかった。やがて、奥の机から、低い声がした。
「ヴィリ。経験のある者の話を聞く手間は、ギルドが払う。半日分の日当を出す」
ケストナーさんだった。腕を組んだまま言ったあと、机の引き出しから墨紙を挟んだ票を取り出し、自分の手で書きはじめた。『古株の聞き取り 半日』。報酬の欄に日当の額を書き、預かり印を押して、ヨナスさんに渡す。
「ギルドの仕事に、ギルドが払う。それだけのことだ」
ヴィリさんは眉を上げて、その票を、しばらく不思議そうに眺めていた。長いあいだ黙っていたあと、ぼそりと言った。
「……ヨナ坊。鉛筆を持て」
ぶっきらぼうに言って、どかりと椅子に腰を下ろす。
「傷薬の草の群生地は、割れ目の先だ。足場が悪い。小さいのが湧きやすいから、魔物は1だな。あと、坂道の下りは、雪解けのころがいちばん滑る。水がたまって、夜に凍るんだ」
ニナさんが、帳面から顔を上げた。
「その1と2は、どこで分けますか」
「一人で追い払えるのが1。一人なら逃げるのが2。それだけだ」
あごで表の端を指されて、ヨナスさんが『魔物 1=一人で追い払える 2=一人なら逃げる』と、欄の下に書き足す。
あわてて鉛筆を走らせるヨナスさんの横から、母さんがのぞきこみ、時期の欄の書式を、その場で直していった。割れ目の先、坂道の下り、東の見回りの道。ヴィリさんの話は、止まらなかった。何度も顔をしかめながら、それでも、思い出せるかぎり、細かく教えてくれる。
東の見回りの道は、夕方から急に冷えこむ。割れ目の先は、昼でも暗い。小さな魔物が増えるのは、雨のあとだ。聞いているうちに、どの値にも、誰かが痛い目を見た記憶がついているのだと分かってきた。
「勘を書き写されるのは気に食わんが……新入りが死ぬよりは、ましだ」
ヴィリさんは、最後にぼそりと言い足した。
札の見本の端には、ヨナスさんが小さな『目安』の判を押した。
◇
4101年3月12日、闇の日。雪解けの水が、街道の両脇で細い筋になって流れていた。札の運用が始まって、今日で11日になる。出張所の様子を見に来た。
掲示板の札は、前とは違って見えた。『二段 場2・深1・魔0・季0』のように、段の横に内訳が小さく書き添えてあって、端には『目安』の判が押してある。町の中の依頼の札は、ただ『町の中』と書かれていた。
貸出品のかごの横には、新しい名札が掛かっていた。『貸出品係 3月 ブルーノ』。
「係は、月替わりで回します。今月はブルーノさんで、次が先輩、その次が僕です」
近くにいたヨナスさんが、名札を指して言った。
「一人に持たせない、と決めましたから」
札の運用が始まってから、戻った人の報告は、もう7件集まったそうだ。見積もりより危なかったのが2件、同じが4件、楽だったのが1件。危なかった2件は、もう場所の帳面の値を直してある。集計の表は、ニナさんが作ってくれた、とのことだった。数字にすると、直す場所が見えてくるらしい。
かごの前では、がっしりした体つきの職員が、返された携帯灯を1つずつ取り出していた。ブルーノさんだ。つまみを回して灯し、腕を大きく振り、底の蓋を開けて、板の爪とばねの押さえを、太い指で押して確かめる。壁には、俺が絵と短い字でまとめた点検の手順の紙が、1枚貼ってあった。『1 灯す。2 大きく振る。3 底の蓋を開けて、板の爪とばねの押さえを見る。4 問題なければ、札を結ぶ』。誰が係になっても、同じ順で見られるように、4つだけにしてある。
「灯る。振っても消えない。爪の押さえも、動かない」
ブルーノさんは、声に出して確かめてから、筒の持ち手に『点検済み』の札を結んだ。それだけだ。短く、迷いがない。一人が全部をやるわけではなく、順番に回るから、きっと続けられる。
「その紙、お前が書いたのか」
ブルーノさんが、壁の手順の紙を、あごで指して聞いた。
「はい。ほかの方でも、同じ順で見られるように」
「助かる。順番が決まってると、迷わない」
それだけ言って、ブルーノさんは次の携帯灯を手に取った。口数は少ないけれど、その手つきは、丁寧だった。
戸が勢いよく開いて、フィーネが泥のついた靴で入ってきた。背中のかごは、もう空だ。
「ただいま、ヨナさん! 薬屋さんに草を届けて、署名ももらってきたよ」
依頼票の下の欄には、『済』の字と、依頼主の署名があった。札は『一段 場1・深1・魔0・季0』。柵の内側の、坂道に入ったばかりの、ゆるい斜面での採集の依頼だ。報酬を数えて渡すとき、ヨナスさんはふと手を止めて、フィーネの顔を見た。
「戻った方には、毎回、1つだけ聞くことにしています。見積もりより楽でしたか、同じでしたか、危なかったですか」
「危なかった」
フィーネは、即答した。
「雪解け水で、斜面が川みたいになっててさ。2回、すべった。一段なんて、うそだよ」
フィーネは、札の内訳を、指でとんとんとたたいた。
「でもさ、札に『季0』って書いてあったから、あ、雪解けなのに0なんだ、って思って、気をつけた。それでも2回すべったけど。内訳があると、どこが怪しいか、先に分かるね」
「ありがとうございます。それは、とても大事なことです」
棚から場所の帳面を引き出して、ヨナスさんは、母さんが作った書式の、その斜面のページを開いた。『冬』『雪解け』『夏』と並んだ欄のうち、『雪解け』の季節の値を、鉛筆の線を消して、0から2に書き直した。『冬』と『夏』の欄は、そのままだ。その下の報告の欄には、1行が足された。『雪解け 斜面に水がたまり、滑った。見積もりより危なかった』。名前は、どこにも書かれていない。
「次からは、この時期のこの場所は、二段になります」
掲示板には、同じ斜面の依頼が、もう1枚貼られたままになっていた。まだ誰も受けていないその票の札を、ヨナスさんは新しい値で書き直し、くぎで留め直した。札には、こう書かれた。
『二段 場1・深1・魔0・季2』。
「あ、直ってる」
フィーネが、札をのぞきこんで言った。それを見て、ヨナスさんがうなずく。
掲示板の前に、いつのまにか、ヴィリさんが立っていた。腕を組んで、その札を黙って見ている。何か言いかけたのか、口が少し動いた。けれど、ヨナスさんと目が合うと、小さくうなずいただけで、依頼を受けずに出ていった。
俺は、その背中を見送った。
「ヴィリさん、あの札、ずっと見てたね」
フィーネが、小声で言った。
「うん」
「気に入ったのかな」
「気に入ったかは、分からないけど」
さっきまでヴィリさんが立っていたあたりの床に、小さな泥の跡が残っていた。戸の向こうで、雪解けの光が、白く揺れている。




