第20話 掲示板の穴
八柱暦4100年10月15日、風の日。昼にニナさんが故障品の木箱を数え終えて帰っていき、作業場には、午後の仕事の静けさが戻っていた。俺が14歳になって、4日がたつ。父さんは奥の作業台で銀ごてを握り、俺は手前の台で、預かった手あぶりの外板をひとつずつ外していた。
夕方、日が傾いて作業台の上が橙色に染まるころ、戸口の鈴が鳴った。
「テオ、いる? ちょっと見てほしいんだけど」
顔を出したのは、フィーネだった。背中にかごを背負い、後ろで束ねた赤茶色の髪が、顔の動きに合わせて揺れている。靴には乾いた土がこびりつき、肩には草の切れはしが残っていた。ダンジョンの入口の近くから、そのまま来たらしい。
腰の携帯灯を外して、フィーネは作業台にことんと置いた。
「揺らすと、たまに怪しい気がするんだよね。気のせいかもしれないけど」
「見てみるよ」
底の蓋を外して、中をのぞく。灯りの芯のすぐ横に、どれにでも付く板が収まっていた。爪は受け金具の口にしっかり差さっていて、押さえのばねも少しも緩んでいない。つまみを回すと、白い光がまっすぐ伸びた。そのまま腕を大きく振っても、光は揺れもしなかった。
「問題ないよ。押さえも抜けてない」
「ほんと? じゃあ、気のせいか」
そう言いながら、フィーネは作業台の脇の椅子にどさりと腰を下ろした。立ち上がる気配がない。点検は、口実だったらしい。
「ねえテオ、ちょっと聞いてくれる?」
「うん、聞いてるよ」
蓋を戻しながら答えると、フィーネは待っていましたとばかりに、身を乗り出した。
「3週間前にさ、北の農家のおじいさんの荷運びを受けたの。いもの袋を、市場まで運ぶやつ。ちゃんと最後まで運んだんだよ。重かったんだから。それなのに、報酬の120ディルがまだ来ないの」
「おじいさんは、何て?」
「会ったとき、次の市で払うよ、って。それっきり。出張所に聞いたら、依頼主に確認します、って言われただけ」
ほおをふくらませて、フィーネは手の甲で自分のひざをぽんとたたいた。
「次の市って、いつの市なのさ。120ディルあれば、あれもこれも買えるのに」
「それは困るね。出張所に聞いたのは、いつ頃?」
「先週。で、今週ももう1回聞いたけど、同じ」
俺はうなずいて、手あぶりの外板を置いた。フィーネの話は、まだ終わっていなかった。
「それだけじゃないの。この前、傷薬になる草の採集を受けたんだけどね。掲示板の札には、『入口付近・誰でも』って書いてあったの。それなのに、草が生えてたのは、坂道の割れ目の向こうだったんだよ」
割れ目、と聞いて、2年前の秋の出張所のことが頭に浮かんだ。灯りが消えて、少年が相棒を残して駆け込んできた、あの坂道だ。
「跳び越えたの?」
「当たり前じゃん。私の足なら余裕。でもさ、足元はぼろぼろで、下は真っ暗なんだよ。同じ札を信じて、駆け出しの子が来てたらって思うと、ぞっとした」
「その札は、誰が付けたの?」
「出張所の人。聞いたら、前に似た依頼で大丈夫だったから、だって。そんなの、場所が違うかもしれないのにね」
言い終えると、フィーネは長い息を吐いて、顔を上げた。
「あとね、掲示板の隅っこに、もう1か月くらい貼りっぱなしの紙があるの。旧市街の溝さらい。報酬は安いし、においはきついし、誰も受けない。紙が日に焼けて、角が丸くなってるんだよ」
話を聞きながら、胸の奥が、ひやりと冷えた。机の上に積み上がった紙と、誰がどれを借りたかを覚えているだけの職員たち。出張所は、あのころから何も変わっていないのかもしれない。前世の職場にも、口で頼まれただけの仕事があった。
「フィーネ。その3つ、ほかの人も困ってる?」
「困ってると思うよ。みんな、そういうものだって思ってるだけで」
じっと俺の顔を見て、フィーネがにやりと笑った。
「テオ、また何か思いついた顔してる」
「まだ分からないよ。ちゃんと見てみないと」
「じゃあ、見に来れば? 闇の日、私、朝から出張所だし」
夕食のあとで、父さんに話した。父さんは茶を置いて、少し考えてから、短く言った。
「柵から中には入るな。日暮れ前に帰れ」
「うん。約束する」
それだけで、許してもらえた。
◇
4100年10月18日、闇の日。店は休みで、朝、フィーネと並んで町を出た。北の岩山のふもとへ、街道を30分ほど歩く。ここへ来るのは久しぶりだ。岩壁の下の大穴は、あの秋と同じ暗さをしていた。入口をふさぐ鉄の柵の手前には、衛兵の詰め所とギルドの出張所が並んでいて、荷物を背負った人たちがひっきりなしに出入りしている。
柵の前で、俺は足を止めた。約束どおり、柵の中には一歩も入らない。
「じゃあ、私は先に紙を取ってくるね。受付のヨナさんに言えば、見せてくれると思うよ」
慣れた足取りで、フィーネは出張所の戸をくぐった。続いて入ると、朝のいちばん混む時間らしく、板敷きの部屋は人でいっぱいだった。受付の前には冒険者の列ができていて、革の胸当ての音と、荷物を置く音がひっきりなしに響く。
壁の一面が、大きな板になっていた。掲示板だ。その上に、依頼書の紙が何枚も、重なるようにくぎで留めてある。古い紙は日に焼けて茶色くなり、上に重なった新しい紙の下に、半分隠れているものもあった。
奥には、職員の机が5つ並んでいる。座っているのは4人で、ひとつは空いたままだった。その真ん中の机から、見覚えのある若い男の人が、袖で額をぬぐいながら立ち上がった。
「テオくん? 今日はどうしたんですか」
春に受け金具の付け方を聞きに店へ来た、あの職員のヨナスさんだ。少し疲れて見えるけれど、人当たりのいい顔は変わっていない。
「今日は一日、ここで見せてもらってもいいですか。口は出しません。見て、聞くだけです」
「ええと、構いませんが……面白いものは、何もありませんよ」
驚いた顔のまま笑って、ヨナスさんはカウンターの端に小さな椅子を置いてくれた。
俺が椅子に腰を下ろすと、フィーネは掲示板へ歩いていき、一枚の紙をつまんだ。町の中の配達の依頼書らしい。ぷつ、と紙がくぎから外れて、あとに小さな穴だけが残る。フィーネは紙を持って列の最後に並び、順番が来ると、ヨナスさんが名前を書きこんで、話はあっというまに済んだ。
あの穴は、あとで誰かが思い出してくれるのだろうか。ふと、そんなことが気になった。
そのまま椅子に座って、ひとつずつ見ていく。
最初に来たのは、町の女の人だった。庭の草むしりを頼みたいと、紙を差し出す。受け取った紙をざっと読むと、ヨナスさんは隅に鉛筆で『初心者向け』と書きこんだ。
「前にも、似た依頼があったので」
そう言って、掲示板の空いている所に、くぎで留める。札の決め方は、それだけのようだ。
次に、若い冒険者が一枚の紙を外してきて、カウンターに置いた。紙の隅に名前を書くと、ヨナスさんはそれを机の脇の木箱に入れた。受けた人の名前は、紙の隅にしかない。そして、その紙が箱の中のどこにあるのかは、ヨナスさんが覚えているだけだ。
しばらくして、年配の冒険者が、のっそりとカウンターに来た。
「なあ、先週あった東の見回りの依頼、もう誰か受けたのか」
「ええと……」
考えこんだヨナスさんは、木箱をひっくり返した。紙を一枚ずつめくって、指でたどる。額の汗を袖でぬぐった。
「貼り出していないなら、受けた方がいるか、取り下げられたか、のどちらかのはずなんですが。どちらだったか、すぐに思い出せなくて」
「そうか」
「すみません。確かめて、あとでお伝えします」
冒険者は肩をすくめて去っていった。カウンターの内側では、ヨナスさんが同じ紙を何度も見直している。結局、あの紙は見つかったのだろうか。
昼すぎになって、列が少し落ち着いた。席を立った俺は、掲示板の前へ行った。近くで見ると、紙のすき間のあちこちに、小さなくぎ穴が空いている。紙のついていない穴だ。ひとつ、ふたつ、と数えていくと、7つあった。朝にフィーネが外した紙の跡も、きっとそのなかのひとつだ。
受けられて、外された跡だろうか。風で落ちた跡か。取り下げられた跡か。穴は何も語らない。どの紙がここにあったのか、いつなくなったのか、誰にも分からないのだ。
そのとき、掲示板の端の紙が一枚、はらりとはがれて、床に落ちた。近くにいたヨナスさんが、あっ、と小さく声を上げて走ってきて、紙を拾った。広げて読み、掲示板を見上げて、首をかしげる。
「これ、いつから貼ってあったかな」
紙には、日付がない。小さくうなってから、ヨナスさんは近くの空いた穴に、くぎを刺して留めた。いつ貼られた依頼なのか、どれだけ古いのかは、ヨナスさんが覚えているかどうかにかかっている。口は出さないと約束した。だから、俺は黙って見ていた。胸の中で、小さく息が詰まった。
カウンターのそばに、返された貸出品のかごがあった。携帯灯や合図具が入っている。2年前よりずっときちんと並んでいて、板のおかげで、ちらつく灯りは減った。ただ、返された品を誰が確かめるのかは、決まっていないらしい。手の空いた人が出して、見る。かごの横に、見る人の名前を書いた札はなかった。それを口にするのは、今日ではないと思った。
そこへ、フィーネが戸口から戻ってきた。朝に受けた町の配達を済ませて、報告に来たところらしい。すぐに、ヨナスさんが声をかけた。
「フィーネさん。北の農家の件ですが」
「あ、はい。どうなりました?」
「この3週間、昼休みに2回、おじいさんのところへ行ってみたんです。でも、悪気はないんです。毎回、次の市で払うよ、と言うだけで」
眉を下げて、ヨナスさんはすまなそうに続けた。
「ギルドの決まりでは、報酬は仕事が終わってから、依頼主からギルドが受け取って、冒険者の方にお渡しすることになっています。依頼をお預かりするときには、お金は受け取っていなくて。おじいさんからまだいただけていないので、お渡しできなくて。僕は、催促することしかできなくて」
「……そっか」
唇をとがらせたフィーネは、けれど、ヨナスさんを責めはしなかった。
「ヨナさんのせいじゃないよ。おじいさんが、のんびりしてるだけだもん」
のんびりしている人が悪いわけではない。でも、フィーネは3週間、待っている。誰も悪くないのに、誰かが困っている。胸の奥のざらつきが、増えた。
ほっとしたように小さく頭を下げたヨナスさんは、それから机の木箱をかき回して、荷運びの紙を探し出し、隅に鉛筆で『確認 2回』と書き足した。字はひどく小さくて、本人にしか読めそうにない。
「市の日が過ぎたら、もう一度行ってみます」
「お願いします」
「ええ。言ってもらえないと、僕、忘れてしまいそうで」
ヨナスさんは笑っていたけれど、冗談には聞こえなかった。
俺は掲示板の前に戻って、札を見上げた。『入口付近・誰でも』と書かれた紙が、一枚あった。
「ヨナスさん。この『入口付近』は、どうやって決めているんですか」
静かに聞くと、ヨナスさんは、少し黙ってから答えた。
「前に似た依頼があったので、それを思い出して……。割れ目の先だったかどうかまでは、記録に残していなくて。僕が覚えていなければ、それっきりです」
そう言って、苦笑いした。
「毎晩、日が暮れてから、その日の依頼を帳面に書き写しているんです。書き写していても、全部は残せないんですが」
日が暮れてから。俺は、日が暮れたら仕事はおしまい、という家の決まりを、頭のすみで思い出した。何も言わなかった。
掲示板の隅には、あの紙があった。日に焼けて、角が丸くなっている。『旧市街の溝さらい』。
「あれは、毎日気になっているんですが、勧められる人がいなくて」
紙のほうに、ヨナスさんが目をやった。受ける人がいなければ、旧市街の人たちは、ずっと困ったままになる。
窓の光が傾きはじめるころ、俺は帰ることにした。席を立って、ヨナスさんに頭を下げる。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ、僕は何も。つまらなかったでしょう」
「いえ。たくさん、見せてもらいました」
本当のことだった。礼を言いながら、気がつくと、手が動きかけていた。この紙の束を、全部写して、整理して、分けて。家に持ち帰って、夜のうちに。
指を、ぐっと握りこんだ。ここは、俺の仕事場ではない。俺が一人でやることでもない。一人で抱え込まないと決めたことが、頭に浮かんだ。
「ヨナスさん。いちばん困っていることは、何ですか」
少し考えてから、ヨナスさんはゆっくりと答えた。
「……紙が、どこにあるか分からなくなること、でしょうか。それから、覚えていなければ、誰にも分からなくなること」
やっぱり、そうだった。俺はうなずいて、続けた。
「僕の母さんは、役所で台帳の仕事をしています。ニナさんは、数字に強いです。二人にも、聞いてみていいですか。ここの仕事のしかたを、ヨナスさんに無断で決めたくないので」
目を丸くしたヨナスさんは、それから、少しだけ肩の力を抜いた。
「お願いします。……ありがとうございます、テオくん」
具体的な日は、決めなかった。母さんとニナさんの都合を聞いてから、また来る。そう伝えて、戸口へ向かった。
外に出ると、フィーネが待っていた。次の配達が町の側にあるそうで、街道を途中まで一緒に歩く。
「どうだった?」
「うん。ちゃんと見てよかった」
「そっか」
それ以上、フィーネは何も聞かなかった。町へ向かう街道に、日暮れ前の光が長く伸びていた。出張所の掲示板の、あの7つの穴にも、きっと同じ光が差しているのだろう。




