第19話 最初の百枚
八柱暦4100年5月21日、風の日。昼すぎの店には、開け放した窓から初夏の風が入って、作業台に広げた図面の端をぱたぱたと鳴らしていた。いつものように、ニナさんのあとから商会の人足が故障品の木箱を抱えて戸口をくぐり、作業台の脇に下ろして帰っていく。ニナさんはその中身を父さんと一緒に数えて、作業台に並べていった。今週は10個。ここまでは、いつもの風の日だった。
受け取りの印をもらったあとも、ニナさんは帰らなかった。帳面を開いて、鉛筆の先で同じ行を何度もたどっている。口がへの字に結ばれていて、いつもなら数字を読み上げる声が、今日は出てこない。
「ニナさん、どうかしたんですか?」
声をかけると、ニナさんは顔を上げて、帳面をこちらへ向けた。
「板のことです。先月から、町の修理店に置いていただけるよう、回っているんですが」
帳面には、ミルフェンの修理店の名前が11軒、縦に並んでいた。丸がついているのは、そのうちの2軒だけ。横に書かれた売れた数は、全部足しても十数枚にしかならない。
「置いてくださったのは2軒だけで、売れたのも、まだ十数枚です。いちばん古いお店、石橋のたもとのオットーさんのところでは、板を見せたとたんに、親方の形を捨てろってのか、と言われて、追い返されてしまいました」
帳面の一番上の行には、その店の名前があり、丸の代わりに太い線が引かれている。
「ほかの古いお店も、オットーさんが置かないなら、と様子を見ています」
唇をかんで、ニナさんは帳面の角をぎゅっとにぎった。
「値段なら、いくらでも説明できるんです。本体が200ディル、量り板が30ディル、受け金具さえ付ければどこの工房の品にも使えます、と。でも、そういうことじゃないみたいで」
作業台の向こうで、父さんが手を止めた。銀ごてを台に置き、しばらく窓の外を見てから、ぽつりと言う。
「オットーさんの気持ちは、分かる。俺も、親方に教わった形で食ってきた」
親方に教わった模様を、一本も違えずに刻んできた手を、父さんはゆっくり開いて、閉じた。
「言葉で言っても、通じねえよ。直して見せるしかない」
「僕、オットーさんの店に行ってみる」
父さんは小さく笑って、前掛けで手をふいた。
「あの人は、俺が若いころに世話になった人だ。お前一人で行かせるわけにはいかねえ。一緒に行く」
「私も、ご一緒させてください」
ニナさんが帳面を閉じて、背すじを伸ばした。さっきまでの暗い顔は、少しだけ引っこんでいた。
◇
4100年5月25日、火の日。旧市街の石橋のたもとに、オットーさんの店はあった。古い石造りの小さな建物で、軒に下がった看板は文字が薄れて、何の店かは戸口の札を見ないと分からない。父さんが先に立って戸を引くと、乾いた金属のにおいと、銀ごての先が焼くかすかな焦げ臭さが流れてきた。
店の中は、驚くほど整っていた。壁ぎわの棚には、同じ形の手あぶりや卓上の灯りが、同じ向きで、同じ間をあけて並んでいる。札の字までそろっていて、棚ごと1冊の帳面みたいだ。
奥の作業台では、白くて太い眉の老人が背を丸め、銀ごてで細い線を刻み直していた。節の太い指は、ひと筋ごとに、ほんの少しも震えない。
「ご無沙汰しています、オットーさん」
父さんが帽子を取って、深く頭を下げた。
「ハンスか」
オットーさんは、手を止めずに言った。
「商会の嬢ちゃんまで連れて、何の用だ」
「テオが、どうしても見ていただきたい物があると言うので」
父さんが敬語を使うのを聞くのは、少しくすぐったい。俺は一歩前に出て、かばんから本体の板を取り出した。けれど、差し出す前に、オットーさんの手がぴたりと止まった。
「その板か」
低い声だった。銀ごての先が、ゆっくり赤みを失っていく。
「俺は、親方に教わった形を、40年刻んできた。それを、こんな板っきれに替えろってのか」
言い返す言葉はいくつか浮かんだが、どれも口にしなかった。店の中が静かで、隣のニナさんが息をのむ音まで聞こえる。
代わりに、店の中を見回した。きちんと並んだ棚の、いちばん奥の端。そこだけ、ほこりをかぶった品が3つ、札を下げて寄せてあった。手あぶり、携帯灯、温水器。どれも、手前の棚の品とは形が違う。ねじの頭の向きも、外板の継ぎ目も、この店の造りではなかった。札には『預かり 模様不明』と書いてある。
「あの奥の3つは、何ですか?」
オットーさんの太い眉が、ぴくりと動いた。しばらく黙ってから、ぼそりと答える。
「よその工房の品だ。親方の工房のじゃねえ」
「直さないんですか?」
「模様が分からねえ。分からねえ物を、勘で刻むわけにはいかねえ」
3つのほうを見ずに、オットーさんは続けた。
「持ち主には、王都の工房へ送るしかないと言ってある。だが、送るのも高い。それで、ああして置いてあるだけだ」
ニナさんが、帳面をにぎる手に力をこめた。父さんは何も言わず、オットーさんの横顔を見ている。
「あの3つを、直させてもらえませんか。この板で」
オットーさんは腕を組み、むっつりと黙っていた。やがて、あごを小さくしゃくる。
「見ているだけだぞ」
棚から下ろしてもらった3つを作業台に並べ、持ってきた小さな箱を開けた。中は仕切りに分かれていて、受け金具と本体の板、それに小指の爪ほどの量り板が、小・中・大の順に収まっている。
まずは手あぶりから。外板のねじを外して蓋を開けると、見たことのない模様の回路がびっしり刻まれていた。確かに、オットーさんの親方の形とは別物だ。その模様は写そうとせず、魔石から出た線が最初に入る所を見つけて、自分の銀ごてで受け金具を取り付けた。小さな爪を差しこむ口が、ひとつできる。
「受け金具は、一度付ければおしまいです。あとは、こうします」
本体の板の爪を差しこむと、かちん、と小さな音がして、板が収まった。くぼみに、縁の刻みがひとつの量り板をはめる。手あぶりは小だ。蓋を戻して魔石に触れるとまもなく、外板がじんわりと温まりはじめた。
「あたたかいです」
手をかざしたニナさんが、小さな声で言った。
次は携帯灯。造りはまるで違っても、やることは同じだった。受け金具を付け、同じ本体の板を差し、くぼみには刻みがふたつの量り板をはめる。筒の脇のつまみを回すと、薄暗い店の隅に、白い光がまっすぐ伸びた。
最後の温水器は、3つの中でいちばん大きい。水差しの水を槽に注ぎ、受け金具を付け、同じ板を差す。くぼみには、刻みがみっつの量り板だ。しばらくすると、水面から細い湯気がすうっと立ちのぼった。
3つとも、板は同じ。替えたのは、量り板だけだった。
いつのまにか、オットーさんは作業台のすぐそばに立っていた。何も言わずに、箱に残っていた量り板を指でつまみ、縁の刻みを、ひとつ、ふたつ、みっつと数えている。太い指が、小さな板を壊さないように、ひどく慎重に動いていた。
長い沈黙のあとで、オットーさんが口を開いた。
「親方の形は、親方の工房の品のための形だ」
独り言のようにも、自分に確かめているようにも聞こえた。俺はうなずいて、言葉を選びながら話した。
「はい。この板は、親方の形を消すための物じゃないです。教わっていない品のための物なんです。あの棚のきちんと並んだ品は、オットーさんの模様で直すのがいちばんいいと思います。僕には、あんなにそろえて刻めません」
オットーさんは鼻から長く息を吐き、奥の3つと、手前の棚と、手の中の量り板を、ひとつずつ見ていった。それから、ニナさんに顔を向けた。
「親方の形は、俺が刻む。よその工房の品は、これで直す」
ニナさんが目を丸くして、背すじを伸ばす。
「嬢ちゃん。10枚、置いていけ」
“はい”と答えるより先に、ニナさんは帳面を開いて、鉛筆を走らせた。書き終えるなり、帳面を持ち上げて、顔の半分をそっと隠す。帳面の上からのぞく目が、少し赤かった。
石橋を渡る帰り道、ニナさんは商会へ知らせに走っていき、父さんと俺は並んで歩いた。川風が、橋の下から涼しく上がってくる。
「お前、最初から、あの棚を見てたな」
前を向いたまま、父さんが言った。
「入ったときから、気になってたんだ」
古いものを捨てさせなくても、新しいものは置ける。橋の石に反射する光を見ながら、そう思った。
◇
4100年8月3日、風の日。6月のうちに、板を置いてくれる店は2軒から5軒に増え、7月の終わりには8軒になった。オットーさんの店が置いたと聞いて、ほかの古い店が、ぽつぽつとあとに続いたのだ。店の壁に掛かった板の『町の修理店へ』の欄は、いつのまにか80をこえている。
夕方、作業場の窓から赤い光が斜めに差しこむころ、戸口の鈴がちりんと鳴った。
「テオ」
立っていたのは、日に焼けて、背が頭ひとつ近く伸びた少年だった。紺色の上着が、前に見たときよりずっと肩になじんでいる。
「ダリオ! もう帰ってきたの?」
「今朝の便で着いた。夏休みだからな」
ダリオは戸口に立ったまま、頭をかいた。
「その、久しぶりだな。元気そうで、何よりだ」
「ダリオこそ。真っ黒だよ」
「訓練で、毎日外に出ているからな」
そのとき、階段をばたばたと駆け下りる足音がして、リリが顔を出した。
「ダリオ兄ちゃんだ! 背、伸びてる! テオ兄よりずっと大きいね。ずるい」
「ずるくない。リリも大きくなったな」
「リリは6月に10歳になったの。もう子供じゃないんだから」
胸を張ったリリは、満足したのか、ダリオの上着のボタンをひとしきりながめて、“母さんに言ってくる”と階段を上がっていった。ダリオは苦笑して、ようやく店の中へ入ってくる。
ダリオの目が、壁の板の欄と、窓辺に置いた見本の板を順に追った。
「これが、手紙に書いてあった板か」
「うん。今はもう、町の修理店に80枚以上渡ってるよ。作ってるのは、ほとんど父さんとバルクのおじさんだけどね」
「お前が作ってないのか」
「手順書を書いたからね。僕がいなくても作れるように」
ダリオは見本の板を指でそっと持ち上げ、夕日にかざした。しばらく黙っていたが、やがて、ためらいがちに口を開く。
「実は、騎士学校でも、道具のことで困っていてな」
作業台の椅子に腰をおろして、ダリオは話しはじめた。
「夜の見回りの訓練では、携帯灯と合図具を使う。合図具というのは、甲高い音を鳴らして、離れた仲間に知らせる笛だ。どちらも、王国のあちこちの工房から入った品でな、造りがばらばらなんだ」
「壊れたら?」
「王都の工房へ送って、戻るまでひと月かかる。そのあいだは、数少ない灯りを何人かで回して使う。備品の係の先生が、いつも帳面とにらめっこしていてな」
そこでダリオは、見本の板を、もう一度見た。
「お前の板なら、どれにでも付くんだろう?」
「付くとは思うよ」
答えながら、窓辺の板に目をやった。
「でも、騎士学校の品は、王国の持ち物でしょう。僕が勝手に手を出していい物じゃないよ」
「そうだな」
ダリオは、あっさりうなずいた。
「言ってみただけだ。13歳の子供が騎士学校の備品を直しに行ったら、まず衛兵に呼ばれるだろうしな」
「そうなったら、ダリオのお父さんが来るんじゃない?」
「やめてくれ。それは、しゃれにならない」
2人で笑った。笑い声の向こうで、母さんが夕食の用意をする音が聞こえてくる。
ダリオの話を聞きながら、王都の大工房の、夜遅くまで消えない窓の灯りを、少しだけ思い出していた。
◇
4100年8月10日、水の日。昼すぎ、ニナさんが戸口に立った。今日は、木箱を抱えた人足の姿はない。帳面を胸の前に両手で持っていて、頬がはっきりと赤かった。
「テオさん、ラングナーさん。見ていただけますか」
開かれた帳面の最後の行に、今日の分まで書き足した数字が並んでいた。町の修理店に渡った板の数を、上から足していった合計が、ちょうど100。
「百枚です。今日の分で、ちょうど」
ニナさんは、うれしいのを隠そうとして、隠しきれずに、帳面で顔の下半分を覆った。目だけが、にこにこと笑っている。
父さんは黙って白墨を取り、壁の板の『町の修理店へ』の欄に、大きく100と書いた。書き終えた白墨の粉を、前掛けではたく。
「いい数字だ」
それだけ言って、父さんはほんの少し口の端を上げた。
百枚のうちで、俺が自分の手で作った板は、数えるほどしかない。ほとんどは、春にまとめた3枚の手順書を見ながら、父さんとバルクのおじさんが少しずつ積み上げたものだ。自分がいなくても板ができていく。それが何よりうれしかった。
そのときだった。窓辺の見本の板の向こうに、外から店をのぞいている人影があるのに気づいた。灰色の前掛けをした、30代くらいの男の人だ。男は窓の前から動かず、しばらく見本の板を見ていたが、やがて戸口へ回って、静かに店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
声をかけても、男はうなずくだけで、まっすぐ窓辺へ向かった。見本の板を手に取り、表を見て、裏返し、また表に返す。指先が止まったのは、身代わり線のあたりだった。男はそこを、本当に長く見ていた。店の中で、柱時計の振り子の音だけが聞こえる。
「あの、その板は」
説明しかけると、男は顔を上げて、静かに言った。
「これは、いくらですか」
「本体の板が200ディルで、量り板が30ディルです」
「そうですか。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げたが、男の目は少しも笑っていなかった。見本の板を元の場所へそっと戻し、男は何も買わずに、戸口から出ていった。
戸口の鈴が、ちりん、と鳴って、静かになる。
父さんが、男の去ったあとを見ながら、低い声で言った。
「あの前掛け、新市街の工房の人間だな」
ぱたん、とニナさんが帳面を閉じた。胸に抱えたまま、男が歩いていったほうの通りを、しばらく黙って見ていた。
窓の外では、いつのまにか夏の夕方の光が石畳を長く染めはじめている。壁の板に書かれた100の文字が、その色を受けて、白くはっきりと浮かんでいた。




