第12話 写し間違いの開示盤
八柱暦4099年7月10日、水の日。恩恵院の王国本院は、灰色の石を積み上げた大きな建物だった。中庭をぐるりと囲む廊下では、記録官たちが書類の束を抱えて足早に行き来していて、靴音が高い天井にこつこつと跳ね返る。宿舎で朝のパンを食べ終えた俺は、ハルトマンさんの背中を追って、迷子にならないよう小走りでついていった。
昨日の夕方、橋の上から眺めた大工房の通りと違って、ここの朝は静かだった。それでも、どの部屋の戸もひっきりなしに開け閉めされ、誰もが何かを書きつけている。インクと古い紙のにおいが、廊下じゅうにしみついていた。
「儀式の間は、この奥です。ミルフェンのものより、ずっと大きいですよ」
ハルトマンさんは、革の綴じ物を胸に抱えている。ミルフェンの神殿で取った記録の写しだそうで、歩きながら何度も抱え直しては、楽しみで仕方がないという顔をしていた。
重い扉を、係の職員が押し開けてくれた。儀式の間は天井が高く、細長い窓から朝の光が斜めに落ちている。その光の下、部屋の真ん中に、分厚い黒い石の板が据えられていた。
開示盤は、ミルフェンで見たものより一回り大きい。表面は水を張ったように磨かれて、天井の窓が小さく映りこんでいる。四隅には金属の枠がはめられ、その内側に、髪の毛ほど細い溝が刻まれていた。
「右手を盤の真ん中に置いてください。少しだけ魔力を吸われますが、痛くはありません」
係の職員が穏やかに言った。俺はうなずいて袖をまくり、言われたとおりに右手をのせる。石は、朝の空気よりもひんやりしていた。手のひらから、すっと何かが抜けていく。
次の瞬間、盤の奥がぼんやり白く光って、黒い石の中から古い文字が浮かび上がってきた。ミルフェンで見たものと同じ、共通語のどれにも似ていない、ひょろりと長い文字の列だ。ハルトマンさんが息をのむ気配がして、続けて、綴じ物を開く音がものすごい速さで響いた。
彼女は膝をつき、盤の横の台に写しを広げた。指で1文字ずつ押さえながら、盤と紙を交互に見比べていく。
「1文字め、同じです。2文字め、同じ。この払いの角度も……3文字め」
四隅の枠の溝から石板の縁へ、そこから磨かれた面の奥へと、魔力が静かに集まっていく流れが、頭の中で図になった。ミルフェンの儀式の日にも見えた図だが、あの日は緊張していて、ここまで細かくは追えなかった。四隅の枠から入る太い溝が8本、石板の縁へ流れこみ、縁に刻まれた細い溝がそのあいだを行き来して、流れを分けたり、合わせたりしている。網の目のような線の多くは、交わる所で流れが混ざり合っているのに、ところどころ、交わりの真ん中に麦の粒ほどの小さなひし形が刻まれた所があって、そこでは2つの流れが混ざらずに、そのまますれ違っていく。前世の図面で、線が線をまたぐ所に付ける印とそっくりだ。ただ、これが恩恵の答えなのか、慣れた目が勝手に図にしているだけなのか、自分でも見分けがつかなかった。
最後の1文字まで確かめ終えて、ハルトマンさんが顔を上げた。
「全部、同じです。ミルフェンの盤とも、1文字も違いません」
残念そうな声なのに、目だけはきらきらしている。
「同じ結果が出た、というのも大事な記録です。テオくん、手を離して大丈夫ですよ」
右手を離すと、文字はすうっと薄れて、盤はただの黒い石に戻った。手のひらに残った冷たさを、俺はズボンのわきでこっそりぬぐった。
昼前には、本院の小さな部屋に移った。窓の下に机と椅子が2つあるだけの部屋で、ハルトマンさんは新しい帳面を開き、ペン先をインク壺に浸した。
「では、聞き取りを始めますね。答えにくいことは、答えなくて構いません。分からないことは、分からないと書きますから」
そう言って、彼女は背すじを伸ばした。
「まず、回路が得意だと気づいたのは、いつ頃ですか?」
「2年半くらい前の冬です。父さんの作業場で、冷蔵箱の回路を見ていたときに、気づきました」
ペンが紙の上を走る。
「気づいた、というのは、どんなふうに?」
「回路を見ていると、線のつながりが、頭の中で図みたいに見えるんです。魔力がどこから入って、どこで詰まっているのかも」
「詰まっている場所まで!? それは、いつでも見えるんですか?」
「いつも、ではありません。集中して見ているときだけです。ぼんやりしていると、ただの線に見えます」
ハルトマンさんの目が、みるみる輝いた。ペンの動きが速くなり、口まで速くなる。
「集中したときだけ、ですね。ということは、見る力そのものより、見方に働きかける恩恵という筋も……いえ、まだ何も決められませんけど、これは未詳恩恵の記録の中でも、かなり具体的なお話で、しかも――」
そこで、ペンがぴたりと止まった。
「失礼しました。決めつけは、記録の大敵ですね」
「いえ。僕も、自分で分かっているのは、このくらいなので」
嘘は言っていない。前世のことは言えないけれど、聞かれたことには、ちゃんと本当のことを答えている。ハルトマンさんはそのあとも、得意になった順番や、苦手なもの、疲れ方、夜の眠り方まで、ひとつずつ丁寧に尋ねては、帳面を埋めていった。
書き終えた帳面は、3ページ分になった。
「今日の聞き取りで、恩恵の答えが出たわけではありません。でも、テオくんの言葉は、ここにそのまま残りました。それだけで、立派な収穫です」
「そう言ってもらえると、ほっとします」
窓の外で、昼の鐘が鳴った。
◇
午後、本院の地下へ続く階段は、降りるほどに空気が冷たくなった。突き当たりの重い戸を開けると、そこが記録庫だった。天井まで届く棚が、奥へ奥へと列をつくり、どの棚にも、背表紙の色あせた台帳がぎっしり並んでいる。何百年分という言葉は、大げさではなかったのだと分かった。
入口の机では、記録庫の番をしているおじいさんが帳簿をつけていた。白い髪をきちんとなでつけ、眼鏡の奥の目が細く笑っている。
「ようこそ、テオドールくん。足元に段がありますから、ゆっくりどうぞ」
低くて、ゆっくりした声だった。聞いているだけで、急ぐ気持ちが少しほどける。
「ありがとうございます。お世話になります」
頭を下げた俺の横で、ハルトマンさんが写しの綴じ物を机に置いた。
「今日は、響きではなく、文字の形で探します。恩恵名を読み上げても、似たものは見つかりませんでしたから」
ハルトマンさんは机に写しを広げ、上から薄い紙を重ねて、古い文字を丁寧に写し取った。それを見本にして、未詳恩恵の台帳を1冊ずつ開き、形の近い文字に印をつけていく。
俺も隣に座って、別の棚の台帳を受け持った。革の表紙は重く、めくるたびに古い紙がぱりぱりと鳴る。ひょろりと長い文字の列がページごとに何十も並んでいて、似ていると思って指を止めても、2文字めで払いの向きが違ったり、3文字めで線が1本足りなかったりした。
台帳を開き、指でなぞり、閉じて、次を開く。それを繰り返すうちに、机の脇には、閉じた台帳の山が積み上がっていった。棚の並ぶあたりには窓がなく、時間の経ちかたが分かるのは、おじいさんがときどき運んでくる温かいお茶だけだ。
気がつくと、数十冊をめくり終えていた。ハルトマンさんが最後の1冊を閉じ、梯子の段に腰を下ろす。
「……ありませんね。似ているものすら、ひとつも」
肩がすとんと落ちた。けれど、それも短い間のことだった。彼女は膝の上に帳面を広げると、すぐにペンを取った。
「分からないことが分かったのも、記録です。『似た形の恩恵名、なし』と書いておきます」
おじいさんが、湯気の立つ茶碗を盆にのせて戻ってきて、静かに言った。
「よければ、奥も見ていきますか。使わなくなった古い開示盤が、1枚だけ眠っていますよ」
「古い開示盤……そういえば、目録にありました。行ってみましょう、テオくん」
おじいさんの後ろについて、棚の列をいくつも過ぎた。奥へ進むほど灯りは少なくなり、紙のにおいに、乾いた石のにおいが混ざってくる。いちばん奥の壁ぎわで、おじいさんは足を止めた。
壁には、背の高い大きな板が、布をかぶって立てかけてあった。布の上にはうっすらほこりがのっているけれど、布そのものは何度も洗ってあるらしく、端がきちんとそろえられている。
「本院で昔使っていた盤です。ある年から、右手を置いても光らなくなりましてね。もう何十年も前のことですよ。院の盤の職人たちが、盤と一緒に残る写しの図のとおりに、何度も溝を彫り直しました。それでも、光らなかったんです」
おじいさんは、布の端をそっとなでるように整えた。
「この盤の仕組みを知っているのは院の職人だけで、ほかに頼める所もありません。捨てるに捨てられず、こうして布をかけて、手入れだけは続けてきました」
ハルトマンさんが、布のほうを見つめてつぶやいた。
「一度も光らないまま、何十年も……」
おじいさんは小さくうなずくと、布の端をつまんで、ゆっくりめくってくれた。
現れたのは、表面の曇った黒い石の板だった。朝に見た盤より少し小さく、水を張ったようなつやはもうない。四隅の金属の枠はくすんで、角のあたりの色が変わっている。けれど、枠にも盤の縁にも、髪の毛ほど細い溝が、朝の盤と同じように網の目になって走っていた。
ハルトマンさんが顔を近づけて言った。声が、いつもより小さい。
「どこも切れていないように見えますね。途切れも欠けもありません。形だけ見れば、どこもおかしくないです」
おじいさんが、枠の角を指さして話した。
「八柱の大神に当たる太い溝が、四隅から石板へ8本、ちゃんと通っているでしょう。これを見ると、この盤もまだ眠っているだけのように思えてしまうんですよ」
俺はその場にしゃがんだ。盤には触らない。両手を膝の上に置いて、目だけで溝を追う。
北西の隅から入る太い溝をたどり、その脇から枝分かれした細い溝を、斜めに追っていく。別の溝と出会って、また分かれる。迷路のようで、1本追うだけでも首が痛くなりそうなのに、頭の中の図が先へ先へと道を教えてくれる。朝の盤で見た図が浮かび、その上に、目の前の溝がぴたりと重なっていった。線が交わるたびに、流れが混ざるのか、すれ違うのかを確かめる。ほとんどの所は、朝の盤と同じだった。
北東の隅まで来たところで、目が止まった。
太い溝のすぐそばにある、細い溝どうしの交わり。朝の盤では、交わりの真ん中に小さなひし形が刻まれていて、2つの流れが混ざらずにすれ違っていた所だ。この盤には、そのひし形がない。溝はただ十字に交わって、流れがそのまま合わさっている。
ここで2つの流れが混ざったら、どうなるだろう。向きの違う流れがぶつかって、打ち消し合ってしまうのではないか。そうなれば、魔力は石板の奥まで届かず、盤は光らない。もちろん、これは俺の推測にすぎない。それでも、筋は通る。
「あの、写しの図を見せてもらえませんか。盤と一緒に残っている、という図です」
「ええ、もちろん。こちらです」
おじいさんは棚の下から、平たい木箱を引き出してきた。蓋を開けると、端の茶色くなった厚い紙が、何枚か重ねて入っている。広げてみると、どの線もきちょうめんで、迷いがなかった。描いた人の手は、少しも震えていなかったのだろう。
北東の隅に顔を近づける。流れがすれ違う交わりには、どれも交点の上に小さなひし形の印が描き添えてある。それなのに、あの1か所だけ印がなく、ただの交点として描かれていた。
昔の誰かが図を写したとき、その1か所だけ、印を描き落としたのだろう。あとの職人たちは、その図のとおりに、正しく丁寧に彫り直し続けた。丁寧にやればやるほど、同じ間違いが、きれいに再現されていく。
前世で何度も見た光景だ。コピペした1行が違っていて、あとの全員がそれを疑わずに使う。間違った仕様書のとおりに作れば、どんなに丁寧に作っても、間違ったものができあがる。
指でなぞって溝の形を確かめれば、すぐに分かる。そう思ったところで、俺は両手を背中で組んだ。触らない。触るのは、俺の役目じゃない。
右手だけを背中からほどき、盤に触れない所で指を止めたまま、北東の交わりを指さした。
「ここ、溝がただ交わっているだけですよね。今朝の盤では、同じ所に小さなひし形が刻まれていて、流れがすれ違っていました。図にも、ほかのすれ違う交わりにはひし形の印があるのに、ここだけ印がないんです」
おじいさんとハルトマンさんが、同時に盤と図へかがみこんだ。おじいさんは眼鏡を押し上げ、図の上で指を浮かせたまま、印と溝を見比べていく。ハルトマンさんは、帳面を開くのももどかしそうに、もう書き始めていた。
「本当です。ほかの交わりには、ここも、ここもひし形があるのに、この1か所だけ……。すぐに院の職人に……いえ、その前に、学院の先生にも見ていただいて、それから――」
ハルトマンさんの声がどんどん速くなり、ペンが紙の上を走る音が、静かな記録庫に響いた。おじいさんはひし形の印をひとつずつ指先で数えていたが、やがて、ゆっくり首を横に振った。
「私は何度もこの図を広げて、溝と見比べてきました。それでも、印が足りないことには、一度も気づかなかった」
ふと顔を上げると、奥の壁の天井近くにある、細長い窓が目に入った。外の地面すれすれに開いた窓で、ここへ来たときは灰色の細い線にしか見えなかったのに、いつの間にか夕焼けの色に染まっている。
以前の俺なら、気づかないまま続けていたはずだ。窓の色も、時間も、腹の減り具合も、目の前の図の外へ出ていってしまって、気づくのはいつも、誰かに止められてからだった。
「ハルトマンさん。日が暮れます」
ペンが止まった。ハルトマンさんは窓を見上げ、それから手元の帳面を見て、ふっと息を吐いた。
「本当ですね。最後の1行だけ、書かせてください」
さらさらと1行を書き終えて、ペンをインク壺のふちに置く。
「約束でしたね。日が暮れたら、私も書類を閉じます」
ぱたん、と帳面を閉じた。表紙の上に手をのせて、彼女はにっこり笑う。
「今日のことは、調査の記録にきちんと書きます。それから、本院には学院の先生がときどき魔術具を見に来られますから、そのときに、この盤のこともお話ししますね」
おじいさんは木箱の蓋をそっと閉じて、棚の下へ戻した。それから布を手に取り、盤にかけ直していく。ほこりを落としながら、端をていねいにそろえて、しみじみと言った。
「何十年も、誰も図のほうを疑わなかったんですなあ」
直したのは、俺じゃない。盤は今も光らないままで、明日になっても、曇った黒い石のままだろう。見ただけだ。それでも、胸の奥が、ほんの少しだけ温かかった。
3人で、石の階段を上った。足音がそろわなくて、それがなんだかおかしい。上のほうから、夕方の冷たい空気が降りてきていた。




