第11話 引き継ぎ書と魔導列車
八柱暦4099年7月8日、土の日。夕飯の皿を片づけた居間のテーブルに、俺は1枚の紙を広げた。明日の朝の列車に乗る前に、どうしても書き上げておきたかったものだ。
紙の一番上には、『ラングナー魔術具修理店 点検の手順』と大きく書いてある。その下に、携帯灯を見る順番を並べた。持ち手の付け根、魔石の受け口、回路板のふち。ひびが見つかったら赤い札を付けて別の箱へよけ、根線を二重にするところには絵を添えた。記録は番号ごとに1行ずつで、灯して振った結果まで書く。一番下には、テオドール・ラングナーと名前を入れた。
前世の言葉で言えば、これは引き継ぎ書だ。前世の俺には、書く暇もなかったし、渡す相手もいなかった。だから今、この紙を父さんの前に置けることが、思っていたよりずっとうれしい。
父さんが紙を受け取り、手元の灯りを引き寄せて、端から端までゆっくり読んでいった。読み終わるまで、母さんもリリも、湯気の立つお茶を前に黙って待っている。
「お前の字は読みやすいな」
「絵も付けたから」
「ああ。これなら間違えようがねえ」
父さんは紙の絵を指でとんとんとたどって、ふっと息を吐いた。
「店のほうは、板と票があるから心配いらねえ。お前は向こうのことだけ考えてろ」
母さんが湯のみを持ち上げて、明るく笑った。
「1週間くらい、なんとかなるよ。役所の帰りに、私も店をのぞくし」
そのとき、リリがカップを両手で持ったまま、ちらりと俺を見た。
「あとね、王都でも日が暮れたらおしまいだって、ハルトマンさんに手紙で言っといたから」
「いつの間に」
「3日前。返事も来たよ。もちろんです、だって」
「そういうのは、僕が自分で言うつもりだったのに」
「テオ兄は、言う前に回路を見て忘れるでしょ」
ぐうの音も出ない。父さんが横を向いて、肩を震わせている。リリはそんな父さんには目もくれず、身を乗り出してきた。
「それとね、お土産。王都のお菓子がいい」
「どんなの?」
「甘くて、長持ちして、テオ兄が途中で食べちゃわないやつ」
「最後の条件が、いちばん難しいな」
「道中で食っちまうなよ」
「父さんまで」
母さんが声を上げて笑い、リリが得意そうに胸を張る。
昼間、ブラントさんの店へあいさつに行ったときのことを思い出す。作業台から顔も上げずに、“大工房なんざ見なくていい。……いや、見てこい”とだけ言って、ブラントさんはまた虫めがねに目を戻した。
棚の上には、エマ姉さんの手紙が立てかけてある。休みの日に王都で会おう、と元気のいい字で書いてあった。
「明日の朝いちばんに、店の板の横へ貼っとく」
父さんは紙の四隅を指でのばして、テーブルの端にそっと置いた。柱時計を見ると、9時まであと少しだった。
◇
4099年7月9日、風の日。朝のミルフェン駅は、旅の荷物を持った人でいっぱいだった。家族4人でホームの屋根の下に並ぶと、リリが母さんの持たせてくれた昼の包みを勝手に持ち上げて、重さを確かめている。
ハルトマンさんは、ホームの柱のそばに立っていた。恩恵院の記録官らしく、書類のぎっしり詰まった革の鞄を、両腕でしっかり抱えている。俺たちに気づくと、鞄ごとぺこりと頭を下げた。
「おはようございます、ラングナーさん。テオくんも、おはようございます」
「頼みます」
父さんが、それだけ言って頭を下げた。母さんがその隣で、俺の襟をひとつ直す。
「テオ、行ってらっしゃい。夜9時を過ぎたら、道具には触らないこと」
「わかってる。母さんこそ、父さんが昼を抜かないように見ててね」
「任せて」
母さんの陰から、リリがひょいと顔を出した。
「ハルトマンさん、お手紙の約束、守ってくださいね」
「はい。お手紙、ちゃんと読みましたよ。日が暮れたら、私も書類を閉じます」
リリが満足そうにうなずいた。
乗りこむ前に、俺は先頭の車両へ走って、開いた扉から中をのぞきこんだ。大人の背丈ほどもある黒い箱が据えられていて、正面の丸い窓の奥では、抱えきれないほどの魔石が青白く光っている。その隣には、回路の入った鉄の箱。細い窓から、魔導銀の線が光の筋になって並んでいるのが見えた。うちで扱う携帯灯の魔石は親指の先ほどだから、比べるのもばかばかしい大きさだ。床の下から、腹に響く低い音が、靴の裏まで伝わってくる。
後ろの客車は、木の座席が向かい合わせに並んでいた。窓際に座ると、板の背もたれがひんやりする。向かいの席にハルトマンさんが座って、鞄を膝にのせた。通路の向こうでは、籠を抱えたおばあさんが、もう目を閉じている。
発車の合図が鳴った。ごとん、と足元が揺れて、体がゆっくり後ろへ引かれる。母さんとリリが手を振り、父さんが腕を組んだまま片手だけ上げて、ホームが窓の外を流れていった。石造りの旧市街の屋根、魔導灯の並ぶ大通り、その先の畑。麦の穂が、風に合わせて一斉に寝たり起きたりしている。森に入ると木の影が窓を次々に横切り、やがて長い橋の上に出て、下を川が光りながら流れていった。
町の外へ出るのは、生まれて初めてだ。頬が勝手に緩んで、窓に額をくっつけていたら、向かいでハルトマンさんが小さく咳ばらいをした。
「テオくん、退屈しないように、恩恵のお話をしましょうか。本院の古い台帳に、こんな恩恵があるんです。`麦踏みの恩恵`といって」
「麦踏みって、春に麦を踏んで歩く、あれですか」
「そう、あれです。持ち主のおじいさんが毎年春に畑を歩くと、その畑の麦だけが、遅い霜にも枯れなかったそうで。台帳には、隣の畑の人が毎年お礼を持ってきた、という書き込みまであるんですよ。最初の年は漬物、次の年は干し肉、その次は」
そこから話は、お礼の品の一覧になり、おじいさんの家族の話になり、台帳を書いた記録官の字のくせにまで広がっていった。麦畑を2つ過ぎても、森をひとつ抜けても、終わらない。台帳の話のはずなのに、恩恵の名前より漬物の種類のほうが、たくさん出てきた。相づちを打ちながら、内心でこっそり突っこむ。
「……それで、ええと。そうそう、テオくんの恩恵にも似た例が、どこかにあるかもしれませんが、それは本院で調べてからですね」
自分で話を切って、ハルトマンさんは少し照れたようにお茶を飲んだ。
昼ごろ、列車は途中の大きな駅に入って、ぎい、と長く音を立てて止まった。ホームで、駅員が声を張り上げる。
「魔石の交換です! しばらく止まります! 降りてもかまいませんが、出発の合図が鳴ったら戻ってください!」
駅員の声が終わらないうちに、俺はもう席を立っていた。扉に手をかけたところで、後ろから声が追いかけてくる。
「降りて大丈夫ですよ。見てきてください」
振り返ると、ハルトマンさんが鞄を抱えたまま、笑ってうなずいていた。俺は小さく頭を下げて、ホームへ飛び降りた。
先頭の車両の横には、人が集まりはじめていた。機関士が黒い箱の扉を開け、手袋をはめた手を上げて合図を送る。2人の駅員が、棒に吊った新しい魔石を、腰を落として少しずつ運んできた。1歩ごとに棒がしなって、足取りが重さを教えてくれる。古い魔石が2人がかりで外され、新しいものが慎重に据えられていく。
そのとき、隣の鉄の箱の細い窓から、光がふっと消えた。ぱちん、と小さな音がして魔石が収まると、線の光が筋になって戻ってくる。魔石を替える間は、回路にも一度、灯りが落ちるのか。箱の蓋は閉じたままで、中は見えない。見えないのに、線の光り方が、さっきより落ち着いた気がする。見たい、と思ったが、手は後ろで組んだままにして、目だけを動かし続けた。
「テオくん」
声のほうを向くと、いつの間にか隣にハルトマンさんが立っていた。口元を手で押さえて、肩を震わせている。
「止まらない人なんですね。もう10分、まばたきもしていませんでしたよ」
「ハルトマンさんこそ、さっきの台帳の話、ずっと止まりませんでしたよ。漬物の一覧のあたりから」
「え。私ですか」
ハルトマンさんは目をぱちぱちさせて、鞄を抱え直した。少し考えて、ああ、と小さな声を出す。
「……止まっていませんでした、ね。私」
「はい。1回も」
顔を見合わせて、同時に吹き出した。周りの乗客が振り向くほど、2人で笑った。
「お互い、気をつけないといけませんね」
「リリに、2人分見張ってもらいましょう」
ハルトマンさんが目尻をぬぐったところで、出発の合図が鳴った。俺たちは急いで客車へ戻った。
◇
午後、列車は線路が1本になる区間の手前の、小さな駅で止まった。窓の外には、低い木の駅舎と、ひまわりの咲く花壇が見える。ハルトマンさんが、手首の時計を見て言った。
「ここで、向こうから来る列車とすれ違うんです。先の駅から知らせが来るまで、待つ決まりで。30分ほど止まります」
「30分も」
「その間に、お昼にしましょうか」
母さんの包みを開けると、焼いた肉と卵を挟んだパンが2つ入っていた。ハルトマンさんは、鞄の上に布を広げて、自分の丸いパンを置く。窓を開けると、草のにおいのする風が入ってきた。
パンをかじりながら外を見ていると、開け放した駅舎の窓の向こうで、駅員が机に向かっていた。壁には、細かい升目を引いた紙が貼ってある。何時にどの列車がどこを通るかを書いた、運行表だ。駅員は鉛筆を耳にはさみ、その表の上を、太い指でゆっくりたどっていく。指が止まり、うなずき、また動く。やがて机の端の小さな箱に手をのばし、金色のつまみを、かち、かち、かちと、短く長く押しはじめた。遠信だ。線路沿いに張られた線を通して、離れた駅へ知らせを送る道具だと、初等学校で習った覚えがある。短く、長く。押す長さの組み合わせで、文字を伝えているのだろう。前世でいえば、電信のようなものか。
しばらくして、箱の上の小さな灯りがちかちかとまたたき、細い紙のテープが少しずつ出てきた。駅員はテープを指でたぐって読み、運行表に鉛筆を走らせ、消して、書き直す。どこかで遅れが出たらしく、続きの欄の時刻が、順番に直されていく。書き終えると、またつまみを押して、今度は後ろの駅へ同じ知らせを送った。
前世でダイヤと呼んでいたものが、目の前にある。こんなに大きな仕事が、紙の表と、遠信の線と、駅員の手と頭だけで回っているのだ。感心して、しばらく声も出なかった。同時に、背中の奥のほうが、ほんの少しだけ冷えた。どこか1か所で人の手が止まったら、この線の上の列車は、全部止まる。
口には出さなかった。立ち上がることもせず、ただ座ったまま、駅員の指の動きを見ていた。あの表に、俺の手は要らない。今日の俺の仕事は、パンを食べて、見ていることだ。
やがて、窓の外の空気が、低く震えはじめた。向こうから、同じ色の列車が、ゆっくり駅へ入ってくる。反対側の線路に止まった窓の中で、リリと同じ年ごろの女の子が、こちらに手を振っていた。振り返すと、女の子は嬉しそうに何度も跳ねた。
ホームに出てきた駅員が、首から下げた笛のような合図具を短く吹いて、旗を上げた。列車の間の空気がふっと軽くなる。向こうの列車が先に動き出して、長い車体が、窓の前をゆっくり流れていく。最後の車両が通り過ぎると、駅員がこちらへ旗を振った。がくん、と床が揺れて、俺たちの列車も動き出す。駅員が帽子に手をやって、見送ってくれた。
◇
夕方、列車は王都アルヴェンの駅に入った。
屋根は、家が何軒も入りそうな高さの鉄の梁で組まれていて、その下に、何本もの線路が並んでいる。どのホームにも人があふれ、荷車の車輪の音、売り子の呼び声、発車を知らせる合図の音が、頭の上で混ざり合って鳴っていた。ミルフェンの駅がまるごと、ひとつの隅に入ってしまいそうだ。ぽかんと口を開けて天井を見上げていたら、ハルトマンさんに袖を軽くつままれた。
「はぐれないでくださいね。ここは、ミルフェンの何倍も人がいますから」
「はい」
鞄を持ち直して、人の流れに乗る。改札を出ると、石畳の大通りが夕日で赤く染まっていた。荷車と人が入り交じり、歩くだけで、肩が何度も誰かにぶつかる。俺はハルトマンさんの鞄の留め金だけを見て、必死に後ろをついていった。
川にかかる大きな橋の上で、ハルトマンさんがふと足を止めた。夕日はもう建物の向こうへ沈みかけていて、街が端から順番に暗くなっていく。石の欄干も、川面も、家々の屋根も、灰色の中に静かに沈んでいった。
その暗がりの中で、川下の一角だけが、消えなかった。煙突が何本も並び、煙が空へ上がり続けている。ずらりと並んだ窓には、ひとつも欠けることなく、灯りがともったままだ。
ハルトマンさんが、その光を指さして、悪気のない声で言った。
「あれは大工房の通りです。あそこは夜遅くまで灯りが消えないんですよ。王都の働き者の街、なんて呼ばれています」
少し感心したような、誇らしげな声だった。夜中まで灯りの消えなかった部屋の中に、前世の俺はいた。外から見れば、あんな光に見えたのだろうか。胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。何も言わずに、欄干の冷たい石を、指でなぞる。
最後の夕日が、屋根の向こうに消えた。ハルトマンさんは鞄を抱え直し、留め金をぱちんと閉じて、にこっと笑った。
「さあ、日が暮れました。今日の仕事はおしまいです」
「はい。約束ですから」
俺も笑って、荷物を抱え直した。宿舎は、橋を渡ってすぐ先だという。川下の光にもう一度だけ目をやってから、ハルトマンさんの背中を追って歩き出した。橋の先の石畳では、魔導灯が1つずつ灯りはじめていた。




