第10話 呪いのような祝福
3月の終わりに初等学校を卒業すると、毎日の景色ががらりと変わった。朝起きて学校へ向かう代わりに、家の店とブラントさんの工房を行き来する、見習いの日々が始まったのだ。
儀式のあと、町ではしばらく俺の恩恵が噂の種になった。近所のおばさんからも道具屋のおじさんからも、顔を合わせるたびに“テオ坊、お前の恩恵って、ぶらっく、なんとかっていう珍しいやつなんだって?”と首をかしげられる。俺は毎回、“僕もよく分からないんです”と笑って流すしかなかった。まさか、前の世界で人を使い潰す働き方を指す言葉だとは、口が裂けても言えない。
4月の初めには、ダリオが騎士学校の寮へ旅立った。“手紙を書く。お前も無理をして倒れるなよ”と俺の肩に手を置き、大きな荷物を背負い直して歩いていった。フィーネは冒険者ギルドに登録し、ダンジョンの入口近くで薬草を摘む仕事を始めている。みんな、それぞれの場所で新しい一歩を踏み出していた。
うちの店にも変化があった。冬のあいだにギルドの上の許しが下りて、貸出品の点検を、ラングナー魔術具修理店がまとめて請け負うことになったのだ。父さん1人では到底さばききれない量だが、見習いになった俺が手を動かせるようになったから、引き受けられた仕事だった。
◇
八柱暦4099年4月15日、風の日。朝一番に、ギルドから点検の品を詰めた木箱が運び込まれてきた。冒険者たちが返した携帯灯と合図具が、合わせて60本ほどある。
家の作業場だけでは足の踏み場もない。話を聞いたブラントさんが、前の日に“うちの作業台を貸してやる。俺の前でやれ”と言ってくれていたので、俺は木箱の半分を抱えて町外れの工房へ向かった。
作業台に向かい、点検を始める。携帯灯の底の蓋を外し、中の回路板を取り出す。拡大鏡で、魔石台の根元から伸びる根線を丹念に追っていく。ひびを見つけたら、柄の魔石で先を赤くした銀ごてで銀を溶かして埋め、必要なら根線を二重にする。蓋を戻し、底のつまみを回して灯りをともし、上下に激しく振って、光がちらつかないか確かめる。合格したら筒の番号を確かめ、帳面に書き留める。合図具も、同じように魔力の通り道を一つずつ見ていった。
1本、また1本と終えるうちに、不思議な感覚が湧き上がってきた。頭の奥が、冷たい水で洗われたように澄んでいく。回路板をひと目見るだけで、どこに無理がかかっているかが、青白い図面のように浮かび上がる。この角度で曲がった線は熱がこもる。この合図具は、留め具がわずかに緩んでいる。不具合を見つけるたびに、手が速くなっていく。
迷いが消え、指先が勝手に次の動きを選ぶ。時間の感覚が、すっかり抜け落ちていた。腰の痛みも、足のしびれも、喉の渇きも感じない。むしろ、やればやるほど頭が研ぎ澄まされて、いくらでも続けられそうな気がした。
「おい。小僧」
肩をぐっと押されて、体がびくりと跳ねた。銀ごてを台に置き、顔を上げる。手持ちのランプを下げたブラントさんが、ひどく険しい顔で立っていた。
窓の外は、真っ暗だった。夕暮れの光はとうに消え、夜がすっかり町を包んでいる。壁の時計の針は、夜の8時半を指していた。日が暮れてから、もう2時間近くたっている。
昼飯を食べるのも忘れていた。朝から水の一杯も飲んでいない。それなのに、腹が減った感じも、体のだるさもまるでなかった。今すぐにでも次の合図具に手を伸ばせると、本気で思っていた。
「……あ。すみません、僕、こんな時間まで」
「日が暮れたら帰れと言ったはずだ」
ブラントさんの声は、低く静かだった。怒鳴られるより、ずっと重い。ランプの明かりの下で、職人の鋭い目が、じっと俺の顔を見つめている。叱るというより、昔どこかで見た何かを確かめているような目だった。
「その顔は知ってる。……疲れを感じねえ奴ほど、ある日いきなり倒れる」
胸の奥が冷たく縮んだ。前世の自分の姿が、一瞬だけ頭をかすめる。
「働けちまう奴ほど、止まり方を先に決めとけ。お前が手あぶりに引いた線を、自分にも引いとけ」
手あぶりに引いた線。強すぎる力が流れたときに、真っ先に切れて全体を守る、あの細い身代わり線だ。前世で言う「フェイルセーフ」を、俺自身にも用意しておけと、この人は言っている。王都の大工房で誰よりも働き、倒れて、すべてを手放した人が。
言い訳の言葉は出てこなかった。俺は背筋を伸ばして、深く頭を下げた。
「……はい、師匠」
「誰が師匠だ。さっさと片付けて帰れ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、突き放すような冷たさは、どこにもなかった。
◇
家に帰ると、母さんが店の前で待っていた。“ごめん、点検に夢中になっちゃった”と頭を下げ、詳しい話は明日するからと約束して、温め直してもらったスープを流し込み、ベッドに潜り込んだ。
だが、毛布をかぶって天井を見つめていても、眠気がまったく来ない。朝から10時間以上も同じ姿勢で作業をしていたはずなのに、肩の張りも、まぶたの重さもない。頭の奥では、まだ携帯灯の回路板がくっきりと回っていて、次はどこから手をつければ早く済むか、勝手に手順を組み立て続けている。
暗闇の中で、背中にじわりと嫌な汗がにじんだ。
これが、あの名前の正体だ。
`ブラックシステムエンジニアの恩恵`。
前世の俺は、終わらない仕事に追われ、栄養ドリンクでごまかし、会社の硬い床で仮眠を取りながら、すり減っていった。あのときは、限界を越えている苦しさを分かっていながら、それでも無理やり手を動かしていた。
だが、この恩恵は、もっとたちが悪い。無理を、無理だと感じさせないのだ。眠気も、空腹も、体の痛みも、集中に塗りつぶされてしまう。限界を知らせる警報が、最初から鳴らないようになっている。止まる理由を、体が教えてくれない。
祝福のはずの恩恵が、まるで、倒れるまで人を働かせるための呪いのように思えた。
呪いのような祝福。
その言葉が浮かんだとたん、ぞっとする寒気が背筋を駆け抜けた。前世の最後の夜がよみがえる。足元がぐらりと揺れて、目の前が暗くなって、そこで全部が途切れた。この恩恵に身を任せて手を動かし続ければ、今世でもいつか、同じように糸が切れる。
そんな終わり方は、二度とごめんだ。
俺は暗闇の中で、こぶしを握りしめた。
倒れるまで働けてしまうなら、倒れる前に止まる仕組みを、自分の外側に作ればいい。自分の体が止めてくれないなら、決まりと、止めてくれる人の手に頼ればいい。ブラントさんの言ったとおり、身代わり線を、自分にも引くのだ。
そして、一人で全部を抱え込まないこと。前世では、自分にしか直せない仕組みを抱え込み、誰にも引き継げないまま倒れた。今度は、誰でも使えるように設計して、人に渡せる形にする。自分も、周りも、使い潰されないように。
今度は倒れるまでやらない。一人で抱え込まず、仕組みで回す。
胸の奥で静かにそう決めると、張りつめていた頭が、少しだけほどけた。俺はゆっくりと息を吐いて、決めたとおりに目を閉じた。
◇
翌朝、台所には麦の粥とスープの匂いが漂っていた。スプーンを手に取ったものの、俺は口をつけないまま、向かいに座る父さんと母さん、隣でパンをちぎっているリリを見た。前世のことは話せない。けれど、自分の体の危うさだけは、隠さずに伝えておきたかった。
「父さん、母さん。僕、昨日の点検で気づいたことがあるんだ。作業に夢中になると、止まれなくなっちゃうみたい。お腹が空いたのも、疲れたのも、全然感じなくて……気がついたら、夜の8時半だった」
2人は顔を見合わせた。母さんは腕を組み、しばらく考え込む。役所の台帳を扱うときの、仕事の顔だ。
「じゃあ、テオにも決まりを作ろう。ブラントさんのところからは、日が暮れたらまっすぐ帰ること。家でも、夜9時を過ぎたら道具には触らない。父さんと同じね。守れなかったら、次の日は仕事なし」
迷いのない、きっぱりとした声だった。父さんが作業着の袖をまくりながら、にやりと笑う。
「灯りを消す係なら、慣れたもんだ。お前が作業場にこもってたら、俺が消して引っ張り出してやる」
「リリも見張ってあげる。テオ兄が夜ふかししてたら、すぐ母さんに言いつけるから」
隣のリリが、得意そうに胸を張った。
「……リリに見張られるのは、ちょっと悔しいな」
「悔しかったら、ちゃんと寝ればいいじゃん」
食卓に、小さな笑いが広がった。
母さんが決めた時間、父さんが消してくれる灯り、リリの生意気な見張り。どれも、暴走しそうな俺を途中で止めてくれる、俺のための身代わり線だ。自分一人の力で止まらなくていい。
スプーンですくったスープの温かさが、喉を通って胸の奥へ染みていった。
◇
4099年4月24日、闇の日。休みの日の昼下がり、店の入り口の鈴が鳴った。休みの札を下げているはずなのに、と思いながら店に顔を出すと、見慣れない身なりの若い女の人が立っていた。
紺色の上等な上着に細身のズボン。手には大きな革の鞄を提げ、胸元には見たことのない銀の記章を留めている。年は20歳を少し過ぎたくらいだろうか。明るい亜麻色の髪を後ろでひとつに束ね、旅のほこりを払ったばかりのようだった。
「突然お訪ねして申し訳ありません。こちら、ラングナー魔術具修理店でお間違いないでしょうか」
奥から、父さんと母さんも出てきた。
「ええ、そうですが……今日は休みでして。急ぎの修理ですか?」
「申し遅れました。私、恩恵院の王国本院で記録官を務めております、フリーデリケ・ハルトマンと申します。どうぞ、リーケとお呼びください」
とはいえ、初対面の大人をいきなり愛称で呼ぶ度胸は、俺にはない。ハルトマンさん、だ。
恩恵院の王国本院。王都アルヴェンにある、王国じゅうの恩恵の記録を束ねる所だ。魔導列車で半日かかる王都から、わざわざ記録官がやってきたのだ。
居間に通してお茶を出すと、ハルトマンさんはひと口だけ口をつけてから、机の上に書類を広げた。その目が、さっきまでの落ち着いた様子から一変して、きらきらと輝き始める。
「近くの支院から届いた開示の記録を読んで、どうしても自分の目で確かめたくて参りました。……あなたが、テオドール・ラングナーくんですね」
「はい、僕です」
「あなたの恩恵名は……『ぶらっく、しすてむ、えんじにあ』」
ハルトマンさんは、その言葉を、珍しい宝物の名前でも口にするように、少したどたどしく、でもとてもうれしそうに発音した。
「こんな響きの恩恵名は、本院の記録にもひとつもありません! 数百年分の未詳恩恵の台帳にも、古い書き付けの切れ端にもです。いったいどんな言葉なのか、どんな働きをする恩恵なのか……報告を読んだ夜から胸が高鳴って眠れなくて、気がついたら今朝の一番の魔導列車に飛び乗っていました」
身を乗り出して、早口で言葉を重ねていく。父さんと母さんが気圧されているのにも、まるで気づいていない。
俺は内心で苦笑した。この人も、夢中になると周りが見えなくなるたちだ。ついこの前の自分を見ているようで、人ごととは思えない。放っておいたら、夜通し書類を読んで倒れかねない。
ハルトマンさんは、はっと我に返って咳払いをすると、父さんと母さんに向き直った。
「失礼しました。本題を申し上げます。ラングナーさん。この夏、テオドールくんを王都の本院へお招きして、恩恵を詳しく調べさせていただけないでしょうか。往復の魔導列車も、王都での滞在も、すべて恩恵院が持ちます。危ないことはさせません。簡単な検査と、いくつか回路板を扱っていただくだけです」
それから、ハルトマンさんは俺のほうを見て、少しだけ声をやわらげた。
「王都には、王立魔術学院も、国でいちばん大きな工房もあります。あなたのような子には、見てほしいものがたくさんあるんです」
父さんと母さんが、そろって俺の顔を見た。大人だけで決めずに、俺がどうしたいのかを聞いてくれる目だった。
王都。大工房。王立魔術学院。胸の奥に、小さな火がともる。この町で覚えた回路の技と、ブラントさんから教わった心得を、もっと広い所で試してみたい。もっと多くの人が倒れずに済む仕組みを、作ってみたい。
「行きたいです。王都を見てみたい」
「本当ですか! よかった……!」
ぱっと顔を輝かせたハルトマンさんに、俺は人差し指を1本立てた。
「でも、1つだけ条件があります」
「条件、ですか?」
「調べるのは、日が暮れるまで。日が暮れたら、仕事はおしまいにしてください」
ハルトマンさんはきょとんとして、それから吹き出した。
「……分かりました。お約束します、テオくん。日が暮れたら、私も書類を閉じますね」
夕方、ハルトマンさんを見送って、俺は店の前に立った。西の空が、夕焼け色から薄紫へと移り変わっていく。春の終わりの風が、通りを吹き抜けていった。
屋根の向こう、魔導列車の線路がまっすぐに伸びる先に、王都アルヴェンがある。前世の俺は、一人で画面に向かい、誰にも助けを求められないまま倒れた。今世の俺には、止まるための決まりがあって、見張ってくれる家族がいて、口の悪い師匠がいる。
あの広い王都でなら、誰も使い潰されない仕組みを、もっと大きく作っていけるかもしれない。
「テオ兄ー! 夕飯できたよー! 早く来ないと、リリが全部食べちゃうからね!」
背中で、店の引き戸が勢いよく開いた。
「分かった、今行くよ」
俺は小さく笑って振り返り、明かりのともった家の中へ戻った。




