遠い黒海
第8話
「遠い黒海」
ブチャの街には、いつもの暮らしが流れていた。
朝になると市場が開き、パンの匂いが通りに広がる。
子どもたちは学校へ向かい、大人たちは仕事へ出かける。
けれど、ラジオやテレビの中では、不穏な言葉が増え始めていた。
黒海沿岸。
クリミア。
ロシア軍の動き。
ウクライナがNATOやEU加盟へ向けた姿勢を見せる中で、ロシアはそれを強く警戒していた。
表向きには演習。
表向きには安全保障。
表向きには自国民保護。
だが、その一つ一つの動きは、まるで大きな何かの前触れのようだった。
大人たちは不安を口にした。
「まさか、本当に戦争になるのか」
「いや、脅しだろう」
「でも、クリミアは危ない」
オレクサンドルには、まだ難しい話だった。
けれど父ミハイロがニュースを見る時の顔が、いつもより硬いことだけは分かった。
⸻
その週末。
オレクサンドルは両親と買い物へ出かけた。
市場には野菜やパン、干し肉、チーズ、布地、古い日用品が並んでいる。
カテリーナは値段を見ながら、慎重に品物を選んでいた。
「今日は小麦粉と卵、それから少しだけ果物ね」
ミハイロは工具店の前で足を止める。
オレクサンドルも同じように足を止める。
親子そろって、目が同じ方向を向いていた。
カテリーナはため息をつく。
「二人とも、買い物に来たのよ。工具を拝みに来たんじゃないわ」
「見るだけだ」
「見るだけ」
父子が同時に答えた。
「似すぎよ」
その時だった。
「オレクサンドル?」
聞き覚えのある声。
振り向くと、そこにオレーナがいた。
隣には父ヴィクトルと母ナタリヤ。
オレーナは白い帽子をかぶり、小さな紙袋を抱えていた。
「やっぱり!」
「オレーナ」
オレクサンドルは少し驚きながらも、嬉しそうに言った。
カテリーナが微笑む。
「あら、お友達?」
「学校で話した」
オレーナが元気よく言う。
「コンテストで会ったの。オレクサンドル、ラジオ作ったんだよ」
ナタリヤが目を細めた。
「ああ、あの優秀賞の子ね」
ミハイロは少し誇らしげに咳払いをする。
「まあ、本人が頑張りました」
ヴィクトルも笑った。
「うちのオレーナも、白鳥になりきってましたよ。少し転びかけたけど」
「パパ!」
オレーナが頬をふくらませる。
「転ばなかったもん!」
オレクサンドルが真面目に言った。
「転ばなかったのはすごい」
オレーナは満足そうにうなずいた。
「でしょ」
⸻
偶然の出会いに、親たちは自然と会話を始めた。
ミハイロとヴィクトルは仕事の話。
カテリーナとナタリヤは子どもたちの学校や食料の値段の話。
そして、誰かが言った。
「せっかくだし、近くで昼食でもどうですか?」
こうして二つの家族は、市場近くの小さな喫茶店へ入ることになった。
店内は広くはなかった。
木の椅子。
少し古いテーブル。
窓辺の花瓶。
壁にかかった風景画。
奥ではラジオが小さく鳴っていた。
ニュースの声が、時折不穏な言葉を運んでくる。
クリミア。
ロシア。
軍の動き。
国境。
大人たちは一瞬だけ黙った。
けれど、子どもたちはメニューを見ていた。
いや、正確には、オレクサンドルは店の照明を見ていた。
「このランプ、古い」
オレーナが笑う。
「食べる前にそこ見るの?」
「気になる」
「私はケーキが気になる」
「ケーキは仕組みないよ」
「あるよ。おいしい仕組み」
オレクサンドルは少し考えた。
「それは分解できない」
「分解したら怒られるよ」
二人は笑った。
⸻
ランチは、温かいスープとパン、少しの肉料理、そして子どもたちには小さな甘い菓子がついた。
裕福な食事ではない。
けれど、二つの家族で囲む食卓はにぎやかだった。
ヴィクトルがオレクサンドルに尋ねる。
「君は機械が好きなんだって?」
「はい」
「将来は技術者かな」
オレクサンドルは少し考えた。
「光をつける仕事がしたい」
ミハイロが驚いたように息子を見る。
「初めて聞いたぞ」
「今、思った」
ナタリヤが微笑む。
「素敵ね。暗い場所に光をつける仕事」
オレーナがすぐに言った。
「私は歌う人になる」
「踊る人じゃないのか?」
ヴィクトルが聞く。
「歌って踊る人」
「忙しいな」
「白鳥も歌う」
オレクサンドルが首をかしげる。
「白鳥って歌う?」
「私の白鳥は歌うの」
「それなら歌う」
オレーナは満足そうに笑った。
カテリーナはそのやり取りを見ながら、小さく言った。
「子どもたちの未来は明るいわね」
その言葉に、ほんの一瞬、大人たちの表情が曇った。
ラジオからまた、黒海沿岸の情勢についてのニュースが流れていた。
けれどナタリヤは、すぐに穏やかな声で言った。
「明るくしなくちゃいけないんです。私たちが」
ミハイロは静かにうなずいた。
「ああ。子どもたちには、暗い話ばかり聞かせたくない」
⸻
食事が終わる頃、オレーナはオレクサンドルの方を向いた。
「ねえ」
「なに?」
「今度、うちに遊びに来て」
オレクサンドルは少し驚いた。
「いいの?」
「うん。ママのピアノあるよ。私、白鳥の踊り見せる」
「転ばない?」
「転ばない」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
オレーナは笑った。
「その代わり、ラジオ見せて」
「持っていけるかな」
「持ってきて」
「壊れたら困る」
「じゃあ、私が見に行く?」
オレクサンドルは少し黙った。
子ども同士の何気ない約束。
けれど、その約束は妙に嬉しかった。
「じゃあ、まず僕が行く」
「決まり」
オレーナは手を差し出した。
オレクサンドルは一瞬迷ってから、その手を握った。
「約束」
「約束」
二人の親たちは、それを見て微笑んだ。
外では、ブチャの昼下がりの光が市場を照らしていた。
遠い黒海では、不穏な波が立ち始めていた。
だが、この小さな喫茶店のテーブルには、まだ平和があった。
スープの湯気。
子どもたちの笑い声。
親たちの穏やかなまなざし。
世界が少しずつ暗い方へ動き始めていることを、彼らはまだ知らなかった。
いや、大人たちは少しだけ気づいていた。
それでも、その日だけは信じたかった。
この子たちの約束が、ずっと守られる未来を。
⸻
次回予告
オレクサンドルは、初めてシェフチェンコ家を訪れる。
ピアノの音。
白鳥の踊り。
母ナタリヤの歌声。
機械と光の世界で育った少年は、音楽が人の心を動かす瞬間を知る。
一方、ニュースの中では、クリミアをめぐる緊張がさらに高まっていく。
次回、
第9話
「ピアノのある家」
子どもたちの笑い声の外側で、歴史は静かに歯車を回し始める。




