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光は息をしている  作者: リンダ


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9/22

遠い黒海

第8話


「遠い黒海」


 ブチャの街には、いつもの暮らしが流れていた。


 朝になると市場が開き、パンの匂いが通りに広がる。

 子どもたちは学校へ向かい、大人たちは仕事へ出かける。


 けれど、ラジオやテレビの中では、不穏な言葉が増え始めていた。


 黒海沿岸。


 クリミア。


 ロシア軍の動き。


 ウクライナがNATOやEU加盟へ向けた姿勢を見せる中で、ロシアはそれを強く警戒していた。


 表向きには演習。

 表向きには安全保障。

 表向きには自国民保護。


 だが、その一つ一つの動きは、まるで大きな何かの前触れのようだった。


 大人たちは不安を口にした。


「まさか、本当に戦争になるのか」


「いや、脅しだろう」


「でも、クリミアは危ない」


 オレクサンドルには、まだ難しい話だった。


 けれど父ミハイロがニュースを見る時の顔が、いつもより硬いことだけは分かった。



 その週末。


 オレクサンドルは両親と買い物へ出かけた。


 市場には野菜やパン、干し肉、チーズ、布地、古い日用品が並んでいる。


 カテリーナは値段を見ながら、慎重に品物を選んでいた。


「今日は小麦粉と卵、それから少しだけ果物ね」


 ミハイロは工具店の前で足を止める。


 オレクサンドルも同じように足を止める。


 親子そろって、目が同じ方向を向いていた。


 カテリーナはため息をつく。


「二人とも、買い物に来たのよ。工具を拝みに来たんじゃないわ」


「見るだけだ」


「見るだけ」


 父子が同時に答えた。


「似すぎよ」


 その時だった。


「オレクサンドル?」


 聞き覚えのある声。


 振り向くと、そこにオレーナがいた。


 隣には父ヴィクトルと母ナタリヤ。


 オレーナは白い帽子をかぶり、小さな紙袋を抱えていた。


「やっぱり!」


「オレーナ」


 オレクサンドルは少し驚きながらも、嬉しそうに言った。


 カテリーナが微笑む。


「あら、お友達?」


「学校で話した」


 オレーナが元気よく言う。


「コンテストで会ったの。オレクサンドル、ラジオ作ったんだよ」


 ナタリヤが目を細めた。


「ああ、あの優秀賞の子ね」


 ミハイロは少し誇らしげに咳払いをする。


「まあ、本人が頑張りました」


 ヴィクトルも笑った。


「うちのオレーナも、白鳥になりきってましたよ。少し転びかけたけど」


「パパ!」


 オレーナが頬をふくらませる。


「転ばなかったもん!」


 オレクサンドルが真面目に言った。


「転ばなかったのはすごい」


 オレーナは満足そうにうなずいた。


「でしょ」



 偶然の出会いに、親たちは自然と会話を始めた。


 ミハイロとヴィクトルは仕事の話。

 カテリーナとナタリヤは子どもたちの学校や食料の値段の話。


 そして、誰かが言った。


「せっかくだし、近くで昼食でもどうですか?」


 こうして二つの家族は、市場近くの小さな喫茶店へ入ることになった。


 店内は広くはなかった。


 木の椅子。

 少し古いテーブル。

 窓辺の花瓶。

 壁にかかった風景画。


 奥ではラジオが小さく鳴っていた。


 ニュースの声が、時折不穏な言葉を運んでくる。


 クリミア。

 ロシア。

 軍の動き。

 国境。


 大人たちは一瞬だけ黙った。


 けれど、子どもたちはメニューを見ていた。


 いや、正確には、オレクサンドルは店の照明を見ていた。


「このランプ、古い」


 オレーナが笑う。


「食べる前にそこ見るの?」


「気になる」


「私はケーキが気になる」


「ケーキは仕組みないよ」


「あるよ。おいしい仕組み」


 オレクサンドルは少し考えた。


「それは分解できない」


「分解したら怒られるよ」


 二人は笑った。



 ランチは、温かいスープとパン、少しの肉料理、そして子どもたちには小さな甘い菓子がついた。


 裕福な食事ではない。


 けれど、二つの家族で囲む食卓はにぎやかだった。


 ヴィクトルがオレクサンドルに尋ねる。


「君は機械が好きなんだって?」


「はい」


「将来は技術者かな」


 オレクサンドルは少し考えた。


「光をつける仕事がしたい」


 ミハイロが驚いたように息子を見る。


「初めて聞いたぞ」


「今、思った」


 ナタリヤが微笑む。


「素敵ね。暗い場所に光をつける仕事」


 オレーナがすぐに言った。


「私は歌う人になる」


「踊る人じゃないのか?」


 ヴィクトルが聞く。


「歌って踊る人」


「忙しいな」


「白鳥も歌う」


 オレクサンドルが首をかしげる。


「白鳥って歌う?」


「私の白鳥は歌うの」


「それなら歌う」


 オレーナは満足そうに笑った。


 カテリーナはそのやり取りを見ながら、小さく言った。


「子どもたちの未来は明るいわね」


 その言葉に、ほんの一瞬、大人たちの表情が曇った。


 ラジオからまた、黒海沿岸の情勢についてのニュースが流れていた。


 けれどナタリヤは、すぐに穏やかな声で言った。


「明るくしなくちゃいけないんです。私たちが」


 ミハイロは静かにうなずいた。


「ああ。子どもたちには、暗い話ばかり聞かせたくない」



 食事が終わる頃、オレーナはオレクサンドルの方を向いた。


「ねえ」


「なに?」


「今度、うちに遊びに来て」


 オレクサンドルは少し驚いた。


「いいの?」


「うん。ママのピアノあるよ。私、白鳥の踊り見せる」


「転ばない?」


「転ばない」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


 オレーナは笑った。


「その代わり、ラジオ見せて」


「持っていけるかな」


「持ってきて」


「壊れたら困る」


「じゃあ、私が見に行く?」


 オレクサンドルは少し黙った。


 子ども同士の何気ない約束。


 けれど、その約束は妙に嬉しかった。


「じゃあ、まず僕が行く」


「決まり」


 オレーナは手を差し出した。


 オレクサンドルは一瞬迷ってから、その手を握った。


「約束」


「約束」


 二人の親たちは、それを見て微笑んだ。


 外では、ブチャの昼下がりの光が市場を照らしていた。


 遠い黒海では、不穏な波が立ち始めていた。


 だが、この小さな喫茶店のテーブルには、まだ平和があった。


 スープの湯気。

 子どもたちの笑い声。

 親たちの穏やかなまなざし。


 世界が少しずつ暗い方へ動き始めていることを、彼らはまだ知らなかった。


 いや、大人たちは少しだけ気づいていた。


 それでも、その日だけは信じたかった。


 この子たちの約束が、ずっと守られる未来を。



次回予告


 オレクサンドルは、初めてシェフチェンコ家を訪れる。


 ピアノの音。

 白鳥の踊り。

 母ナタリヤの歌声。


 機械と光の世界で育った少年は、音楽が人の心を動かす瞬間を知る。


 一方、ニュースの中では、クリミアをめぐる緊張がさらに高まっていく。


 次回、

 第9話

 「ピアノのある家」


 子どもたちの笑い声の外側で、歴史は静かに歯車を回し始める。

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