ピアノのある家
第9話
「ピアノのある家」
シェフチェンコ家の玄関をくぐった瞬間、オレクサンドルは足を止めた。
部屋の奥に、大きな黒い楽器があった。
ピアノだった。
オレーナは得意げに胸を張る。
「これ、うちのピアノ」
オレクサンドルは、まるで初めて見る機械を前にしたように目を輝かせた。
「中、どうなってるの?」
「そこから?」
オレーナは少し不満そうだった。
「普通は、きれいとか、すごいとか言うんだよ」
「すごい。だから中が見たい」
父ヴィクトルが吹き出した。
「この子は本物だな」
母ナタリヤは優しく笑い、ピアノのふたを開けた。
「いいわよ。少しだけ見せてあげる」
オレクサンドルは、そっと近づいた。
中には、細い金属の線が何本も張られていた。
ピアノ線。
それがぴんと張られ、奥には小さなハンマーのような部品が並んでいる。
ナタリヤが鍵盤を一つ押した。
ポーン。
ハンマーが動き、線を叩く。
音が生まれた。
オレクサンドルは息をのんだ。
「叩いてる……」
「そう。鍵盤を押すと、中のハンマーが弦を叩くの」
「じゃあ、ピアノも機械?」
ナタリヤは少し考えてから、うなずいた。
「そうね。とても繊細な機械。そして、とても繊細な楽器」
オレーナが言う。
「機械だけじゃないよ。心もいるんだよ」
オレクサンドルは真剣に返す。
「機械にも心いるよ。雑にしたら壊れる」
ナタリヤは二人の会話を聞いて、目を細めた。
「二人とも正しいわね」
その日、ナタリヤはちょうどピアノの調律をする予定だった。
彼女はピアノ教室を開くかたわら、簡単な調律や手入れも自分で行っていた。
オレクサンドルはその作業を見学させてもらうことになった。
ナタリヤは小さな工具を取り出す。
調律用のハンマー。
くさび。
音叉。
オレクサンドルの目がさらに輝いた。
「ピアノにも工具使うんだ」
「ええ。音を整えるための道具よ」
ナタリヤは音叉を鳴らす。
澄んだ音が部屋に響く。
「この音に合わせて、弦の張り具合を少しずつ整えるの」
「張りすぎたら?」
「音が高くなりすぎる。弦にも負担がかかる」
「ゆるすぎたら?」
「音が低くなる。響きも悪くなる」
オレクサンドルはうなずいた。
「ネジと同じだ」
「ネジ?」
「締めすぎたら壊れる。緩すぎたら外れる」
ナタリヤは嬉しそうに笑った。
「本当にそうね。音も、道具も、ちょうどいいところが大事なの」
オレーナは横で少し退屈そうにしていたが、母が鍵盤を鳴らすとすぐに耳を澄ませた。
「今の、ちょっと変」
ナタリヤは娘を見る。
「分かった?」
「うん。少し、きゅってしてる」
オレクサンドルは驚いた。
「きゅって?」
「音が、きゅって」
「どういう意味?」
「きゅってしてるの」
説明にはなっていなかった。
けれどナタリヤは笑ってうなずいた。
「合ってるわ。少し高いの」
オレクサンドルは、オレーナを見た。
彼にはまだ、その違いがよく分からなかった。
でも、オレーナには聞こえている。
自分が配線の緩みを見つけるように、彼女は音のずれを感じ取っている。
そう思うと、少し不思議だった。
調律が終わると、ナタリヤは短い曲を弾いた。
部屋の空気が変わった。
同じピアノなのに、さっきより音が澄んでいる。
オレクサンドルは、ただ黙って聞いていた。
機械が正しく整うと、こんな音が出る。
それは、彼にとって新しい発見だった。
ナタリヤは弾き終えると、子どもたちに向かって笑った。
「子どもたちには、素晴らしい音を奏でてほしいの」
屈託のない笑顔だった。
「上手になることも大事。でも、それだけじゃない。きれいな音を聞いて、心が動くことを知ってほしいの」
オレーナは母に駆け寄った。
「私も弾く!」
「ええ。でも今日は踊りを見せるんでしょう?」
「あ、そうだった」
オレーナは慌てて部屋の真ん中に立つ。
ナタリヤが『白鳥の湖』の旋律を弾き始める。
オレーナは両手を広げ、つま先立ちになった。
まだ幼い踊り。
ところどころ危なっかしい動き。
けれど、音に合わせて体を動かす彼女の目は、本当に楽しそうだった。
オレクサンドルは、その様子をじっと見ていた。
ラジオが音を運ぶ。
インターフォンが声をつなぐ。
照明が部屋を明るくする。
そしてピアノは、人の心を動かす。
音楽とは、そういう仕組みなのかもしれない。
彼はまだ、それを言葉にはできなかった。
踊り終えたオレーナは、少し息を弾ませながら尋ねた。
「どうだった?」
オレクサンドルは真剣に言った。
「転ばなかった」
「そこじゃない!」
「きれいだった」
オレーナは一瞬黙った。
そして、顔を赤くした。
「……先にそれ言ってよ」
「ごめん」
ヴィクトルとナタリヤは声を立てて笑った。
窓の外では、穏やかな午後の光が揺れている。
だが、台所のラジオからは、クリミアをめぐるニュースが流れていた。
ロシア軍の動き。
政治的圧力。
ウクライナの進路。
大人たちは、その声にほんの少しだけ表情を曇らせた。
けれど子どもたちは、まだピアノのそばで笑っていた。
音を整える母。
踊る娘。
仕組みを見つめる少年。
この部屋には、まだ戦争の影は届いていなかった。
ただ、歴史の歯車は、外の世界で静かに回り始めていた。
次回予告
今度はオレーナが、ペトレンコ家を訪れる。
父ミハイロの工具箱。
自作のラジオ。
手作りのインターフォン。
音楽の家で育った少女は、光と音をつなぐ少年の世界を知る。
そしてクリミア情勢は、さらに不穏な色を濃くしていく。
次回、
第10話
「ラジオの声」
遠くから届く声は、時に未来の不安まで運んでくる。




