表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光は息をしている  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/31

ラジオの声

第10話


「ラジオの声」


 今度は、オレーナがペトレンコ家を訪れた。


 玄関を入るなり、彼女は目を丸くした。


 机の上には、工具箱。

 棚には部品。

 壁際には、オレクサンドルが作ったラジオ。

 そして台所近くには、手作りのインターフォン。


「……ここ、ちょっと工場みたい」


 オレクサンドルは胸を張った。


「工場じゃない。家」


「でも、ネジがいっぱいある」


「ネジは大事」


「うちにはピアノの楽譜がいっぱいあるよ」


「それも大事?」


「すごく大事」


 二人は顔を見合わせて、笑った。


 オレクサンドルは、さっそく自作のラジオを見せた。


「これ、前より遠くの放送も聞ける」


 つまみを回す。


 ザザッ。

 ザーッ。

 かすかな音の向こうから、人の声が浮かび上がる。


 オレーナは身を乗り出した。


「すごい。本当に遠くの声が聞こえるんだ」


「電波を拾ってる」


「声が空を飛んでるみたい」


「空じゃなくて電波」


「でも、私には空を飛んでるみたいに聞こえる」


 オレクサンドルは少し考えた。


「じゃあ、そういうことでもいい」


 その時、ラジオの音がふっと変わった。


 ニュースだった。


 クリミア。

 黒海。

 軍の移動。

 外交交渉。

 ロシア政権幹部との対立。


 部屋の空気が、わずかに重くなる。


 台所にいたカテリーナが手を止めた。


 ミハイロも、工具を持つ手を止める。


 そこへ、オレーナを迎えに来ていたヴィクトルとナタリヤも加わった。


 ラジオの声は、淡々としていた。


 だが、内容は穏やかではなかった。


「クリミアが……」


 ナタリヤが小さくつぶやく。


 ヴィクトルは眉を寄せた。


「黒海の要衝だ。あそこが不安定になれば、ただの地域問題では済まない」


 ミハイロも低い声で言う。


「政府は外交努力を続けている。でも、ロシア側は譲る気がないように見える」


 カテリーナは、子どもたちの方をちらりと見た。


 オレクサンドルとオレーナは、完全には意味を理解していない。


 けれど、大人たちの表情がいつもと違うことは分かっていた。


 ナタリヤは静かに言った。


「クリミアは、かつてナイチンゲールが戦火で傷ついた人たちを救うために尽くした場所でしょう」


 オレーナが母を見る。


「ナイチンゲール?」


「戦争で傷ついた人を助けた人よ」


「歌う人?」


 ナタリヤは少し悲しそうに笑った。


「名前は鳥と同じだけど、看護に尽くした人」


 オレーナは黙った。


 ナタリヤは続ける。


「そんな場所が、また戦争に巻き込まれるのかと思うと……胸が痛いわ」


 ミハイロはラジオを見つめた。


「歴史は、同じ場所に何度も傷を残すのかもしれないな」


 ヴィクトルは首を振る。


「でも、だからこそ外交で止めなきゃいけない。銃を持つ前に、言葉で止めなきゃ」


 その声には怒りが混じっていた。


 小さな家の中に、ラジオの雑音が響く。


 遠くから届く声。


 それは、オレクサンドルが誇らしく思っていた「遠くの声」だった。


 けれどその日、彼は初めて知る。


 遠くの声は、楽しい音楽や人の会話だけを運ぶわけではない。


 不安も運んでくる。


 恐怖も運んでくる。


 まだ見ぬ未来の影までも、運んでくる。



 しばらくして、ミハイロはラジオの音量を下げた。


「子どもたちに暗い話ばかり聞かせても仕方ない」


 カテリーナもうなずく。


「お茶にしましょう」


 ナタリヤは微笑んだ。


「そうね。今日はオレーナがオレクサンドル君の世界を見に来た日だもの」


 オレーナは、気を取り直したようにインターフォンを指さした。


「これ、声が届くやつ?」


「うん」


 オレクサンドルは嬉しそうに説明を始めた。


「ここを押すと、台所で音が鳴る。こっちのマイクで話すと、向こうに聞こえる」


「やっていい?」


「いいよ」


 オレーナはボタンを押した。


 ジジッ。


 台所のスピーカーが鳴る。


 オレーナは少し緊張しながら言った。


「こちら、白鳥です。聞こえますか」


 台所にいたカテリーナが吹き出した。


「聞こえます、白鳥さん」


 オレクサンドルは真面目に言った。


「白鳥はインターフォン使うんだ」


「私の白鳥は使うの」


「歌うし、しゃべるし、機械も使う」


「すごい白鳥でしょ」


「うん。高性能」


 オレーナはそれが褒め言葉なのか分からず、少し首をかしげた。


 大人たちは笑った。


 その笑い声が、さっきまでの重たい空気を少しだけやわらげた。



 夕方。


 シェフチェンコ一家が帰る時間になった。


 玄関先で、オレーナはオレクサンドルに言った。


「今度、またうちに来てね」


「うん。ピアノの中、また見たい」


「踊りも見て」


「転ばなかったら」


「もう、そこばっかり」


 オレーナは頬をふくらませる。


 オレクサンドルは少し笑った。


「じゃあ、今度はちゃんと見る」


「約束」


「約束」


 二人は小さく手を振った。


 その後ろで、大人たちはもう一度、短く言葉を交わした。


「何も起きなければいいですね」


 カテリーナが言う。


 ナタリヤは答えた。


「本当に」


 ミハイロは空を見上げた。


「子どもたちが笑っているうちは、この街はまだ大丈夫だと思いたい」


 ヴィクトルは低く言った。


「思いたい、じゃなくて、大丈夫にしなきゃいけないんだ」


 遠くの空は、夕焼けに染まっていた。


 ブチャの街には、まだ銃声はない。


 市場には人がいて、家々には灯りがともり、子どもたちは明日の約束を交わしている。


 けれどラジオの向こうでは、歴史が少しずつ音を立て始めていた。


 遠い黒海から届く不安。


 クリミアをめぐる対立。


 外交の言葉と、軍靴の足音。


 オレクサンドルはその日の夜、自分のラジオを見つめた。


 遠くの声を聞きたいと思って作った。


 けれど、遠くの声を聞くということは、遠くの痛みを知ることでもある。


 彼はまだ子どもだった。


 それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。


 オレーナの歌声のような、澄んだ音だけが世界にあればいいのに。


 そう思った。



次回予告


 クリミアをめぐる緊張は、さらに深まっていく。


 学校では、先生たちが子どもたちに「国」と「平和」について話し始める。


 オレクサンドルは、ラジオから流れるニュースの意味を知ろうとし、

 オレーナは、母の歌声が少しだけ悲しくなったことに気づく。


 次回、

 第11話

 「テレビの中の戦争」


 まだ遠いはずの戦争が、子どもたちの食卓に影を落とし始める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ