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光は息をしている  作者: リンダ


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12/21

テレビの中の戦争

 第11話

「テレビの中の戦争」


 冬の気配が、ブチャの街に戻り始めていた。


 朝の空気は冷たく、白樺の枝は裸に近くなり、家々の煙突からは細い煙が上がっていた。


 市場では、人々がいつもより小さな声で話している。


 話題は、食料の値段でも、子どもの学校でもなかった。


 クリミア。


 ロシア。


 領土。


 戦争。


 その言葉が、まるで冷たい霧のように街へ広がっていた。


 そしてある日、ロシア政権幹部から、クリミアの割譲を要求する声明が出された。


 ペトレンコ家の居間。


 古いテレビの前で、ミハイロとカテリーナは黙ってニュースを見ていた。


 画面の中では、スーツ姿の政治家が硬い表情で言葉を並べている。


 その後ろに映る国旗。

 淡々と読み上げられる声明。

 画面下を流れる文字。


 オレクサンドルは、床に座ってラジオの部品を整理していたが、両親の空気が変わったことに気づき、顔を上げた。


 カテリーナが、低い声で言った。


「クリミアは、昔からウクライナの領土でしょう」


 ミハイロは答えない。


 カテリーナは、テレビを見つめたまま続けた。


「あれだけ広い国土を持っていながら、それでも他国になった地域をよこせって……どれだけ強欲なのかしら」


 怒りを押し殺した声だった。


 いつもは穏やかで、食卓のことや子どものことを考えている母の顔ではなかった。


 オレクサンドルは、母を見た。


「ママ、クリミアってなに?」


 カテリーナは一瞬、言葉に詰まった。


 子どもにどう説明すればいいのか、分からなかった。


 ミハイロが静かに言った。


「ウクライナの南にある、大事な場所だ。海に面していて、たくさんの人が暮らしている」


「そこを、ロシアがほしいの?」


 ミハイロは苦い顔をした。


「そう言っている」


「なんで?」


 その問いに、部屋が静かになった。


 なぜ。


 大人たちは、その答えを知っているようで、実は誰も納得できていなかった。


 権力。

 軍事。

 歴史。

 港。

 支配。

 恐怖。


 説明できる理由はいくつもある。


 けれど、子どもの問いに耐えられる理由など、一つもなかった。


 カテリーナは、息子のそばへ行き、膝をついた。


「人はね、時々、持っているものだけでは満足できなくなるの」


「なんで?」


「もっと欲しい。もっと支配したい。自分の思い通りにしたい。そういう気持ちが大きくなりすぎる人がいるの」


 オレクサンドルは、手元の小さなネジを見た。


「でも、人のもの取ったらだめでしょ」


 カテリーナは小さくうなずいた。


「そうよ。だめなの」


「じゃあ、なんで大人がするの?」


 カテリーナは何も言えなかった。


 ミハイロが、テレビの電源を切った。


 画面が暗くなる。


 部屋に、薪の燃える音だけが残った。


 同じ頃、シェフチェンコ家でもニュースが流れていた。


 ヴィクトルは腕を組み、厳しい顔で画面を見ている。


 ナタリヤはピアノの前に座っていたが、鍵盤には触れられずにいた。


 オレーナは、母の横に立っている。


「ママ、今日、歌わないの?」


 ナタリヤは娘を見る。


 そして、無理に笑った。


「歌うわよ」


 けれど、その声はいつもより少し沈んでいた。


 ヴィクトルが言った。


「政府は必死に外交努力をしている。NATOやEUとの関係も含めて、国の進む道を守ろうとしている。でもロシアは、それが気に入らないんだ」


 ナタリヤは静かに返す。


「ウクライナが自分の未来を選ぶことが、そんなに許せないのね」


「支配したいんだろう」


「国も、人も、思い通りにはならないのに」


 オレーナは二人の言葉を完全には理解できなかった。


 ただ、母の顔が悲しそうなことだけは分かった。


「ママ」


「なあに?」


「悲しい歌?」


 ナタリヤは少し驚いた。


「どうして?」


「ママの顔、悲しい歌みたい」


 ナタリヤは娘を抱き寄せた。


「そうね。今日は少し、悲しい歌かもしれない」


「じゃあ、私が明るい歌うたう」


 オレーナは胸を張った。


 ヴィクトルの表情が少しだけやわらぐ。


「頼もしいな」


 オレーナはピアノの横に立ち、小さな声で歌い始めた。


 音程は完璧ではない。


 歌詞もところどころ曖昧だった。


 けれど、その声は真っ直ぐだった。


 ナタリヤは、娘の声を聞きながら目を閉じた。


 この子たちに、戦争の歌を覚えさせたくない。


 子守歌と、祝いの歌と、春を呼ぶ歌だけを歌わせていたい。


 そう願った。


 翌日、学校でもクリミアの話題が出た。


 先生は、黒板の前に立って、いつもより慎重な声で話した。


「みんなには、まだ難しい話かもしれません。でも、自分たちの国のことです」


 黒板には、ウクライナの地図が貼られている。


 先生は南の半島を指した。


「ここがクリミアです」


 子どもたちは静かに見ていた。


 オレクサンドルは、地図の形をじっと見つめる。


 オレーナも、少し離れた席で同じ地図を見ていた。


 先生は続けた。


「国には、そこに暮らす人たちの生活があります。家があります。学校があります。家族があります。地図の色だけで決められるものではありません」


 オレクサンドルは手を挙げた。


「先生」


「はい、オレクサンドル」


「人のものを取ったらだめなのに、国は取っていいんですか?」


 教室が静まり返った。


 先生は、すぐには答えなかった。


 そして、ゆっくり言った。


「いいわけがありません」


 その声は、震えていた。


「でも、世界には、それを力でやろうとする人たちがいます。だからこそ、私たちは学ばなければいけません。言葉で考え、歴史を知り、何が正しいのかを見失わないために」


 オレーナは、オレクサンドルの横顔を見た。


 彼は真剣だった。


 部品を見る時と同じ目で、地図を見ていた。


 仕組みを知ろうとしている。


 世界の壊れ方を、理解しようとしている。


 オレーナは少し怖くなった。


 世界は、ラジオのように直せるのだろうか。


 音がずれたピアノのように、調律できるのだろうか。


 もしできないなら、人はどうすればいいのだろう。


 放課後。


 校庭の白樺の下で、オレーナはオレクサンドルに声をかけた。


「ねえ」


「なに?」


「クリミアって、遠いの?」


「遠い」


「じゃあ、ここには来ない?」


 オレクサンドルは答えようとして、黙った。


 少し前なら、来ない、と言えたかもしれない。


 けれど、ラジオの声。

 テレビの声明。

 母の怒った顔。

 先生の震えた声。


 それらが、彼の中で引っかかっていた。


「分からない」


 オレーナの顔が曇る。


「分からないの?」


「うん」


「怖いね」


「うん」


 二人はしばらく黙っていた。


 風が吹き、白樺の枝が揺れる。


 オレーナは小さく言った。


「もし怖くなったら、歌うね」


 オレクサンドルが彼女を見る。


「歌ったら、怖くなくなる?」


「少しは」


「じゃあ、僕はラジオを直す」


「なんで?」


「遠くの声がちゃんと聞こえたら、何が起きてるか分かるから」


 オレーナはうなずいた。


「じゃあ、私は歌う。あなたは聞く」


「僕は直す。君は歌う」


 二人は、まるで子ども同士の遊びの約束のように言った。


 けれどその言葉は、ずっと先の未来で、別の意味を持つことになる。


 戦争の中で壊れた父を、娘の歌がつなぎ止める未来。


 暗い舞台に、誰かが光を灯す未来。


 その始まりは、この白樺の下にあった。


 その夜。


 カテリーナは食卓でパンを切りながら、またぽつりと言った。


「強欲な人たちのために、どうして普通に暮らす人が怯えないといけないのかしら」


 ミハイロは黙っていた。


 オレクサンドルは、その言葉を胸の奥にしまった。


 強欲。


 人のものを欲しがること。

 人の暮らしを奪うこと。

 自分の力を誇示すること。


 それがいつか、家族を引き裂くほどの力になることを、彼はまだ知らない。


 外には冷たい風が吹いていた。


 遠いクリミアをめぐる対立は、もうテレビの中だけの出来事ではなくなっていた。


 それは、ブチャの家庭の食卓に、学校の黒板に、子どもたちの会話にまで、静かに影を落とし始めていた。


 次回予告


 クリミアをめぐる対立は、ついに後戻りできない局面へ向かう。


 街では不安が広がり、学校では国旗を見上げる子どもたちの表情が変わっていく。


 オレーナは、母ナタリヤの歌が祈りに変わっていくのを感じる。

 オレクサンドルは、自分のラジオから流れるニュースに耳を澄ませる。


 次回、

 第12話

「それでも続く日常」


 歴史が揺れても、朝は来る。

 人は不安を抱えながら、パンを焼き、学校へ向かい、家族を抱きしめ

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