テレビの中の戦争
第11話
「テレビの中の戦争」
冬の気配が、ブチャの街に戻り始めていた。
朝の空気は冷たく、白樺の枝は裸に近くなり、家々の煙突からは細い煙が上がっていた。
市場では、人々がいつもより小さな声で話している。
話題は、食料の値段でも、子どもの学校でもなかった。
クリミア。
ロシア。
領土。
戦争。
その言葉が、まるで冷たい霧のように街へ広がっていた。
そしてある日、ロシア政権幹部から、クリミアの割譲を要求する声明が出された。
ペトレンコ家の居間。
古いテレビの前で、ミハイロとカテリーナは黙ってニュースを見ていた。
画面の中では、スーツ姿の政治家が硬い表情で言葉を並べている。
その後ろに映る国旗。
淡々と読み上げられる声明。
画面下を流れる文字。
オレクサンドルは、床に座ってラジオの部品を整理していたが、両親の空気が変わったことに気づき、顔を上げた。
カテリーナが、低い声で言った。
「クリミアは、昔からウクライナの領土でしょう」
ミハイロは答えない。
カテリーナは、テレビを見つめたまま続けた。
「あれだけ広い国土を持っていながら、それでも他国になった地域をよこせって……どれだけ強欲なのかしら」
怒りを押し殺した声だった。
いつもは穏やかで、食卓のことや子どものことを考えている母の顔ではなかった。
オレクサンドルは、母を見た。
「ママ、クリミアってなに?」
カテリーナは一瞬、言葉に詰まった。
子どもにどう説明すればいいのか、分からなかった。
ミハイロが静かに言った。
「ウクライナの南にある、大事な場所だ。海に面していて、たくさんの人が暮らしている」
「そこを、ロシアがほしいの?」
ミハイロは苦い顔をした。
「そう言っている」
「なんで?」
その問いに、部屋が静かになった。
なぜ。
大人たちは、その答えを知っているようで、実は誰も納得できていなかった。
権力。
軍事。
歴史。
港。
支配。
恐怖。
説明できる理由はいくつもある。
けれど、子どもの問いに耐えられる理由など、一つもなかった。
カテリーナは、息子のそばへ行き、膝をついた。
「人はね、時々、持っているものだけでは満足できなくなるの」
「なんで?」
「もっと欲しい。もっと支配したい。自分の思い通りにしたい。そういう気持ちが大きくなりすぎる人がいるの」
オレクサンドルは、手元の小さなネジを見た。
「でも、人のもの取ったらだめでしょ」
カテリーナは小さくうなずいた。
「そうよ。だめなの」
「じゃあ、なんで大人がするの?」
カテリーナは何も言えなかった。
ミハイロが、テレビの電源を切った。
画面が暗くなる。
部屋に、薪の燃える音だけが残った。
同じ頃、シェフチェンコ家でもニュースが流れていた。
ヴィクトルは腕を組み、厳しい顔で画面を見ている。
ナタリヤはピアノの前に座っていたが、鍵盤には触れられずにいた。
オレーナは、母の横に立っている。
「ママ、今日、歌わないの?」
ナタリヤは娘を見る。
そして、無理に笑った。
「歌うわよ」
けれど、その声はいつもより少し沈んでいた。
ヴィクトルが言った。
「政府は必死に外交努力をしている。NATOやEUとの関係も含めて、国の進む道を守ろうとしている。でもロシアは、それが気に入らないんだ」
ナタリヤは静かに返す。
「ウクライナが自分の未来を選ぶことが、そんなに許せないのね」
「支配したいんだろう」
「国も、人も、思い通りにはならないのに」
オレーナは二人の言葉を完全には理解できなかった。
ただ、母の顔が悲しそうなことだけは分かった。
「ママ」
「なあに?」
「悲しい歌?」
ナタリヤは少し驚いた。
「どうして?」
「ママの顔、悲しい歌みたい」
ナタリヤは娘を抱き寄せた。
「そうね。今日は少し、悲しい歌かもしれない」
「じゃあ、私が明るい歌うたう」
オレーナは胸を張った。
ヴィクトルの表情が少しだけやわらぐ。
「頼もしいな」
オレーナはピアノの横に立ち、小さな声で歌い始めた。
音程は完璧ではない。
歌詞もところどころ曖昧だった。
けれど、その声は真っ直ぐだった。
ナタリヤは、娘の声を聞きながら目を閉じた。
この子たちに、戦争の歌を覚えさせたくない。
子守歌と、祝いの歌と、春を呼ぶ歌だけを歌わせていたい。
そう願った。
翌日、学校でもクリミアの話題が出た。
先生は、黒板の前に立って、いつもより慎重な声で話した。
「みんなには、まだ難しい話かもしれません。でも、自分たちの国のことです」
黒板には、ウクライナの地図が貼られている。
先生は南の半島を指した。
「ここがクリミアです」
子どもたちは静かに見ていた。
オレクサンドルは、地図の形をじっと見つめる。
オレーナも、少し離れた席で同じ地図を見ていた。
先生は続けた。
「国には、そこに暮らす人たちの生活があります。家があります。学校があります。家族があります。地図の色だけで決められるものではありません」
オレクサンドルは手を挙げた。
「先生」
「はい、オレクサンドル」
「人のものを取ったらだめなのに、国は取っていいんですか?」
教室が静まり返った。
先生は、すぐには答えなかった。
そして、ゆっくり言った。
「いいわけがありません」
その声は、震えていた。
「でも、世界には、それを力でやろうとする人たちがいます。だからこそ、私たちは学ばなければいけません。言葉で考え、歴史を知り、何が正しいのかを見失わないために」
オレーナは、オレクサンドルの横顔を見た。
彼は真剣だった。
部品を見る時と同じ目で、地図を見ていた。
仕組みを知ろうとしている。
世界の壊れ方を、理解しようとしている。
オレーナは少し怖くなった。
世界は、ラジオのように直せるのだろうか。
音がずれたピアノのように、調律できるのだろうか。
もしできないなら、人はどうすればいいのだろう。
放課後。
校庭の白樺の下で、オレーナはオレクサンドルに声をかけた。
「ねえ」
「なに?」
「クリミアって、遠いの?」
「遠い」
「じゃあ、ここには来ない?」
オレクサンドルは答えようとして、黙った。
少し前なら、来ない、と言えたかもしれない。
けれど、ラジオの声。
テレビの声明。
母の怒った顔。
先生の震えた声。
それらが、彼の中で引っかかっていた。
「分からない」
オレーナの顔が曇る。
「分からないの?」
「うん」
「怖いね」
「うん」
二人はしばらく黙っていた。
風が吹き、白樺の枝が揺れる。
オレーナは小さく言った。
「もし怖くなったら、歌うね」
オレクサンドルが彼女を見る。
「歌ったら、怖くなくなる?」
「少しは」
「じゃあ、僕はラジオを直す」
「なんで?」
「遠くの声がちゃんと聞こえたら、何が起きてるか分かるから」
オレーナはうなずいた。
「じゃあ、私は歌う。あなたは聞く」
「僕は直す。君は歌う」
二人は、まるで子ども同士の遊びの約束のように言った。
けれどその言葉は、ずっと先の未来で、別の意味を持つことになる。
戦争の中で壊れた父を、娘の歌がつなぎ止める未来。
暗い舞台に、誰かが光を灯す未来。
その始まりは、この白樺の下にあった。
その夜。
カテリーナは食卓でパンを切りながら、またぽつりと言った。
「強欲な人たちのために、どうして普通に暮らす人が怯えないといけないのかしら」
ミハイロは黙っていた。
オレクサンドルは、その言葉を胸の奥にしまった。
強欲。
人のものを欲しがること。
人の暮らしを奪うこと。
自分の力を誇示すること。
それがいつか、家族を引き裂くほどの力になることを、彼はまだ知らない。
外には冷たい風が吹いていた。
遠いクリミアをめぐる対立は、もうテレビの中だけの出来事ではなくなっていた。
それは、ブチャの家庭の食卓に、学校の黒板に、子どもたちの会話にまで、静かに影を落とし始めていた。
次回予告
クリミアをめぐる対立は、ついに後戻りできない局面へ向かう。
街では不安が広がり、学校では国旗を見上げる子どもたちの表情が変わっていく。
オレーナは、母ナタリヤの歌が祈りに変わっていくのを感じる。
オレクサンドルは、自分のラジオから流れるニュースに耳を澄ませる。
次回、
第12話
「それでも続く日常」
歴史が揺れても、朝は来る。
人は不安を抱えながら、パンを焼き、学校へ向かい、家族を抱きしめ




