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光は息をしている  作者: リンダ


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13/22

それでも続く日常

 第12話

「それでも続く日常」


 ブチャの街に、朝が来る。


 市場にはパンの匂いが広がり、学校へ向かう子どもたちの足音が響く。

 白樺の枝は風に揺れ、家々の窓には朝の光が差し込む。


 けれど、その日常の底には、言いようのない不安が沈んでいた。


 クリミアをめぐる緊張は、もう遠いニュースではなくなっていた。


 大人たちは小声で話す。


「本当に攻撃する気なのか」


「独立したとはいえ、昔は同じ国だったのに」


「なぜ、かつて同じ国民だった人たちに銃を向けられるんだ」


 誰も答えを持っていなかった。


 答えのない問いだけが、家々の食卓に、学校の廊下に、市場の片隅に落ちていた。


 ペトレンコ家では、ミハイロがラジオの前に座っていた。


 オレクサンドルは、父の横で黙ってニュースを聞いている。


 ロシア政権幹部の強硬な発言。

 ウクライナ政府の抗議。

 外交交渉の難航。


 声は遠くから届いているはずなのに、まるで家の中に入り込んでくるようだった。


 カテリーナはパンを切りながら、ぽつりと言った。


「どうして攻撃するのかしら」


 ミハイロは答えなかった。


「昔は同じ国だったのに。言葉も、歴史も、家族のつながりもある人たちなのに。どうして、かつて同じ国民だった人たちに銃を向けられるの」


 その声には、怒りよりも深い悲しみがあった。


 オレクサンドルは母の横顔を見た。


 大人でも分からないことがある。


 大人でも、理不尽の前では言葉を失う。


 その事実が、彼には怖かった。


 一方、シェフチェンコ家では、ナタリヤがピアノの前に座っていた。


 いつものように歌っている。


 けれど、その歌は以前と少し違った。


 明るい民謡のはずなのに、どこか祈りのように聞こえる。


 オレーナは母の横で、その違いに気づいていた。


「ママ」


「なあに?」


「今日の歌、泣いてるみたい」


 ナタリヤの指が止まる。


 ヴィクトルも新聞から顔を上げた。


 ナタリヤは、少しだけ寂しそうに笑った。


「そう聞こえた?」


「うん」


「歌はね、心が出るの。隠そうとしても、少しだけ出てしまうの」


 オレーナはピアノにそっと手を置いた。


「じゃあ、私が明るく歌う」


 ナタリヤは娘を抱きしめた。


「ありがとう。でも、悲しい時に無理に明るくしなくてもいいのよ」


「でも、ママが悲しいと、私も悲しい」


 ヴィクトルはその言葉を聞き、静かに目を伏せた。


 子どもは、何も知らないようで、大人の不安をよく見ている。


 学校でも、空気は変わっていた。


 国旗を見上げる子どもたちの表情が、以前より真剣になっている。


 先生は、いつも通り授業を進めようとしていた。


 算数。

 理科。

 音楽。

 歴史。


 けれど、子どもたちの質問は、いつもそこへ戻っていく。


「先生、戦争になるんですか」


「クリミアは取られるんですか」


「もし兵隊が来たら、学校はどうなりますか」


 先生は一つ一つ、慎重に答えた。


「怖いと思うのは自然なことです。でも、今みんなにできることは、学ぶこと、考えること、周りの人を大切にすることです」


 その言葉を聞きながら、オレクサンドルは窓の外を見た。


 校庭では、風が土を巻き上げている。


 オレーナは少し離れた席で、ノートの端に白鳥の絵を描いていた。


 ふと目が合う。


 オレーナは小さく手を振った。


 オレクサンドルも、少しだけ手を上げる。


 不安の中で、その小さな合図だけが、やけに温かかった。


 放課後。


 二人は白樺の木の下で並んで歩いた。


「最近、みんな怖い顔してるね」


 オレーナが言った。


「うん」


「オレクサンドルも怖い?」


「少し」


「私も」


 二人はしばらく黙った。


 風が吹き、落ち葉が足元を転がる。


 オレーナがふと尋ねた。


「ラジオ、まだ聞いてる?」


「聞いてる」


「怖いニュースばっかり?」


「うん。でも、聞かないと分からない」


「分からない方が楽な時もあるよ」


「でも、知らないまま壊れたら、直せない」


 オレーナはその言葉を聞いて、少し考えた。


「世界も直せる?」


 オレクサンドルは答えられなかった。


 ラジオなら直せる。


 配線ならつなげる。


 スイッチなら交換できる。


 でも、国と国の怒りや、強欲や、恐怖は、どこを直せばいいのか分からなかった。


「分からない」


 正直に答えた。


 オレーナは、彼の横顔を見た。


「じゃあ、直せるようになるまで、私が歌う」


 オレクサンドルは彼女を見る。


「なんで?」


「怖い時、歌があると少しだけ息ができるから」


 その言葉は、子どもらしいようで、大人よりもまっすぐだった。


 オレクサンドルの胸が、少しだけ温かくなる。


「じゃあ、僕は君の歌が聞こえるように、ラジオをもっと良くする」


「私、ラジオで歌うの?」


「いつか」


「じゃあ、ちゃんときれいに拾ってね」


「うん」


 二人は笑った。


 その笑顔は、まだ幼かった。


 けれど、その奥にある感情は、少しずつ形を変え始めていた。


 会えたら嬉しい。

 話せたら安心する。

 相手が笑うと、自分も笑いたくなる。


 それが恋だとは、まだ二人とも知らない。


 でも、季節が少しずつ変わるように、二人の心も変わり始めていた。


 夕暮れ。


 オレーナは帰り際、少し立ち止まった。


「ねえ、オレクサンドル」


「なに?」


「今度、私の歌、聞きに来て」


「うん」


「約束ね」


「約束」


 オレーナは笑って走っていった。


 オレクサンドルは、その背中をしばらく見ていた。


 胸の中が、ふわっとした。


 前にオレーナが言っていた。


 音楽は、胸の中がふわっとなるものだと。


 もしかすると、今のこれも、音楽に少し似ているのかもしれない。


 オレクサンドルはそんなことを思った。


 夜。


 ブチャの空には星が出ていた。


 だが、家々の中ではラジオやテレビが不安を運び続けている。


 クリミア。

 外交。

 軍の動き。

 声明。

 対立。


 歴史は揺れていた。


 それでも、朝は来る。


 人々はパンを焼き、学校へ向かい、家族を抱きしめる。


 不安を消せなくても、暮らしを止めることはできない。


 オレクサンドルはラジオのつまみを少し絞った。


 遠くの声が小さくなる。


 その代わりに、頭の中でオレーナの歌声が聞こえた気がした。


 澄んでいて、やわらかくて、少しだけ世界を明るくする声。


 彼はその声を思い出しながら、静かに眠りについた。


 次回予告


 クリミアをめぐる情勢は、ついに大きく動き出す。


 大人たちはニュースに釘付けになり、街には怒りと不安が広がっていく。


 オレクサンドルは、母カテリーナの言葉を忘れられない。

 オレーナは、歌うことの意味を初めて考え始める。


 そして二人は、互いの存在が自分にとって特別になり始めていることに気づく。


 次回、

 第13話

「静かな不安」


 恋は、平和な時だけに芽生えるものではない。

 不安の中でこそ、誰かを想う気持ちは強くなる。

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