それでも続く日常
第12話
「それでも続く日常」
ブチャの街に、朝が来る。
市場にはパンの匂いが広がり、学校へ向かう子どもたちの足音が響く。
白樺の枝は風に揺れ、家々の窓には朝の光が差し込む。
けれど、その日常の底には、言いようのない不安が沈んでいた。
クリミアをめぐる緊張は、もう遠いニュースではなくなっていた。
大人たちは小声で話す。
「本当に攻撃する気なのか」
「独立したとはいえ、昔は同じ国だったのに」
「なぜ、かつて同じ国民だった人たちに銃を向けられるんだ」
誰も答えを持っていなかった。
答えのない問いだけが、家々の食卓に、学校の廊下に、市場の片隅に落ちていた。
ペトレンコ家では、ミハイロがラジオの前に座っていた。
オレクサンドルは、父の横で黙ってニュースを聞いている。
ロシア政権幹部の強硬な発言。
ウクライナ政府の抗議。
外交交渉の難航。
声は遠くから届いているはずなのに、まるで家の中に入り込んでくるようだった。
カテリーナはパンを切りながら、ぽつりと言った。
「どうして攻撃するのかしら」
ミハイロは答えなかった。
「昔は同じ国だったのに。言葉も、歴史も、家族のつながりもある人たちなのに。どうして、かつて同じ国民だった人たちに銃を向けられるの」
その声には、怒りよりも深い悲しみがあった。
オレクサンドルは母の横顔を見た。
大人でも分からないことがある。
大人でも、理不尽の前では言葉を失う。
その事実が、彼には怖かった。
一方、シェフチェンコ家では、ナタリヤがピアノの前に座っていた。
いつものように歌っている。
けれど、その歌は以前と少し違った。
明るい民謡のはずなのに、どこか祈りのように聞こえる。
オレーナは母の横で、その違いに気づいていた。
「ママ」
「なあに?」
「今日の歌、泣いてるみたい」
ナタリヤの指が止まる。
ヴィクトルも新聞から顔を上げた。
ナタリヤは、少しだけ寂しそうに笑った。
「そう聞こえた?」
「うん」
「歌はね、心が出るの。隠そうとしても、少しだけ出てしまうの」
オレーナはピアノにそっと手を置いた。
「じゃあ、私が明るく歌う」
ナタリヤは娘を抱きしめた。
「ありがとう。でも、悲しい時に無理に明るくしなくてもいいのよ」
「でも、ママが悲しいと、私も悲しい」
ヴィクトルはその言葉を聞き、静かに目を伏せた。
子どもは、何も知らないようで、大人の不安をよく見ている。
学校でも、空気は変わっていた。
国旗を見上げる子どもたちの表情が、以前より真剣になっている。
先生は、いつも通り授業を進めようとしていた。
算数。
理科。
音楽。
歴史。
けれど、子どもたちの質問は、いつもそこへ戻っていく。
「先生、戦争になるんですか」
「クリミアは取られるんですか」
「もし兵隊が来たら、学校はどうなりますか」
先生は一つ一つ、慎重に答えた。
「怖いと思うのは自然なことです。でも、今みんなにできることは、学ぶこと、考えること、周りの人を大切にすることです」
その言葉を聞きながら、オレクサンドルは窓の外を見た。
校庭では、風が土を巻き上げている。
オレーナは少し離れた席で、ノートの端に白鳥の絵を描いていた。
ふと目が合う。
オレーナは小さく手を振った。
オレクサンドルも、少しだけ手を上げる。
不安の中で、その小さな合図だけが、やけに温かかった。
放課後。
二人は白樺の木の下で並んで歩いた。
「最近、みんな怖い顔してるね」
オレーナが言った。
「うん」
「オレクサンドルも怖い?」
「少し」
「私も」
二人はしばらく黙った。
風が吹き、落ち葉が足元を転がる。
オレーナがふと尋ねた。
「ラジオ、まだ聞いてる?」
「聞いてる」
「怖いニュースばっかり?」
「うん。でも、聞かないと分からない」
「分からない方が楽な時もあるよ」
「でも、知らないまま壊れたら、直せない」
オレーナはその言葉を聞いて、少し考えた。
「世界も直せる?」
オレクサンドルは答えられなかった。
ラジオなら直せる。
配線ならつなげる。
スイッチなら交換できる。
でも、国と国の怒りや、強欲や、恐怖は、どこを直せばいいのか分からなかった。
「分からない」
正直に答えた。
オレーナは、彼の横顔を見た。
「じゃあ、直せるようになるまで、私が歌う」
オレクサンドルは彼女を見る。
「なんで?」
「怖い時、歌があると少しだけ息ができるから」
その言葉は、子どもらしいようで、大人よりもまっすぐだった。
オレクサンドルの胸が、少しだけ温かくなる。
「じゃあ、僕は君の歌が聞こえるように、ラジオをもっと良くする」
「私、ラジオで歌うの?」
「いつか」
「じゃあ、ちゃんときれいに拾ってね」
「うん」
二人は笑った。
その笑顔は、まだ幼かった。
けれど、その奥にある感情は、少しずつ形を変え始めていた。
会えたら嬉しい。
話せたら安心する。
相手が笑うと、自分も笑いたくなる。
それが恋だとは、まだ二人とも知らない。
でも、季節が少しずつ変わるように、二人の心も変わり始めていた。
夕暮れ。
オレーナは帰り際、少し立ち止まった。
「ねえ、オレクサンドル」
「なに?」
「今度、私の歌、聞きに来て」
「うん」
「約束ね」
「約束」
オレーナは笑って走っていった。
オレクサンドルは、その背中をしばらく見ていた。
胸の中が、ふわっとした。
前にオレーナが言っていた。
音楽は、胸の中がふわっとなるものだと。
もしかすると、今のこれも、音楽に少し似ているのかもしれない。
オレクサンドルはそんなことを思った。
夜。
ブチャの空には星が出ていた。
だが、家々の中ではラジオやテレビが不安を運び続けている。
クリミア。
外交。
軍の動き。
声明。
対立。
歴史は揺れていた。
それでも、朝は来る。
人々はパンを焼き、学校へ向かい、家族を抱きしめる。
不安を消せなくても、暮らしを止めることはできない。
オレクサンドルはラジオのつまみを少し絞った。
遠くの声が小さくなる。
その代わりに、頭の中でオレーナの歌声が聞こえた気がした。
澄んでいて、やわらかくて、少しだけ世界を明るくする声。
彼はその声を思い出しながら、静かに眠りについた。
次回予告
クリミアをめぐる情勢は、ついに大きく動き出す。
大人たちはニュースに釘付けになり、街には怒りと不安が広がっていく。
オレクサンドルは、母カテリーナの言葉を忘れられない。
オレーナは、歌うことの意味を初めて考え始める。
そして二人は、互いの存在が自分にとって特別になり始めていることに気づく。
次回、
第13話
「静かな不安」
恋は、平和な時だけに芽生えるものではない。
不安の中でこそ、誰かを想う気持ちは強くなる。




