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光は息をしている  作者: リンダ


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静かな不安

 第13話

「静かな不安」


 2014年2月。


 ロシアのソチで、冬季オリンピックが開かれていた。


 テレビの画面には、白い雪と氷の世界が映し出されている。


 ジャンプ台を飛ぶ選手。

 氷上を滑るフィギュアスケーター。

 ゴールを目指して全力で滑るスピードスケートの選手たち。


 オリンピックは、平和の祭典。


 国境を越えて、選手たちが互いの力を競い合う場。


 誰もがそう教わってきた。


 けれどその一方で、ロシアはクリミアをめぐり、軍事行動に近い動きを強めていた。


 ブチャの街でも、テレビの前で大人たちが険しい顔をしていた。


 カテリーナは、画面に映る華やかな開会式の映像を見ながら、吐き捨てるように言った。


「あんなことをしている国に、オリンピックを開催する資格なんてあるのかしら」


 ミハイロは黙っていた。


 オレクサンドルは、その言葉を聞きながら、胸の奥が重くなるのを感じていた。


 学校でも、大人たちの間でも、同じような声が広がっていた。


「パラリンピックはボイコットすべきじゃないのか」


「平和の祭典を開きながら、他国に圧力をかけるなんて矛盾している」


「でも、選手たちはどうなる」


「四年に一度の大会にすべてを懸けてきた人たちまで、犠牲にしていいのか」


 怒り。


 正義感。


 戸惑い。


 それらが、簡単には一つの答えにならなかった。


 放課後。


 オレクサンドルは、白樺の並木道をオレーナと歩いていた。


 風はまだ冷たく、道端には溶け残った雪が黒ずんで残っている。


 オレーナは、少し歩調を緩めて尋ねた。


「今日、元気ないね」


 オレクサンドルは足元を見たまま答えた。


「考えてた」


「何を?」


「オリンピックのこと」


 オレーナは少し驚いた。


「競技のこと?」


「違う。ロシアのこと」


 彼は立ち止まり、遠くの空を見た。


「オリンピックって、平和の祭典なんだよね」


「うん」


「でも、その開催国が、クリミアに軍を動かそうとしてる。そんなの、おかしい」


 オレーナは何も言わずに聞いていた。


 オレクサンドルは続ける。


「パラリンピックをボイコットすべきだって言う人もいる。僕も、そう思う気持ちは分かる。あんなことをする国で、何もなかったみたいに大会を続けるのは変だと思う」


「うん」


「でも……」


 彼は言葉を詰まらせた。


「でも、選手たちは悪くない。パラリンピアンたちは、四年に一度の大会に向けて、ずっと努力してきたんだよね。体に障害があっても、苦しい練習をして、やっとそこに立つんだろう?」


 オレーナは静かにうなずいた。


「そうだと思う」


「じゃあ、その人たちの夢を、政治のせいで奪っていいのかって思う。でも、何も抗議しないのも違う気がする」


 オレクサンドルは拳を握った。


「何が正しいのか分からない」


 オレーナは、彼の横顔を見つめた。


 いつもなら、壊れたものを前にした時のオレクサンドルは迷わない。


 配線を見て、ネジを締めて、原因を探す。


 でも今、彼は答えのない問題の前で立ち尽くしていた。


 世界は、ラジオのようには直せない。


 そのことを、彼は少しずつ知り始めていた。


 オレーナは、少し考えてから言った。


「私も分からない」


 オレクサンドルが彼女を見る。


「でも、歌だったらね」


「歌?」


「うん。もし誰かが歌う場所を奪われたら、すごく悲しいと思う。ずっと練習してきて、やっと舞台に立てるのに、歌えなくなるのは苦しい」


 オレクサンドルは黙って聞いた。


「でも、その舞台を作っている人たちが、誰かを苦しめていたら……その舞台で歌うことも、苦しいと思う」


「じゃあ、どうする?」


「分からない」


 オレーナは正直に言った。


「でも、分からないから考えるんだと思う」


 その言葉に、オレクサンドルは少しだけ目を見開いた。


「分からないから、考える」


「うん。すぐに答えを出せないこともある。でも、考えるのをやめたら、きっと誰かの言うことに流されるだけになる」


 オレクサンドルは、ゆっくりうなずいた。


「君、すごいね」


 オレーナは顔を赤くした。


「べ、別にすごくないよ。ママがよく言ってるだけ」


「でも、君の言葉みたいだった」


 オレーナは照れ隠しのように、雪のかけらを靴先でつついた。


「オレクサンドルだって、ちゃんと考えてる」


「考えてるだけで、答えは出ない」


「答えがすぐ出る人より、ちゃんと悩む人の方が、私はいいと思う」


 風が吹いた。


 白樺の枝が、かすかに音を立てる。


 オレクサンドルは、胸の中がまた少しだけ「ふわっ」とするのを感じた。


 オレーナの言葉は、いつも不思議だった。


 機械の説明とは違う。


 答えが一つに決まらない。


 でも、彼の中の絡まった線を、少しだけほどいてくれる。


 その日の夜。


 シェフチェンコ家では、ナタリヤがピアノを弾いていた。


 オレーナは横で歌っていたが、途中で声を止めた。


「ママ」


「なあに?」


「歌って、何のためにあるの?」


 ナタリヤは鍵盤から手を離した。


「急に難しいことを聞くのね」


「今日、オレクサンドルと話したの。オリンピックのこと。パラリンピックのこと。歌う場所とか、立つ場所とか、そういうのがなくなったら悲しいって思って」


 ナタリヤは娘を見つめた。


 幼いと思っていた子が、いつの間にか世界の痛みに触れ始めている。


 そのことが嬉しくもあり、悲しくもあった。


「歌はね、喜びのためにもある。悲しみのためにもある。誰かを励ますためにも、自分が壊れないためにもある」


「壊れないため?」


「ええ。人は、悲しい時や怖い時、心の中に言葉にできないものを抱えるでしょう。歌は、それを外へ出してくれることがあるの」


 オレーナは、自分の胸に手を当てた。


「じゃあ、怖い時に歌ってもいい?」


「もちろん」


「誰かが怖い時にも?」


「その人が望むなら、そばで歌ってあげなさい」


 オレーナはうなずいた。


 彼女の中で、歌は少しだけ変わった。


 楽しいから歌うもの。


 褒められるから歌うもの。


 それだけではなくなった。


 誰かの暗い場所に、そっと置ける小さな灯り。


 そんなものになり始めていた。


 ペトレンコ家では、オレクサンドルが自作のラジオを調整していた。


 ミハイロが声をかける。


「まだ起きているのか」


「もう少し」


「何をしてる?」


「雑音を減らしたい」


「ニュースを聞くためか?」


 オレクサンドルは少し黙ってから答えた。


「うん。でも、ニュースだけじゃない」


「他に何を聞きたい?」


 オレクサンドルは、つまみを指で回しながら言った。


「いつか、オレーナが歌うなら、きれいに聞こえるようにしたい」


 ミハイロは一瞬、ぽかんとした。


 そして、口元を押さえて咳払いをした。


「そうか」


「なに?」


「いや。別に」


「変?」


「変じゃない」


 ミハイロは、息子の頭に手を置いた。


「誰かの声をきれいに届けたいと思うのは、いいことだ」


 オレクサンドルは少しだけ嬉しそうにうなずいた。


 窓の外には、冷たい夜が広がっていた。


 ソチの華やかな光。

 クリミアの不穏な影。

 ブチャの小さな家々。


 世界は矛盾だらけだった。


 平和の祭典の裏で、軍靴の音が近づいている。


 それでも、少年はラジオの雑音を減らそうとしていた。


 少女は、歌う意味を考え始めていた。


 二人の心は、不安の中で少しずつ近づいていく。


 恋は、まだはっきりと名前を持っていない。


 けれど、互いの存在が特別になり始めていることだけは、もう隠せなかった。


 次回予告


 クリミアをめぐる緊張は、ついに侵攻という現実へ変わっていく。


 テレビの中の地名が、人々の怒りと涙を伴って語られ始める。


 オレクサンドルは、母カテリーナの怒りを忘れられない。

 オレーナは、母ナタリヤとともに祈りの歌を歌う。


 そして二人は、初めて「戦争」という言葉の重さを自分たちのものとして受け止める。


 次回、

 第14話

「クリミアの春」


 春は、本来なら命の季節。

 けれどその年の春、黒海の風は銃声の匂いを運んできた。

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