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光は息をしている  作者: リンダ


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クリミアの春

 第14話

「クリミアの春」


 春が来た。


 本来なら、それは喜びの季節だった。


 長い冬が終わり、凍っていた土がやわらかくなり、白樺の枝先に若い芽がふくらむ。


 市場には少しずつ明るい色の野菜が並び、家々の窓辺には花が戻り、子どもたちは厚い上着を脱いで外へ駆け出す。


 ブチャの街にも、春の匂いがあった。


 けれどその年の春は、誰も心から喜べなかった。


 テレビから流れてくる映像が、春の光を暗くしていた。


 クリミア。


 黒海の半島。


 美しい海と歴史を持つその土地で、爆撃の音が響いていた。


 建物が崩れ、道路が裂け、逃げ惑う人々の姿が映し出される。


 負傷者。

 避難する家族。

 泣き叫ぶ子ども。

 担架で運ばれる人々。


 画面の向こうの出来事なのに、ブチャの人々は息を詰めて見つめていた。


 ペトレンコ家の居間。


 カテリーナは、テレビの前で唇を噛んでいた。


「春なのに……」


 その声は震えていた。


「本当なら、花が咲いて、子どもたちが外で遊ぶ季節なのに」


 ミハイロは拳を握りしめていた。


 オレクサンドルは、何も言えなかった。


 ニュースの中で、煙に覆われた街が映る。


 自分のラジオが拾っていた不穏な声。

 大人たちの不安。

 母の怒り。


 それらが、現実の映像になっていた。


「これが、戦争……」


 オレクサンドルは小さくつぶやいた。


 カテリーナは息子の肩に手を置いた。


「見なくてもいいのよ」


 オレクサンドルは首を振った。


「見る」


「怖いでしょう」


「怖い。でも、知らない方がもっと怖い」


 その言葉に、ミハイロは息子を見た。


 まだ幼い。

 けれど、その目は逃げていなかった。


 シェフチェンコ家では、ナタリヤがピアノの前に座っていた。


 テレビの音は消してある。


 画面だけが、無言でクリミアの惨状を映していた。


 オレーナは母の隣に立っていた。


「ママ、歌おう」


 ナタリヤは娘を見上げる。


「何を?」


「祈りの歌」


 ナタリヤは一瞬、何も言えなかった。


 そして静かに鍵盤へ手を置いた。


 低く、やわらかな音が部屋に広がる。


 オレーナは歌い始めた。


 まだ子どもの声だった。


 けれど、その歌は以前よりも深かった。


 誰かに聞かせるためではない。

 拍手をもらうためでもない。

 踊りのためでもない。


 遠いクリミアで傷ついた人たちへ、届くはずのない祈りを届けるような声だった。


 ヴィクトルは、窓辺で目を閉じていた。


「こんなことが、また起きるのか……」


 彼の声は、怒りよりも無力感に近かった。


 ナタリヤはピアノを弾きながら言う。


「人は、何度同じ痛みを繰り返すのかしら」


 オレーナは歌いながら、テレビ画面を見た。


 煙。


 瓦礫。


 泣いている人。


 その映像は、彼女の中に深く刺さった。


 歌は、すべてを救えるわけではない。


 そのことを、彼女は初めて知った。


 でも、歌わずにはいられなかった。


 学校では、先生たちも言葉を選んでいた。


 授業の前、教室全体が静かだった。


 先生は黒板の前に立ち、ゆっくりと言った。


「クリミアで、激しい戦闘が起きています」


 子どもたちは黙っていた。


「多くの人が傷つき、亡くなっています。家を失った人もいます」


 オレクサンドルは机の下で拳を握った。


 オレーナは、膝の上で手を重ねていた。


 先生は続けた。


「でも、みんなに覚えていてほしいことがあります。戦争で傷つくのは、兵士だけではありません。普通に暮らしていた人たちです。学校へ行き、買い物をし、家族と食事をしていた人たちです」


 その言葉が、教室に重く落ちた。


 普通に暮らしていた人たち。


 それは、ブチャの人々と同じだった。


 自分たちと同じだった。


 放課後。


 オレクサンドルとオレーナは、白樺の下にいた。


 空は青かった。


 信じられないほど青かった。


 その青さが、かえって残酷に思えた。


「春なのにね」


 オレーナが言った。


 オレクサンドルはうなずいた。


「うん」


「花が咲いてるのに」


「うん」


「どうして、同じ春に爆弾が落ちるんだろう」


 オレクサンドルは答えられなかった。


 代わりに、地面に落ちていた小枝を拾い、指で折った。


 ぽきん、と乾いた音がした。


「壊すのは簡単だ」


 彼は言った。


「でも、直すのは大変だ」


 オレーナは彼を見る。


「街も?」


「きっと」


「心も?」


 オレクサンドルは黙った。


 心の直し方は、彼には分からなかった。


 オレーナは静かに言った。


「じゃあ、私が歌う」


「歌で直る?」


「全部は直らない。でも、少しだけ痛くなくなるかもしれない」


 オレクサンドルは、オレーナの声を聞いていた。


 彼女の歌は、もうただの楽しい歌ではなくなっていた。


 怖い時にそばにある声。

 不安な時に息を整える声。


 彼にとって、オレーナの存在そのものが、少しずつそういうものになっていた。


 その夜。


 ブチャの街には、静かな不安が広がっていた。


 家々の窓に灯りがともり、ラジオが低く鳴り、テレビが戦火の映像を映し続ける。


 人々はまだ知らなかった。


 クリミアで起きていることが、ただの地域紛争では終わらないことを。


 それが、やがてウクライナ全土を攻撃するための布石にすぎなかったことを。


 ブチャの人々はまだ、自分たちの街に戦車が入ってくる未来を知らない。


 子どもたちが地下室で泣き声を殺す未来を知らない。


 家族が道の途中で引き裂かれる未来を知らない。


 オレクサンドルが、愛する人を守るために地獄のような選択を突きつけられる未来を知らない。


 オレーナが、壊れかけた夫のそばで歌い続ける未来を知らない。


 そして、二人の娘ソフィーアが、戦争の記憶を音楽に変えていく未来も、まだ誰も知らなかった。


 この春。


 黒海の風は、銃声の匂いを運んできた。


 だがブチャの白樺は、まだ静かに揺れていた。


 まるで、これから起きるすべてを知らないふりをするように。


 次回予告


 クリミアへの侵攻は、ウクライナ社会に深い傷を残す。


 街では抗議の声が上がり、若者たちの中には国を守る覚悟を口にする者も現れる。


 オレクサンドルは、怒りと無力感の間で揺れ、

 オレーナは、歌が祈りだけでは足りないことを知り始める。


 それでも二人は、互いの存在に救われていく。


 次回、

 第15話

「国境の向こうの炎」


 炎は遠くで燃えている。

 だが、その熱はもう、ブチャの心まで届いていた。

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