国境の向こうの炎
第15話
「国境の向こうの炎」
2014年。
オレクサンドルは19歳。
オレーナは18歳。
本来なら、青春のただ中にいるはずだった。
恋をして、夢を語り、将来に悩み、時にはくだらないことで笑い合う。
そんな時間を過ごしていてもよかった。
けれど、クリミアで起きた紛争は、二人の青春の空に黒い煙を広げていった。
テレビには、傷ついた街が映る。
ラジオからは、軍事行動、占領、抗議、犠牲者という言葉が流れる。
学校でも、職場でも、市場でも、人々は怒りと不安を隠せなくなっていた。
「なんで、こんなことに……」
オレーナは、ピアノの前でつぶやいた。
ナタリヤは娘の肩に手を置いた。
「オレーナ。怒ってもいい。悲しんでもいい。でも、憎しみに飲まれてはいけないわ」
「でも、許せない」
「許せなくてもいいの。でも、憎しみだけで歌ってはいけない」
オレーナは黙り込んだ。
ナタリヤは続けた。
「あなたには、あなたにしかできないことがある。歌うこと。人の心に届く声を持っていること。それで平和を作っていくの」
「歌で戦争は止まらないよ」
「そうね。歌だけでは止まらない。でも、憎しみに支配された人の心には、平和は生まれない」
一方、ペトレンコ家でも、オレクサンドルは怒りを抑えられずにいた。
机の上には、分解したラジオ。
だが、手は止まっている。
「こんなの、強欲な独裁者の野望じゃないか」
オレクサンドルの声は震えていた。
「老い先短い一人の権力者のために、どうして普通に暮らしている人たちが苦しまなきゃいけないんだ」
ミハイロは、息子の言葉を黙って聞いていた。
カテリーナも、すぐには止めなかった。
怒るな、とは言えなかった。
怒って当然だった。
だが、カテリーナは静かに言った。
「オレクサンドル。あなたの怒りは間違っていない。でも、その怒りを誰かへの憎しみに変えてはいけない」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「あなたにしかできないことで、平和を作るの」
「僕に何ができる」
ミハイロが、工具箱をそっと開けた。
「お前は、光を灯せる。壊れたものを直せる。声を届けられる」
「それで何が変わる?」
「すぐには変わらないかもしれない。でも、誰かの暗い部屋に明かりを戻すことはできる」
オレクサンドルは、父を見た。
ミハイロの目は厳しかった。
「お前が憎しみに支配されたら、それこそ独裁者の思う壺だ。人を人でなくすこと。それが戦争の目的なんだ」
カテリーナもうなずいた。
「あなたは、あなたの手を、人を壊すためじゃなく、つなぐために使いなさい」
その夕方。
オレクサンドルとオレーナは、ブチャの白樺並木を歩いていた。
空は赤く染まっている。
遠くで燃えている炎の色が、ここまで映っているようだった。
「私、怖い」
オレーナが言った。
「うん」
「怒ってる」
「僕も」
「でも、ママに言われた。憎しみに支配されたらだめだって」
「僕も言われた」
二人は顔を見合わせた。
似たようなことを、それぞれの家族から言われていた。
オレクサンドルは、少しだけ笑った。
「僕たちの親、同じこと言うね」
「うん」
オレーナは、目を伏せる。
「でも難しい。許せないことがあるのに、憎まないって、どうすればいいの」
「分からない」
オレクサンドルは正直に言った。
「でも、僕は君の歌を聞くと、少しだけ怒りがほどける」
オレーナは驚いて彼を見る。
「本当?」
「うん。全部じゃない。でも、少しだけ」
オレーナの頬が赤くなる。
「じゃあ、私は歌う」
「僕は、君の声がちゃんと届くようにする」
「またラジオ?」
「ラジオも。照明も。音響も。いつか、君が舞台に立つなら、僕が光を作る」
オレーナは立ち止まった。
その言葉は、まだ若い二人の何気ない約束だった。
けれど、彼女の胸には深く残った。
「じゃあ、約束」
「うん」
「私は歌う。あなたは光を作る」
「そして、憎しみに負けない」
オレーナは静かにうなずいた。
「うん。負けない」
クリミアの炎は、国境の向こうで燃えていた。
だが、その熱はもうブチャまで届いていた。
人々の心に。
若者たちの未来に。
家族の食卓に。
恋を覚え始めた二人の胸に。
それでも、オレクサンドルとオレーナは手を伸ばした。
怒りではなく、光へ。
憎しみではなく、歌へ。
それはあまりにも小さな抵抗だった。
けれど、二人にできる最初の平和だった。
次回予告
クリミアの衝撃から、ウクライナ社会は少しずつ変わっていく。
若者たちは自分の進路と国の未来を重ねて考え始める。
オレクサンドルは舞台照明と音響の道へ。
オレーナは音楽と歌の道へ。
そして二人の関係は、友情から確かな恋へと変わっていく。
次回、
第16話
「二人の未来」
戦争が未来を曇らせても、若者たちはそれでも夢を見る。




