笑いの根っこ
第58話
「笑いの根っこ」
キーウに根づいたリトル博多は、やがて国境を越えて知られるようになった。
スヴィトリャーナとクリリナの博多弁ギャグ。
ソフィーアの歌。
ドミトロの舞台演出。
光子と優子との交流。
それは、かつて敵意と恐怖に覆われていた地域に、別の風を吹き込んだ。
笑い合うこと。
歌い合うこと。
互いの文化を面白がること。
その小さな積み重ねは、やがてロシア社会にも届いていく。
長く閉ざされ、硬直していた体制の中で、若い世代が少しずつ問い始めた。
「なぜ私たちは、こんなにも憎むことを教えられてきたのか」
「隣の国の人たちは、本当に敵だったのか」
「歌い、笑い、家族を愛する人たちを、なぜ傷つけたのか」
リトル博多は、政治を直接動かしたわけではない。
だが、人の心に小さな穴を開けた。
その穴から、光が入った。
そして、その光が積み重なり、やがてロシアの体制転換へ向かう一つのきっかけとなっていった。
ある夕方。
オレクサンドルとオレーナは、公園のベンチに並んで座っていた。
少し離れた場所では、ソフィーアとドミトロが娘たちを見守っている。
スヴィトリャーナが大きな声で言う。
「笑いは国境越えるばい!」
クリリナがすかさず返す。
「でも宿題は国境越えんでよか!」
周囲が笑う。
子どもたちも笑う。
大人たちも笑う。
オレーナは、そっと夫の肩に寄りかかった。
「いろいろあったわね」
オレクサンドルはうなずいた。
「ああ」
ブチャの春。
クリミアの炎。
地下鉄駅の寒さ。
捕虜としての地獄。
オレーナの両親の死。
地雷に傷ついた父母。
消えなかった悪夢。
数え切れないほどの喪失があった。
それでも今、二人はここにいる。
娘がいる。
孫たちがいる。
歌がある。
笑いがある。
オレクサンドルは静かに言った。
「幸せだな」
オレーナは微笑んだ。
「ええ。とても」
もちろん、傷は完全には消えていない。
オレクサンドルは今も時折、あの戦争の悪夢を見る。
暗い部屋。
冷たい床。
ソコロフの声。
奪われそうになった家族。
夜中に目を覚まし、息が乱れることもある。
そんな時、オレーナは今も隣にいる。
何も言わず、ただ手を握る。
そして、遠くからソフィーアの歌声が聞こえることがある。
孫たちの笑い声が聞こえることもある。
そのたびに、オレクサンドルは思う。
自分は戻ってきたのだ、と。
完全ではなくても。
傷だらけでも。
ここに戻ってきたのだ、と。
夕暮れのキーウ。
公園に、子どもたちの笑い声が響く。
かつて戦争に傷ついた街が、少しずつ呼吸を取り戻している。
オレクサンドルは、オレーナの手を握った。
「前を向こう」
オレーナは頷いた。
「ええ。これからも」
スヴィトリャーナとクリリナが、二人に向かって手を振る。
「じいじー!」
「ばあばー!」
オレーナは笑った。
オレクサンドルも笑った。
それは、長い長い痛みの先にようやくたどり着いた、穏やかな笑顔だった。
笑いは軽いものではない。
泣いた人が、それでも前を向くための力である。
歌は消えない。
光も消えない。
優しさも、受け継がれていく。
そしてこの物語は、静かに幕を下ろす。
キーウの空に、子どもたちの笑い声を残して。




