光と歌の子どもたち
第4話
光と歌の子どもたち
ブチャの街に、春が戻ってきた。
長い冬のあいだ、屋根や道を覆っていた雪は、日に日に薄くなっていた。家々の軒先からは、解けた雪が透明な雫となって落ち、石畳の隙間を縫うように細い流れを作っていた。
白樺の枝には、小さな若芽がついている。
最初は、指先ほどの淡い緑だった。
それが日ごとに膨らみ、風が吹くたびに、まだ頼りない葉を震わせるようになった。
冬のあいだ灰色に沈んでいたブチャの街は、ゆっくりと色を取り戻していた。
庭の土が見える。
市場には春野菜が並ぶ。
家の窓が開け放たれ、長いあいだ閉じ込められていた空気が入れ替わっていく。
子どもたちは厚い防寒着を脱ぎ、道端に残った雪の塊を蹴りながら走っていた。
春は、街へ新しい音を連れてきた。
雪解け水の音。
鳥の声。
遠くで鳴る荷車の車輪。
窓を開けた家から聞こえるラジオ。
そして、子どもたちの笑い声。
ペトレンコ家の庭にも、朝から元気な足音が響いていた。
オレクサンドル・ペトレンコは、ますます機械いじりに夢中になっていた。
家族からサーシャと呼ばれる少年は、父ミハイロ・ペトレンコの仕事を見ている時だけ、驚くほど静かになった。
普段は走る。
転ぶ。
立ち上がる。
また走る。
母カテリーナに何度注意されても、水たまりを見つければ入ってみたくなり、低い塀を見つければ上ってみたくなる。
ところが、父が古い工具箱を開くと、ぴたりと動きを止めた。
ミハイロの工具箱は、オレクサンドルにとって宝箱だった。
長年使い込まれた木製の箱。
角には傷があり、金属製の留め具も少し錆びている。
けれど蓋を開ければ、中には世界の秘密が詰まっていた。
大小さまざまなネジ。
細く巻かれた銅線。
古いスイッチ。
小さな豆電球。
使わなくなったラジオのつまみ。
色の違う抵抗。
短く切られた配線。
絶縁テープ。
先端の形が違うドライバー。
大人にとっては、使い古された部品にすぎない。
誰かが見れば、処分するものだと思うかもしれない。
しかし、オレクサンドルにとっては違った。
ネジ一本にも役割がある。
細い線にも行き先がある。
小さな電球にも、暗闇を変える力がある。
どの部品も、正しい場所へつながれば何かを動かす。
音を出す。
光を灯す。
遠くの声を届ける。
その仕組みを知りたくて、オレクサンドルは何度も父へ質問した。
「パパ、これは?」
「スイッチだ」
「何するの?」
「電気を流したり、止めたりする」
「こっちは?」
「銅線だ」
「なんで赤いの?」
「外側の色が赤いだけだ。中には銅が入っている」
「どうして銅?」
「電気をよく通すからだ」
「電気、ここを走る?」
「そうだ」
「サーシャより速い?」
「比べ物にならないくらい速い」
オレクサンドルは少し悔しそうな顔をした。
「サーシャも速い」
「知ってるよ。毎日、母さんに追いかけられてるからな」
台所からカテリーナの声が飛んできた。
「誰のせいで追いかけることになってると思ってるの?」
オレクサンドルは父の背中へ隠れた。
「ママ、こわい」
「聞こえてるわよ」
ミハイロは笑いをこらえながら息子の頭を撫でた。
「機械のことばかりじゃなく、母さんの話もちゃんと聞け」
「うん」
「その返事、信用していいのかしら」
「いい!」
返事だけは、いつも立派だった。
*
ある日の夕方。
ミハイロは仕事から帰ると、いつもの工具箱とは別に、小さな紙箱を抱えていた。
春の雨が降り始めていた。
上着の肩には細かな雫が付き、靴には湿った土がこびりついている。
カテリーナは玄関で夫の上着を受け取った。
「今日は遅かったのね」
「部品を探しに寄っていた」
「また何か直すの?」
「直すんじゃない。作るんだ」
その言葉を聞いたオレクサンドルが、居間から駆けてきた。
「作る?」
「ああ」
「なに作る?」
「それは、箱を開けてからだ」
ミハイロがもったいぶるように言うと、オレクサンドルはすぐにテーブルへ向かった。
「はやく!」
「まず手を洗ってこい」
「あとで」
「先に洗う」
「箱あけてから」
「手を洗ってからだ」
「一回だけ見る」
「駄目だ」
オレクサンドルは父と箱を交互に見た。
そして、ものすごい勢いで洗面所へ走っていった。
「走るな!」
ミハイロの声が飛ぶ。
直後、廊下の奥から何かへぶつかる音がした。
「大丈夫?」
カテリーナが声をかける。
「だいじょうぶ!」
「その返事が聞こえる時は、大抵大丈夫じゃないのよね」
やがてオレクサンドルは、濡れた手を服で拭きながら戻ってきた。
カテリーナがすぐに布を差し出す。
「服で拭かないの」
「もうふいた」
「見れば分かるわ」
ようやく三人がテーブルを囲む。
ミハイロは紙箱を中央へ置いた。
「オレクサンドル、これを見てみろ」
少年は目を丸くした。
箱の表には、小さなラジオの絵が描かれていた。
「なに?」
「ラジオの組み立てキットだ」
「ラジオ?」
「ああ。自分で組み立てる」
オレクサンドルは一瞬、動きを止めた。
「自分で?」
「もちろん、一人で全部はまだ無理だ。俺と一緒に作る」
自分で作る。
その言葉は、少年にとって魔法のようだった。
これまでオレクサンドルは、壊れた機械が父の手で直っていく姿を見てきた。
動かなかった物が動く。
光らなかった物が光る。
鳴らなかったラジオから声が聞こえる。
けれど今回は違う。
最初は何もできない部品から、一つの機械を作る。
自分の手で。
父と一緒に。
「開けていい?」
「ゆっくりな」
オレクサンドルは箱の蓋へ指をかけた。
壊さないよう慎重に持ち上げる。
中には、小さな基板、何本もの抵抗、細い線、つまみ、簡単なスピーカー、電池を入れる部品、ネジが入っていた。
説明書には、細かな図が描かれている。
オレクサンドルは、まるで宝の地図を見るように顔を近づけた。
「これ、ぜんぶつなぐ?」
「そうだ」
「いま?」
「少しずつだ」
「ぜんぶ、いま作る」
「急がないこと」
「なんで?」
「急ぐと間違える」
「間違えたら?」
「鳴らない」
オレクサンドルの顔が真剣になった。
鳴らない。
それは大変なことだった。
「じゃあ、ゆっくりする」
「いい心がけだ」
ミハイロは椅子を引き、息子を隣へ座らせた。
机の上には白い布を敷く。
小さな部品をなくさないためだった。
「まず全部出すんじゃない。必要なものだけ取り出す」
「どうして?」
「混ざるからだ。似ていても違う部品がある」
ミハイロは抵抗を二本取り出した。
一見するとよく似ている。
だが、表面に描かれた色の帯が違っていた。
「同じに見えるか?」
「うん」
「でも違う」
「どこが?」
「この色だ」
ミハイロは、指先で小さな帯を示した。
「色で役割が分かる」
「赤と、茶色」
「よく見えたな」
「こっちは黄色」
「そうだ。説明書に書いてある色と同じものを探す」
オレクサンドルは説明書と抵抗を何度も見比べた。
「これ?」
「正解だ」
少年は嬉しそうに笑った。
「次は?」
「次は、部品を付ける場所を確認する」
「ここ?」
「そう。ただし向きがある部品もある」
「むき」
「電池と同じだ。逆では動かないことがある」
オレクサンドルは小さな指で部品をつまみ、慎重に基板へ近づけた。
指が震えている。
緊張していた。
「落としても大丈夫だ」
ミハイロが言う。
「でも、なくなる」
「なくしたら探せばいい」
「壊れたら?」
「なぜ壊れたか考える」
「間違えたら?」
「外してやり直す」
ミハイロは息子の顔を見た。
「作る時は、間違えないことより、間違えた時にどうするかが大事だ」
オレクサンドルには、まだその言葉の全部は理解できなかった。
それでも、失敗しても終わりではないということだけは分かった。
部品を差し込む。
父が裏側を固定する。
次の部品を探す。
線の色を確認する。
ネジを一本締める。
締めすぎない。
何度も止まり、説明書を見直す。
作業はゆっくり進んだ。
「これは?」
オレクサンドルが尋ねる。
「抵抗だ」
「ていこう」
「電気の流れを調整する」
「電気も、ながれる?」
「水みたいにな」
少年は少し考えた。
「じゃあ、まちがえたら、あふれる?」
ミハイロは一瞬驚いた表情を見せた。
そして、目を細めて笑った。
「そうだな。いい考え方だ」
「ほんとう?」
「ああ。流れすぎれば部品が壊れる。少なすぎれば動かない」
「じゃあ、ちょうどよくする?」
「そのために、この部品がある」
オレクサンドルは抵抗を見つめた。
ただの小さな棒に見える。
けれど、その中で電気の流れを調整している。
「これ、ちいさいけど、だいじ?」
「とても大事だ」
「ネジも?」
「大事だ」
「線も?」
「大事だ」
「じゃあ、いらないもの、ない?」
「機械の中ではな」
その答えを聞き、オレクサンドルは満足そうにうなずいた。
小さなものにも役割がある。
目立たなくても、大事な仕事をしている。
少年はその考えを気に入った。
*
その日から、オレクサンドルはラジオ作りに取りつかれた。
朝起きると、最初に箱の中を確認する。
幼い友達に外へ誘われても、しばらく遊ぶとすぐに帰ってきた。
「もう帰るの?」
「ラジオ作る」
「何それ?」
「遠くの人が、箱からしゃべる」
「人が入るの?」
「入らない。電気が流れる」
説明している本人も、まだ完全には分かっていなかった。
それでも、できる限り父から聞いた言葉を使った。
食事中も、部品のことが気になって仕方がない。
「サーシャ、スープを食べなさい」
「パパ、あの線はどこにつなぐ?」
「食べてからだ」
「スピーカーのところ?」
「あとで説明する」
「赤い線?」
「スープが冷めるぞ」
カテリーナはため息をついた。
「ラジオを作る前に、食事を終える仕組みを作ってほしいわ」
夜、寝る前にも尋ねる。
「パパ、ラジオ、いつ鳴る?」
「焦るな。明日またやろう」
「いまやる」
「寝る時間だ」
「ちょっとだけ」
「駄目だ」
「ネジ一本だけ」
「その一本が百本になる」
「百本もない」
「言葉の意味はそこじゃない」
オレクサンドルは布団の中から、隣の部屋に置かれた組み立て途中のラジオを気にしていた。
「ラジオ、さびしい」
「ラジオは寝ている」
「いつ起きる?」
「お前が起きて、朝ごはんを食べてからだ」
「じゃあ、もう朝?」
「まだ夜だ」
「早く朝になって」
カテリーナが寝室の扉から顔を出した。
「二人とも、本当に似た者親子ね」
ミハイロは苦笑した。
「否定できないな」
「最近、そればかり言ってるわよ」
「事実だから仕方ない」
オレクサンドルは布団から顔だけを出す。
「サーシャ、パパに似てる?」
「とてもよく似てるわ」
「うれしい」
「そうか」
ミハイロは少し照れたように笑い、息子の額へ布団をかけ直した。
「でも、明日はちゃんと朝まで待て」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは本当と言え」
*
作り始めてから数日が過ぎた。
ラジオは少しずつ形になっていった。
基板へ部品が並ぶ。
線がスピーカーへつながる。
つまみが取り付けられる。
電池を収める部分も完成した。
見た目は決して美しくなかった。
線の一部は少し曲がっている。
つまみも完全にはまっすぐではない。
箱の端には、オレクサンドルが手を滑らせた時についた小さな傷もあった。
それでも少年にとっては、世界で一番立派な機械だった。
完成の日。
外では春の雨が降っていた。
窓ガラスを伝う雫の向こうで、白樺の若葉が揺れている。
家族三人は、テーブルを囲んでいた。
ミハイロが最後の配線を確認する。
「よし」
オレクサンドルは息をのんだ。
「できた?」
「組み立ては終わった」
「じゃあ、鳴る?」
「それを今から確かめる」
ミハイロは電池を差し出した。
「自分で入れてみろ」
オレクサンドルは両手で受け取った。
向きを見る。
以前、懐中電灯を直した時に教わったことを思い出す。
「こっちが、こっち?」
「そうだ」
一本目。
二本目。
慎重に入れる。
「スイッチは、このつまみだ」
「回す?」
「ゆっくりな」
小さな指が、つまみに触れた。
カテリーナも黙って見守っている。
オレクサンドルは、まるで大切な儀式を始めるような顔で、ゆっくりとつまみを回した。
かちり。
ザザッ。
小さなスピーカーから雑音が鳴った。
オレクサンドルの顔が、ぱっと明るくなる。
「鳴った!」
「まだ雑音だけだ」
「でも鳴った!」
「ああ。電気は流れている」
「成功?」
「半分成功だ。次は放送を探す」
「どうする?」
「もう一つのつまみを回して、周波数を合わせる」
オレクサンドルは、そちらのつまみへ指を移した。
ゆっくり回す。
ザザザッ。
ピー。
ザッ。
雑音が強くなり、弱くなり、時折何かの音が混じる。
「人いる?」
「近いかもしれない」
さらに少し回す。
雑音の奥に、音楽らしきものが聞こえた。
しかし、すぐに消えた。
「いなくなった」
「少し戻してみろ」
「こっち?」
「ゆっくり」
ザザッ。
次の瞬間。
不意に、人の声が聞こえた。
遠くの放送局から届いた声だった。
少しこもり、時々雑音が混じる。
それでも、はっきりと誰かが話している。
オレクサンドルは固まった。
つまみから指を離し、目の前の箱を見つめる。
「人が……箱の中にいる?」
カテリーナが吹き出した。
「入っていないわよ」
「でも、しゃべってる」
ミハイロも笑った。
「電波だ」
「でんぱ?」
「遠くで送られた声が、空を通ってここまで来る。このラジオが、それを受け取っているんだ」
「空をとぶ?」
「ああ」
「声が?」
「そうだ」
オレクサンドルはラジオを両手で抱えた。
壊さないよう、そっと。
遠くにいる誰かの声が、自分の作った箱から聞こえる。
その人は、この家を知らない。
オレクサンドルの名前も知らない。
けれど、その声は空を越え、自分の手元へ届いた。
「どこから?」
「今聞こえているのは、キーウの放送かもしれないな」
「キーウ?」
「ここよりずっと大きな街だ」
「そこにいる人が、サーシャにしゃべってる?」
「サーシャだけにじゃない。ラジオをつけている人みんなにだ」
オレクサンドルはしばらく言葉を失った。
自分の作った小さな箱が、遠くの世界とつながっている。
その不思議を、幼い心で一生懸命受け止めていた。
やがて、小さくつぶやく。
「ぼく、もっと作りたい」
ミハイロは息子の頭を撫でた。
「作れ」
「いっぱい?」
「ああ。作って、失敗して、壊して、直して、また作れ」
「壊してもいい?」
「わざと壊すのは駄目だ」
「じゃあ、失敗したら?」
「なぜ失敗したか調べればいい」
「また作る?」
「そうだ」
オレクサンドルはうなずいた。
ラジオからは、音楽が流れ始めていた。
少し雑音の混じった旋律が、ペトレンコ家の居間へ広がっていく。
カテリーナはラジオの横へ小さな布を敷いた。
「これは、ここに置きましょう」
「サーシャのラジオ」
「家族のラジオよ」
「でもサーシャ作った」
「お父さんと一緒にね」
ミハイロが腕を組む。
「半分以上は俺が作った気がするが」
「サーシャも作った!」
「そうだな。一緒に作った」
「じゃあ、三人のラジオね」
カテリーナの言葉に、オレクサンドルは満足そうに笑った。
*
ラジオの完成からしばらくすると、ミハイロは次の組み立てキットを持ち帰った。
今度は家庭用の簡単なインターフォンだった。
箱には、二つの小さな端末が入っている。
ボタン。
マイク。
スピーカー。
長い配線。
片方で話すと、もう片方の端末から声が聞こえる仕組みだった。
ラジオより少し難しい。
線の数も多く、つなぐ場所を間違えれば音は出ない。
オレクサンドルは説明を聞いた瞬間から夢中になった。
「パパ、これ、家の中で話せる?」
「ああ」
「二階から一階?」
「そうだ」
「お庭から台所も?」
「線が届けばな」
「じゃあ、ママに“パンちょうだい”って言える?」
台所で生地をこねていたカテリーナが、即座に振り返った。
「それは自分で言いに来なさい」
「どうして?」
「機械で怠ける子にしないで」
ミハイロは笑いながら言った。
「母さんの言う通りだ。パンくらい自分で取りに来い」
オレクサンドルは真顔で考えた。
「じゃあ、“ママ、すき”って言う」
カテリーナの手が止まった。
頬がゆるむ。
「それなら許すわ」
「パンもくれる?」
「それは別の話よ」
オレクサンドルは少し残念そうな顔をしたが、すぐに部品へ興味を戻した。
インターフォンの製作は、ラジオより時間がかかった。
線を端子へつなぐ。
マイクとスピーカーの位置を確認する。
ボタンを押した時だけ回路がつながる仕組みを理解する。
オレクサンドルは何度も尋ねた。
「なんで、ボタン押すと音がいく?」
「この中の接点がつながるからだ」
「手をつなぐ?」
「まあ、似たようなものだ」
「離すと?」
「音が止まる」
「じゃあ、ずっと押したら?」
「ずっとつながる」
「ずっとママにしゃべれる?」
「母さんが困る」
カテリーナが遠くから声を上げた。
「絶対に台所へ付けっぱなしにしないでね」
「もう場所は決めてある」
「勝手に決めないで」
「でも、一番使うのは台所だろう」
「私は一日中、あなたたちから呼び出されることになるじゃない」
「便利だぞ」
「誰にとって?」
ミハイロとオレクサンドルは顔を見合わせた。
「ぼくたち」
息子が正直に答えると、カテリーナはあきれながら笑った。
*
完成したインターフォンの片方は、居間へ置かれた。
もう片方は、台所の壁に取り付けられた。
長い配線は廊下を通し、邪魔にならないよう壁際へ固定した。
「これでいい」
ミハイロが最後の確認をする。
オレクサンドルは居間の端末の前へ座った。
緊張した顔でボタンを見る。
カテリーナは台所に立っていた。
夕食の準備を始めたところだった。
「押していい?」
「ああ」
オレクサンドルはボタンを押した。
ジジッ。
小さな雑音が鳴る。
マイクへ口を近づけた。
「ママ」
少し割れた幼い声が、台所のスピーカーから聞こえた。
カテリーナは振り返った。
「なあに?」
オレクサンドルは、隣にいる父を見た。
ミハイロは小声で言う。
「そのまま話せ」
少年はもう一度、マイクへ向き直った。
「ママ」
「聞こえてるわよ」
「ママ、すき」
台所で、カテリーナの動きが止まった。
手にしていた木べらを置く。
少し離れた部屋から届く、機械を通した息子の声。
雑音が混じり、普段より少しこもっていた。
それでも言葉は、はっきりと心へ届いた。
カテリーナは思わず口元を押さえた。
目に涙が浮かぶ。
居間では、ミハイロが得意げに腕を組んでいた。
「成功だな」
台所の端末から、カテリーナの声が返ってくる。
「お母さんも、サーシャが大好きよ」
オレクサンドルは嬉しそうに笑った。
「パンちょうだい」
数秒の沈黙。
ミハイロは吹き出した。
カテリーナの声が、スピーカーから飛んできた。
「自分で取りに来なさい」
「やっぱりだめ?」
「駄目」
「でも、ママ、すきって言った」
「それとこれとは別です」
オレクサンドルは父を見る。
「失敗?」
「いや、大成功だ」
「パンない」
「それは自分で取りに行け」
オレクサンドルは椅子から降り、台所へ向かって走り出した。
「走るな!」
ミハイロが呼び止める。
直後、また廊下の奥から小さな衝突音が響いた。
「だいじょうぶ!」
「だから走るなと言っただろう!」
カテリーナは涙を拭きながら笑った。
「このインターフォン、もう捨てられないわね」
その日から、インターフォンはペトレンコ家の大切な道具になった。
実用性より、思い出のほうが大きかった。
時折、音が割れた。
接触が悪くなり、声が聞こえなくなることもあった。
そのたびに、オレクサンドルとミハイロが一緒に直した。
「どこが悪い?」
「線?」
「見てみよう」
「ちゃんとつなげば、声もどる?」
「ああ」
「光とおなじ?」
「そうだな」
線をつなげば、光が戻る。
線をつなげば、声が届く。
オレクサンドルの中で、機械はただの物ではなくなっていた。
何かと何かをつなぐもの。
遠くにあるものを近くするもの。
暗い場所を明るくするもの。
そして時には、大切な思いを家族へ届けるものだった。
*
一方、ブチャの別の通りにあるシェフチェンコ家では、オレーナが音楽に夢中になっていた。
歌うこと。
踊ること。
それは彼女にとって遊びであり、呼吸のようなものだった。
朝起きると、窓辺で鳥の声をまねする。
母ナタリヤが食器を並べる音にも、勝手に節をつける。
父ヴィクトルが新聞をめくる音を聞けば、そのリズムに合わせて足を動かす。
「オレーナ、食事中は座っていなさい」
「歌いながら食べる」
「口に物が入っている時は歌わない」
「じゃあ、食べてから歌う」
「そうしてくれ」
食べ終えると、すぐに歌い始める。
ヴィクトルは頭を抱えながらも、娘の声を聞くと笑ってしまった。
シェフチェンコ家には、古いレコードプレーヤーがあった。
父母が若い頃から使っているもので、木製の蓋には細かな傷がついている。
ナタリヤがレコードを選び、針を落とす。
最初に細かな雑音が鳴る。
そして音楽が始まる。
オレーナは、その瞬間が大好きだった。
特に心を奪われたのは、バレエ音楽だった。
チャイコフスキーの『白鳥の湖』。
あの美しい旋律が部屋へ流れると、オレーナの表情は一変した。
「これ!」
「また白鳥?」
「うん!」
「昨日も聴いたでしょう」
「今日も白鳥」
「ほかの曲もあるのよ」
「白鳥がいい」
ナタリヤは笑いながら、同じレコードへ針を落とした。
音楽が広がる。
静かで、少し物悲しく、それでいて空へ舞い上がるような旋律。
オレーナは両手を羽のように広げた。
つま先立ちになろうとする。
もちろん、まだ幼い。
本物のバレリーナのようには踊れない。
足は不安定で、膝も曲がる。
腕の高さも左右で違う。
それでも、表情だけは真剣だった。
音楽の中に、自分だけが見える湖がある。
白い鳥たちが泳いでいる。
月の光が水面を照らし、静かな波が広がっている。
幼いオレーナは、そんな景色を思い描いているようだった。
腕を伸ばす。
首をかしげる。
音に合わせて体を揺らす。
片足を前へ出し、くるりと回ろうとする。
父ヴィクトルはソファで新聞を読んでいた。
少なくとも、読んでいるふりをしていた。
紙面へ目を向けているものの、視線は何度も娘へ動いている。
「ナタリヤ」
「なに?」
「うちに白鳥がいる」
ナタリヤはピアノのそばから娘を見た。
「ええ。少し転びやすい白鳥ね」
その瞬間。
オレーナがくるりと回った。
一回目は成功した。
二回目で少しふらつく。
三回目で完全に目が回り、そのままソファへ倒れ込んだ。
「オレーナ!」
ヴィクトルは新聞を放り出し、立ち上がった。
しかしオレーナは、ソファの上で声を上げて笑っていた。
「もういっかい!」
「駄目だ。目が回ってる」
「だいじょうぶ!」
「大丈夫な子は、そんなにふらふらしない」
「白鳥は休まない!」
ナタリヤが吹き出した。
「白鳥も休むわよ」
「休まない」
「湖で眠るでしょう」
「オレーナの白鳥は、ずっと踊る」
ヴィクトルは娘を抱き上げ、床へ下ろした。
「では、踊る前にまっすぐ立ってみろ」
オレーナは胸を張った。
しかし体はわずかに左右へ揺れている。
「ほら、まだ目が回ってる」
「まわってない」
「お父さんが何人に見える?」
オレーナは父を指差した。
「ふたり」
「休みなさい」
ナタリヤは笑いながらレコードを止めた。
「少しお水を飲みましょう」
オレーナは不満そうだったが、椅子へ座った。
「あとで、もういっかい?」
「ゆっくりならね」
「白鳥、ゆっくり踊る」
「それがいいわ」
*
踊ることと同じくらい、オレーナは歌うことが好きだった。
ナタリヤがピアノへ向かうと、すぐに隣へ立つ。
「今日は何を歌う?」
「白鳥」
「白鳥の湖は歌じゃなくて音楽よ」
「歌にする」
「どんな歌詞?」
オレーナは少し考えた。
「白鳥が、泳いで、飛んで、パン食べる」
ヴィクトルが新聞の向こうで吹き出した。
「ずいぶん生活感のある白鳥だな」
「お腹すくから」
「それはそうだ」
ナタリヤは即興で簡単な伴奏を弾いた。
オレーナも、自分で考えた言葉を音へ乗せる。
白鳥が湖を泳ぐ。
空を飛ぶ。
疲れたら岸へ戻る。
そしてパンを食べる。
物語としては少し妙だった。
けれど、少女は楽しそうだった。
幼い声なのに、驚くほど遠くまで届く。
高い音も、細くならずにまっすぐ伸びる。
まだ発声の技術はない。
呼吸も一定ではない。
言葉の途中で息が切れることもある。
それでも、その声には人の心を立ち止まらせる何かがあった。
近所の人が家の前を通り、思わず歩みを止めることもあった。
「あら、今日もオレーナが歌ってるのね」
「よく聞こえるでしょう」
「窓を閉めていても聞こえるわ」
ナタリヤは苦笑した。
「少し声が大きすぎるかしら」
「いいじゃない。街が明るくなるわ」
そう言われると、ナタリヤは嬉しかった。
娘の声が人を困らせるのではなく、誰かの心を少し明るくする。
それは、オレーナが生まれた日に願ったことだった。
誰かが暗い場所にいる時、歌でそばにいられる子に。
まだ幼い娘は、その願いを知らない。
ただ、自分が楽しいから歌っている。
けれど、その無邪気な声は、すでに家族以外の人の心へ届き始めていた。
*
ある日、ナタリヤは近所の掲示板で、小さな音楽会の知らせを見つけた。
会場は、地域の集会所。
子どもたちが歌い、ピアノやアコーディオン、ヴァイオリンを演奏するささやかな会だった。
出演者の多くは、音楽を習い始めたばかりの子どもたちだという。
ナタリヤは、オレーナに見せたいと思った。
自分以外の誰かが、人前で歌う姿。
楽器を演奏する姿。
音楽を聞いて拍手を送る人々。
娘が、どんな顔をするのか見てみたかった。
「音楽会に行く?」
「歌ある?」
「あるわ」
「白鳥ある?」
「それは分からない」
「オレーナも歌う?」
「今日は見るだけよ」
「踊る?」
「客席で急に踊り始めたら困るわ」
「小さく踊る」
「座って見るの」
オレーナは少し不満そうだった。
それでも、音楽会へ行けると知ると、朝から落ち着かなかった。
お気に入りの服を着る。
髪を整えてもらう。
鏡の前で一度回ってみる。
「踊らないの」
「練習」
「何の練習?」
「座る練習」
「回っていたでしょう」
「そのあと座る」
ナタリヤは、娘の理屈に笑うしかなかった。
*
同じ日の朝。
ミハイロ・ペトレンコは、地域の集会所から修理の依頼を受けていた。
天井に設置された古い照明器具の一つが点灯しなくなり、部屋の半分が暗くなっているという。
夕方には音楽会が予定されている。
それまでに直してほしいという依頼だった。
「今日は少し大きな仕事だ」
ミハイロは工具を確認しながら言った。
オレクサンドルがすぐに近寄ってきた。
「サーシャも行く」
「遊びじゃないぞ」
「お手伝いする」
「高いところへは上れない」
「上らない」
「勝手に触らない」
「触らない」
「走らない」
オレクサンドルは少し考えた。
「たぶん」
「そこは絶対だ」
「ぜったい」
カテリーナが、父子のやり取りを見ながら上着を渡した。
「本当に連れていくの?」
「前から大きな照明を見たがっていたからな」
「目を離さないでね」
「ああ」
「あなたも夢中になると周りが見えなくなるから」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
今度はミハイロがそう答えた。
カテリーナは額へ手を当てた。
「親子そろって、それを言わないの」
オレクサンドルは笑いながら、小さな工具箱を持った。
父の大きな工具箱。
息子の小さな工具箱。
二人は並んで集会所へ向かった。
*
地域の集会所は、ブチャの街の中心に近い場所に建っていた。
古い石造りの建物。
大きな窓。
内部には広いホールがあり、正面には小さな舞台が設けられている。
普段は地域の会合や子どもたちの催しに使われていた。
ミハイロとオレクサンドルが到着した時、職員たちは椅子を並べ、音楽会の準備を進めていた。
「こちらです」
案内されたホールの天井には、複数の照明器具が並んでいた。
そのうち、舞台へ向かって右側の一列が点灯していない。
部屋の半分が暗く、舞台にも不自然な影が落ちていた。
オレクサンドルは天井を見上げた。
家にある小さなランプとは違う。
大きな照明器具。
いくつもの電球。
太い配線。
高い天井。
スイッチ一つで、部屋全体を明るくする仕組み。
少年は息をのんだ。
「大きい」
「ああ」
「これ、ぜんぶ光る?」
「本当ならな」
「こわれてる?」
「どこかに原因がある」
ミハイロは脚立を立てた。
「ここで見ていろ。勝手に触るなよ」
「うん」
「工具を渡してもらう時は呼ぶ」
「わかった」
オレクサンドルは、舞台の端に置かれた椅子へ座った。
だが、目は一瞬も父から離さなかった。
ミハイロは主電源が切れていることを確認し、脚立へ上った。
照明器具のカバーを外す。
内部の配線を調べる。
古い部品を一つずつ確認する。
オレクサンドルは下から問いかけた。
「何が悪い?」
「まだ分からない」
「電球?」
「電球だけじゃないようだ」
「線?」
「その可能性もある」
ミハイロは天井裏へ続く配線へ手を伸ばした。
接続部分の一つが黒く変色していた。
「見つけた」
「なに?」
「接続部分が傷んでいる」
「だから光らない?」
「ああ。電気が正しく流れていない」
オレクサンドルは、じっと見上げた。
「ちゃんとつなげば、光もどる?」
ミハイロは脚立の上から息子を見下ろした。
かつて自分が教えた言葉を、少年は今も覚えていた。
「ああ。ちゃんとつなげば、光は戻る」
修理が始まった。
古い接続部分を外す。
傷んだ線の先端を切る。
新しい部品を取り付ける。
「オレクサンドル、ネジをくれ」
「はい!」
「小さいほうだ」
少年は工具箱の中を探した。
「これ?」
「それだ」
ミハイロは下へ手を伸ばし、ネジを受け取った。
「次は絶縁テープ」
「黒いの?」
「そう」
「はい」
小さな助手は、真剣な顔で道具を渡した。
父の仕事を近くで見るたび、彼の中で何かが育っていった。
ラジオは、遠くの声を運んだ。
インターフォンは、家族の声をつないだ。
照明は、場所そのものを変える。
暗い部屋では、人の表情が見えにくい。
舞台の上に立っても、姿が影へ沈んでしまう。
けれど光があれば、顔が見える。
動きが見える。
色が見える。
その場所にいる人々の視線が、一つの方向へ集まる。
光は、ただ明るくするだけではない。
何を見るべきかを教える。
誰かを見つけるための道を作る。
オレクサンドルは、そのことをまだ言葉にはできなかった。
ただ、天井の照明を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
修理が終わった。
ミハイロは脚立を降り、接続をもう一度確認する。
「少し離れていろ」
「うん」
職員が主電源を戻した。
ミハイロが壁のスイッチへ手をかける。
「つけるぞ」
かちり。
次の瞬間。
それまで暗かった照明器具が、一斉に点灯した。
ぱっと白い光が広がる。
舞台の床が照らされる。
壁の色が戻る。
並べられた椅子の輪郭がはっきりする。
ホール全体が、一瞬で別の場所へ変わったようだった。
オレクサンドルは目を見開いた。
「すごい……」
光を見上げたまま、しばらく動かなかった。
ミハイロは工具を片づけながら言った。
「光が戻ったな」
オレクサンドルは小さくうなずいた。
「ぼくも、ひかり、つけたい」
その声は、普段の元気な叫びとは違っていた。
心の底から出てきた、静かな願いだった。
ミハイロは息子を見つめた。
幼い顔。
まっすぐな目。
まだ未来のことなど何も分からない年齢。
それでも、その目の中には確かな光があった。
「ああ」
ミハイロは静かに笑った。
「きっとできる」
*
修理が終わったあとも、ミハイロはしばらく会場に残ることになった。
音楽会の準備が進む中、すべての照明が安定して点灯するか確認する必要があった。
オレクサンドルは父のそばで、舞台を見上げていた。
職員たちがピアノを確認する。
椅子を並べ直す。
楽譜台を運ぶ。
演奏する子どもたちが、少しずつ集まってくる。
ヴァイオリンを持つ子。
アコーディオンを抱える子。
母親に手を引かれた小さな歌い手。
ホールには、修理中とは違う緊張と期待が漂い始めていた。
夕方。
ナタリヤに手を引かれたオレーナも、集会所へやってきた。
お気に入りの服を着て、髪を整えている。
入口を入ると、最初に目へ飛び込んできたのは、明るく照らされた舞台だった。
「きれい」
オレーナは立ち止まった。
「舞台が気になる?」
「うん」
「今日は見るだけよ」
「わかってる」
そう答えながら、視線は舞台から離れない。
ナタリヤは娘の手を引き、前方の席へ向かった。
一方、オレクサンドルはホールの後ろにいた。
父ミハイロと並び、天井の照明を見上げている。
二人の距離は、それほど遠くなかった。
同じ部屋。
同じ時間。
オレクサンドルは、明るくなった舞台を見ていた。
オレーナは、その舞台に置かれたピアノを見ていた。
オレクサンドルの視線は天井の灯りへ。
オレーナの視線は舞台の中央へ。
まだ二人は、互いの存在に気づかない。
音楽会が始まった。
最初は、数人の子どもたちによる合唱だった。
舞台の照明が、歌う子どもたちの顔を照らしている。
オレーナは、前のめりになって見つめた。
子どもたちが口を開く。
声が重なる。
歌がホールへ広がる。
観客は静かに耳を傾けている。
歌い終わると、拍手が起きた。
オレーナも一生懸命に手を叩いた。
「ママ」
「なに?」
「オレーナも、あそこ行く」
「いつかね」
「今じゃない?」
「今日は見る日よ」
「いつ歌う?」
「もっと大きくなって、あなたが本当に歌いたいと思った時」
「もう歌いたい」
ナタリヤは娘を見つめた。
その目には、家の中で踊っている時とは違う輝きがあった。
多くの人がいる場所。
明るい舞台。
音楽。
拍手。
オレーナは初めて、自分もあの場所へ立ちたいと願っていた。
次は、ピアノの演奏だった。
少女が舞台へ上がる。
椅子へ座り、深く息を吸う。
指が鍵盤へ触れる。
流れ始めたのは、『白鳥の湖』の旋律だった。
オレーナの表情が変わった。
「白鳥」
小さくつぶやく。
両手が膝の上でわずかに動く。
踊りたい。
体が音へ反応している。
それでも、母との約束を思い出し、席から立たずに聴いていた。
目だけが、舞台の上を飛んでいた。
湖。
白鳥。
夜の光。
悲しく、美しい旋律。
オレーナの中に、いつもの居間よりもはるかに大きな世界が広がっていく。
ホールの後ろでは、オレクサンドルが舞台の照明を見つめていた。
ピアノを弾く少女へ、光が当たっている。
顔。
手。
鍵盤。
そのすべてが、はっきり見える。
照明がなければ、後ろの席からは表情も指の動きも分からなかったかもしれない。
光があるから、観客は演奏する少女を見ることができる。
音楽と光。
二つが同じ舞台の上にあった。
「パパ」
「なんだ?」
「あの光、ピアノの人を見せてる」
ミハイロは少し驚いたように息子を見た。
「ああ」
「ただ明るいだけじゃない?」
「よく気づいたな」
「光があるから、見える」
「そうだ」
「歌う人も?」
「もちろんだ」
オレクサンドルは、舞台を見つめた。
いつか自分も、誰かの姿を照らす光を作りたい。
まだ明確な夢ではなかった。
ただ、胸の中で小さく灯った思いだった。
*
演奏が終わり、拍手が起きた。
オレーナは誰よりも大きく手を叩いていた。
小さな手が赤くなるほどだった。
「きれいだった」
「ええ」
「白鳥がいた」
「ピアノだけだったでしょう」
「いたの。音の中に」
ナタリヤは娘の言葉に、目を細めた。
「オレーナには見えたのね」
「うん」
「どんな白鳥?」
「白くて、悲しくて、でも飛んだ」
幼い言葉だった。
けれどナタリヤは、娘が音楽をただ聞いているだけではないことを感じた。
音から景色を見ている。
物語を感じている。
その感覚は、誰かに教えられたものではなかった。
オレーナの中に、最初からあったものだった。
音楽会の最後には、出演者全員による短い合唱が行われた。
舞台の照明が少し明るくなる。
オレクサンドルは、父が直した灯りを見上げた。
オレーナは、光の中で歌う子どもたちを見つめた。
少年は、あの光を自分も作りたいと思った。
少女は、あの光の中で歌いたいと思った。
同じ瞬間。
同じ場所。
二人の胸に、それぞれ異なる願いが生まれていた。
光に魅せられる少年。
歌に導かれる少女。
まだ交わらない二つの道は、すぐ近くまで来ていた。
*
音楽会が終わった。
観客たちはゆっくりと席を立ち、出演した子どもたちへ声をかけている。
オレーナは母とともに出口へ向かった。
歩きながらも、何度も舞台を振り返る。
「また来る?」
「ええ」
「今度は歌う?」
「あなたがもう少し大きくなったらね」
「すぐ大きくなる」
「そんなに急がなくていいのよ」
「早く歌いたい」
ナタリヤは娘の手を握り直した。
「歌うことは逃げないわ」
その頃、オレクサンドルは父と一緒に、照明器具の最終確認をしていた。
「途中で消えなかったな」
ミハイロが言う。
「うん」
「今日の仕事は終わりだ」
「パパ」
「なんだ?」
「また光、直す?」
「壊れたらな」
「もっと大きい光も?」
「いつか見ることがあるかもしれない」
「舞台の光?」
「ああ」
オレクサンドルは、誰もいなくなり始めた舞台を見つめた。
ほんの少し前まで、そこには音楽があった。
今は静かだ。
けれど照明はまだ舞台を照らしている。
少年はその光を、いつまでも見つめていた。
オレーナとナタリヤが出口を通り過ぎた時、オレクサンドルは天井を見上げていた。
オレクサンドルとミハイロが舞台の前を歩いた時、オレーナはすでに母とともに建物を出ていた。
ほんの少しの時間。
ほんの数歩の距離。
二人はすれ違うことさえなかった。
運命はまだ、その瞬間を先へ残していた。
*
帰宅したオレーナは、すぐに居間の中央へ立った。
「ママ、ピアノ」
「もう遅いわよ」
「一曲だけ」
「今日はたくさん音楽を聴いたでしょう」
「オレーナも歌う」
ヴィクトルが仕事から戻り、上着を脱ぎながら尋ねた。
「音楽会はどうだった?」
オレーナは父のもとへ走った。
「白鳥いた!」
「本物の白鳥が?」
「ピアノの中」
ヴィクトルはナタリヤを見る。
「どういうことだ?」
「『白鳥の湖』を演奏した子がいたの」
「オレーナも、あそこで歌う」
娘は胸を張って宣言した。
「そうか」
「パパ、見る?」
「もちろんだ」
「仕事でも?」
「必ず行く」
「約束?」
「約束する」
オレーナは満足そうに父の手を握った。
ナタリヤはピアノへ座り、短い伴奏を弾いた。
「一曲だけよ」
「うん!」
オレーナは、音楽会で聞いた旋律を思い出しながら、自分なりの歌を歌った。
言葉はまだ幼い。
音程も完全ではない。
けれど、その声には新しいものが加わっていた。
舞台を見た記憶。
光の中で音楽を奏でる子どもたち。
観客の拍手。
いつか自分も、あそこへ立ちたいという願い。
ヴィクトルは何も言わずに聴いていた。
歌い終わると、大きな拍手を送った。
「今日から、少し声が変わった気がするな」
ナタリヤも同じことを感じていた。
声そのものが変わったわけではない。
歌う理由が、一つ増えたのだ。
自分が楽しいから歌う。
家族へ聞かせたいから歌う。
そして今度は、誰かの前で歌ってみたい。
幼いオレーナの中で、歌は少しずつ夢へ変わり始めていた。
*
ペトレンコ家では、完成したラジオから夜の放送が流れていた。
オレクサンドルは、父と一緒に小さな作業台へ座っている。
集会所で見た照明を忘れられなかった。
「パパ」
「なんだ?」
「大きい光、どうやって作る?」
「どのくらい大きい?」
「今日のより大きい」
「ずいぶん欲張りだな」
「いっぱい人を照らす」
ミハイロは、息子の言葉を聞いて手を止めた。
「たくさんの人を?」
「うん。歌う人も。踊る人も。みんな見えるようにする」
ミハイロはしばらく黙っていた。
息子はまだ幼い。
今日の出来事に影響され、思いついたことを話しているだけかもしれない。
それでも、その言葉を軽く扱いたくはなかった。
「大きな光を扱うには、たくさん勉強しないといけない」
「線?」
「線も。電気も。安全な使い方も。光の向きや強さも」
「ぜんぶ覚える」
「簡単じゃないぞ」
「ゆっくりする」
ラジオを作った時、父に教えられた言葉だった。
急がない。
間違えたら考える。
壊れたら直す。
そしてまた作る。
ミハイロは笑った。
「そうだな。ゆっくり覚えればいい」
「パパ、教える?」
「ああ。俺に分かることは教える」
「分からないことは?」
「一緒に調べよう」
オレクサンドルは嬉しそうにうなずいた。
父の膝の上へ座り、完成したラジオのつまみを回す。
雑音の中から、音楽が聞こえてきた。
それは偶然にも、クラシック音楽の放送だった。
オレクサンドルは耳を傾けた。
「今日のピアノと似てる」
「音楽会のことか?」
「うん」
「光だけじゃなく、音楽も覚えていたのか」
「光があると、音楽の人、よく見えた」
ミハイロは息子の髪を撫でた。
「いつか、お前が誰かのために光をつける日が来るかもしれないな」
「パパみたいに?」
「ああ。でも、俺よりもっと大きな場所で」
オレクサンドルは、その未来を想像しようとした。
大きな舞台。
たくさんの光。
歌う人。
踊る人。
拍手する人々。
まだぼんやりとした景色だった。
その舞台の中央に、今日同じ会場にいた少女が立つことになるとは、もちろん知らなかった。
*
夜が深まった。
ブチャの街の家々に、明かりがともっている。
ペトレンコ家では、オレクサンドルが小さな工具箱を枕元へ置き、眠りについていた。
そのそばでは、自分で組み立てたラジオが静かに音楽を流している。
シェフチェンコ家では、オレーナが『白鳥の湖』の旋律を口ずさみながら、母の腕の中で眠りへ落ちていた。
少年は、光を作ることを夢見始めた。
少女は、光の中で歌うことを夢見始めた。
二人はまだ出会っていない。
互いの名前も知らない。
けれど、その日初めて同じ部屋にいた。
同じ音楽を聞き。
同じ舞台を見つめ。
同じ光の下で、それぞれの未来を思い描いた。
オレクサンドルは、舞台を照らす側から。
オレーナは、舞台に立つ側から。
二つの道は、静かに形を持ち始めていた。
それから先の人生で、二人は何度も光と歌を重ねることになる。
オレクサンドルが光を整える。
オレーナがその光の中で歌う。
互いを支え、守り、同じ舞台を作る。
その始まりは、この小さな集会所にあった。
もっとも、今の二人は何も知らない。
オレクサンドルは、明日になれば新しい機械を分解したがるだろう。
オレーナは、目を覚ませばまた白鳥になって居間を回るだろう。
まだ幼い子どもたちだった。
転べば泣き。
褒められれば笑い。
眠くなれば、父や母の腕の中へ戻る。
ブチャの春の夜空には、スピカが白く輝き、アークトゥールスが橙色の光を放っていた。
春の夫婦星と呼ばれる二つの星。
白い星と、橙の星。
まだ遠く離れて見える二つの光は、同じ夜空の中で輝いている。
その下で、光の少年と歌の少女は眠っていた。
やがて同じ人生を歩むことになるとは知らずに。
まだ戦争を知らずに。
まだ別れを知らずに。
ただ、自分の好きなものに心を輝かせながら。
次回予告
ブチャに夏が訪れる。
街の広場には屋台が並び、色とりどりの飾りと灯りが、夕暮れの街を包んでいく。
父ミハイロの手を握り、祭りの照明に目を奪われるオレクサンドル。
母ナタリヤに連れられ、音楽の輪へ加わるオレーナ。
歌。
笑い声。
甘い菓子の匂い。
夜空へ上がる光。
まだ名前も知らない二人が、初めて同じ広場ですれ違う。
次回、第5話。
「夏祭りの灯」
出会いは、まだ恋ではない。
言葉さえ交わさない。
けれど運命は、その一瞬を確かに覚えている。




