小さな工具箱
第3話
小さな工具箱
冬を越え、春を迎え、やがて夏が過ぎていった。
ブチャの街では、長く閉ざされていた窓が開かれ、家々の庭に子どもたちの声が戻ってきた。
雪解けの水が細い路地を流れ、白樺の枝には新しい葉が芽吹いた。春には淡い緑だった木々も、夏になる頃には濃い葉を茂らせ、通りへ大きな影を落とすようになった。
市場には季節の野菜が並び、軒先では人々が椅子を出して語り合う。夕方になると、家路を急ぐ人々の足音に交じって、どこからともなく子どもの笑い声が聞こえてきた。
その声の中で、ひときわ元気に走り回る少年がいた。
オレクサンドル・ペトレンコ。
家族からは、親しみを込めてサーシャと呼ばれていた。
じっとしていることが苦手な子だった。
朝起きると、まず部屋の中を走る。
椅子の脚にぶつかる。
転ぶ。
少し泣く。
母カテリーナに抱き上げられるとすぐに笑い、床へ下ろされれば、何事もなかったようにまた走り始める。
庭へ出れば、小石を拾う。
虫を追いかける。
水たまりに足を入れる。
泥だらけになって叱られる。
それでも次の日には、同じ場所へ向かう。
見るものすべてが珍しく、触れるものすべてに意味があるようだった。
だが、そんなオレクサンドルが走ることさえ忘れる瞬間があった。
父ミハイロ・ペトレンコが、工具箱を開ける時だった。
古い木製の工具箱。
角には長年使い込まれた傷があり、持ち手の塗装はところどころ剝がれている。それでもミハイロは毎日のように手入れをし、中に入っている道具を決まった位置へ整えていた。
金属製の留め具が外される。
蓋がゆっくり開く。
大小さまざまなドライバー。
ペンチ。
ニッパー。
絶縁テープ。
スパナ。
古い布。
小さなネジが入った缶。
それらが姿を見せると、オレクサンドルの目は一気に輝いた。
「パパ、それなに?」
少年は父の膝へ両手をつき、身を乗り出した。
ミハイロは一本の道具を取り出す。
「これはドライバーだ」
「どらいばー」
「そう。ネジを締めたり、外したりする道具だ」
「しめる!」
「そうだ」
ミハイロは、修理に使う板の上へ太いネジを一本置いた。
ドライバーの先を合わせ、ゆっくりと回す。
「こうやって使う」
「くるくる」
「回してるように見えるか?」
「うん。サーシャもする」
「まだ本物は早いな」
「する」
「危ないぞ」
「する!」
オレクサンドルは両手を伸ばし、どうしても触りたそうにしていた。
ミハイロは困ったように笑う。
「少しだけだぞ」
父は少年の後ろへ回り、小さな手を自分の手で包んだ。
二人でドライバーを握る。
ミハイロが力を支えながら、ゆっくりと回した。
「まっすぐ持つんだ」
「まっすぐ」
「力を入れすぎない」
「ちから、すこし」
「そうだ。ゆっくり回す」
「くるくる」
ネジが少しずつ板の中へ入っていく。
オレクサンドルは、口を半分開けたまま真剣に見つめていた。
ネジの頭が板の表面へ近づく。
最後にミハイロが軽く締めた。
「できた」
オレクサンドルは大きく息を吸った。
「できた!」
まるで大仕事を終えた職人のように胸を張る。
その声を聞いて、台所にいたカテリーナが顔を出した。
「何ができたの?」
「サーシャ、しめた!」
「ネジを?」
「うん!」
「それはすごいわね」
カテリーナは笑いながら近づいた。
「でも、そのドライバーを持ったまま走ったら駄目よ」
「はしらない」
「本当?」
「ほんとう」
答えた直後、オレクサンドルはドライバーを握ったまま駆け出そうとした。
ミハイロがすぐに抱き止める。
「今、走らないと言ったばかりだぞ」
「わすれた」
「早すぎるだろう」
カテリーナは腕を組んだ。
「あなた、本当にそんな小さい子へ工具を持たせて大丈夫なの?」
「俺が見ているから大丈夫だ」
「あなたも作業に夢中になると、周りが見えなくなるでしょう」
「それは否定できない」
「そこは否定しなさいよ」
家の中に笑い声が広がった。
ミハイロは電気設備の修理や、家庭で使われる小さな機械の修繕を仕事にしていた。
古い家の配線を調べる。
切れた電線をつなぐ。
天井からぶら下がる照明を取り替える。
動かなくなったラジオの裏蓋を開ける。
音の出なくなった目覚まし時計を分解する。
突然火花を散らしたスイッチを外し、新しい部品へ交換する。
派手な仕事ではなかった。
名前が新聞に載ることもなければ、大勢の人から拍手を受けることもない。
それでも、街の人々にとっては欠かせない仕事だった。
ある家では、暗くなった台所に灯りを戻す。
別の家では、亡くなった家族が使っていたラジオをもう一度鳴らす。
冬には、動かなくなった暖房器具を直す。
夜道を歩く人のために、古い懐中電灯へ再び光を灯す。
ミハイロの手が動くたび、止まっていた物が役目を取り戻した。
オレクサンドルには、そのすべてが魔法のように見えた。
父が電線をつなぐ。
スイッチへ指をかける。
かちりと音が鳴る。
それまで暗かった部屋に、黄色い光が広がる。
「パパ、ひかり、ついた!」
「ああ」
「どうして?」
「切れていた線をつないだからだ」
「つないだら、ひかる?」
「正しくつなげばな」
「ちゃんと?」
「そう。ちゃんと線をつなげば、光は戻る」
ミハイロは何気なくそう言った。
仕事の説明をするための、ごく普通の言葉だった。
けれどオレクサンドルは、その言葉を何度も繰り返した。
「ちゃんとつなげば、ひかり、もどる」
「よく覚えたな」
「ひかり、もどる」
意味を完全に理解していたわけではない。
それでも、その響きが気に入ったのだろう。
暗かったものが明るくなる。
止まっていたものが動き出す。
壊れていたものが、もう一度役に立つ。
父の仕事を見つめながら、オレクサンドルは光とはただ明るいだけのものではないことを、幼い感覚の中で少しずつ覚え始めていた。
*
夏の終わり。
ミハイロは家の裏手に置いていた小さな作業台をきれいにした。
古い木の板。
短い脚。
長年使われ、表面には傷や焦げ跡が残っている。
その作業台の横へ、さらに小さな台が置かれた。
「これはなに?」
オレクサンドルが尋ねた。
「サーシャの台だ」
「サーシャの?」
「ああ。今日からここがお前の場所だ」
少年は目を丸くした。
小さな台の上には、使われなくなった古い板と、先の丸い太いネジが何本か置かれていた。
その隣には、木の柄がついた短いドライバーがある。
ミハイロが危なくないよう、古い道具を削り直して作ったものだった。
「これも、サーシャの?」
「ああ。小さな工具箱もあるぞ」
ミハイロは足元から、小さな木箱を持ち上げた。
父の工具箱よりはるかに小さい。
だが形はよく似ていた。
蓋を開けると、短いドライバー、角を丸くした木製のスパナ、布、空のネジ缶が入っていた。
オレクサンドルはしばらく声を出さなかった。
木箱を見つめる。
父を見る。
また木箱を見る。
「これ、サーシャの?」
「そうだ」
「ぜんぶ?」
「全部だ」
少年は小さな工具箱を両腕で抱き締めた。
「ありがとう、パパ!」
その声には、普段の元気さとは少し違う響きがあった。
ただ嬉しいだけではない。
父と同じ物を持てたこと。
父の仕事へ少しだけ近づけたこと。
自分にも役割ができたこと。
幼い胸の中で、いくつもの喜びが重なっていた。
ミハイロは息子の髪をくしゃりと撫でた。
「大事に使うんだぞ」
「うん!」
「投げない」
「なげない」
「振り回さない」
「ふりまわさない」
「走りながら持たない」
「はしらない」
カテリーナが台所の窓から顔を出した。
「その約束、この前も聞いた気がするわ」
「今度は守る」
「本当に?」
「ほんとう!」
今度は走らなかった。
オレクサンドルは工具箱を両手でしっかり抱え、自分の小さな作業台へゆっくり歩いた。
ただし、嬉しさのあまり足が速くなり、最後の一歩でつまずいた。
工具箱を落とす寸前に、ミハイロが受け止めた。
「危なかったな」
「はしってない」
「走ってはいないが、気持ちは走っていたな」
カテリーナが吹き出した。
「それはあなたに似たのね」
「否定できないな」
「また否定しないの?」
父と母の笑い声を聞きながら、オレクサンドルも一緒に笑った。
それから少年は、父のそばで小さな助手のように動くようになった。
「ネジを取ってくれるか」
「はい!」
「小さいほうだ」
「これ?」
「それは大きい」
「じゃあ、こっち?」
「そうだ」
オレクサンドルはネジを一本ずつ見比べる。
太さ。
長さ。
頭の形。
まだ名前は分からない。
けれど少しずつ違いを覚えていった。
分解した機械のネジは、なくさないように布の上へ並べる。
外した順番を変えない。
配線には赤、青、黒、白がある。
似ているようでも、つながっている場所が違う。
電池には向きがある。
逆に入れれば動かない。
スイッチは強く押せばよいわけではない。
ネジは締めすぎれば部品を壊す。
緩すぎれば外れる。
道具は乱暴に置かない。
使い終わったら布で拭く。
元の場所へ戻す。
ミハイロは同じことを何度も教えた。
オレクサンドルも、何度失敗しても聞き直した。
「パパ、これ、もっとしめる?」
「もう十分だ」
「まだ、まわる」
「回るからといって、回していいとは限らない」
「どうして?」
「締めすぎると、板が割れる」
「つよいほうが、いいんじゃない?」
「力だけでは駄目なんだ」
ミハイロは少年の手を取り、ドライバーを握らせた。
「道具は、相手の声を聞くように使うんだ」
「どうぐ、しゃべる?」
「声には出さない」
「じゃあ、きこえない」
「耳では聞こえない。でも、手には伝わる」
オレクサンドルは自分の手を見つめた。
「てに?」
「そうだ。硬くなったら止める。ぐらついていたら、もう少し締める。少しずつ触っていると分かるようになる」
少年は神妙な顔でうなずいた。
再びドライバーを回す。
ゆっくり。
少しずつ。
ネジの抵抗を確かめるように。
ぎゅっ、と手に感触が返る。
そこで止めた。
「ここ?」
「そうだ」
「できた?」
「できた」
オレクサンドルの顔が一気に明るくなった。
「できた!」
ミハイロは大きくうなずいた。
「上手だぞ」
褒められると、少年は顔いっぱいで笑った。
作業が終わったあとも、何度も自分で締めたネジを見に行った。
たった一本のネジ。
それでも、オレクサンドルにとっては自分の力で完成させた最初の仕事だった。
*
ペトレンコ家は、決して裕福ではなかった。
家具は古い。
服は繕いながら着る。
新しい玩具を頻繁に買う余裕もない。
ラジオは時々音が小さくなり、台所の椅子は一本だけ脚の長さがわずかに違っていた。
だが、家の中はいつも手入れされていた。
壊れた物はすぐに捨てない。
直せる物は直す。
布が破れれば縫う。
木が割れれば削って組み直す。
足りない物があれば、工夫して作る。
ミハイロにとって、それは仕事だけではなく暮らし方でもあった。
カテリーナもまた、家族のためにできる限りのことをしていた。
台所からは、煮込み料理や焼いたパンの匂いが漂う。
庭で採れた野菜を保存し、冬に備えて瓶へ詰める。
オレクサンドルが泥だらけになれば、叱りながら服を洗う。
夜になると、疲れて眠った息子の髪を撫でる。
新しい物は少ない。
けれど、ペトレンコ家には温かさがあった。
古いラジオ。
修理途中のランプ。
父の工具箱。
母の料理の匂い。
窓辺に置かれた小さな鉢植え。
そして、何でも知りたがる少年の目。
オレクサンドルの世界は、そうした一つひとつの物から広がっていった。
ある午後。
ミハイロのもとへ、近所の老人が古い懐中電灯を持ってきた。
「これを見てもらえるか」
「もちろんです」
「新しい物を買えばいいと言われたんだが、昔から使っていてな」
金属製の懐中電灯だった。
表面には細かな傷があり、持ち手の塗装も剝がれている。
ミハイロはスイッチを押した。
光らない。
何度か押しても反応はなかった。
「中を見てみましょう」
オレクサンドルがすぐに父の隣へ来た。
「サーシャもみる」
「見ていい。ただし触るのは俺が言ってからだ」
「うん」
ミハイロは裏蓋を開け、電池を取り出した。
中には白い粉のような汚れが付着している。
「電池が古くなって液が漏れたんだ」
老人は心配そうに尋ねた。
「直りそうか?」
「接点をきれいにすれば、まだ使えると思います」
ミハイロは布と細い道具を使い、内部の汚れを丁寧に取り除いていく。
オレクサンドルは息を止めるように見つめていた。
「サーシャ、布を取ってくれるか」
「これ?」
「そう」
「はい」
「今度は小さなドライバー」
「こっち?」
「それだ」
少年は一本ずつ道具を渡した。
やがて内部がきれいになり、新しい電池を入れる時が来た。
ミハイロは電池を一本、息子へ見せる。
「この印が見えるか?」
「うん」
「電池には向きがある」
「むき」
「逆に入れると光らない」
「こっち?」
オレクサンドルは懐中電灯の中を覗き込み、指で方向を示した。
「そうだ。入れてみるか?」
「サーシャが?」
「ゆっくりな」
少年は両手で電池を持った。
落とさないよう慎重に差し込む。
一本。
もう一本。
「はいった」
「では、蓋を閉めるぞ」
ミハイロが裏蓋を締めた。
懐中電灯をオレクサンドルへ向ける。
「スイッチを押してみるか」
少年は小さな指をスイッチへ置いた。
「これ?」
「ああ」
「おす?」
「押していい」
かちり。
次の瞬間、白い光がぱっと灯った。
オレクサンドルは目を見開いた。
「ひかった!」
光は昼間の作業場の壁へ丸い輪を作った。
少年は懐中電灯を受け取り、壁や床へ光を動かした。
「パパ、ひかり、うごく!」
「懐中電灯を動かしているからだ」
「サーシャが、つけた?」
「最後のスイッチはサーシャが押した」
「サーシャが、なおした?」
ミハイロは一瞬考えた。
「一緒に直した」
「いっしょ?」
「ああ。お前が道具を渡して、電池を入れた。だから一緒だ」
オレクサンドルは懐中電灯を胸の前で抱えた。
老人も嬉しそうに笑う。
「立派な助手だな」
「サーシャ、じょしゅ!」
「そうか。将来が楽しみだ」
老人は直った懐中電灯を受け取り、何度もスイッチを入れたり切ったりした。
「ありがとう。これでまた夜に使える」
その言葉を聞いて、オレクサンドルは得意げに父を見た。
「よる、ひかる」
「ああ」
「くらくない」
「そうだ。暗い時に人を助ける」
「サーシャも、ひかり、つけた」
「よくできたな」
その日から、懐中電灯はオレクサンドルにとって特別な機械になった。
小さな筒の中に電池がある。
線がつながり、スイッチを押す。
すると光が生まれる。
それは単なる仕組みだった。
けれど少年にとっては、暗闇を変える力だった。
*
同じ頃。
ブチャの別の通りにあるシェフチェンコ家では、オレーナが歌っていた。
まだ幼い。
言葉も完全ではない。
知っている歌詞も少ない。
途中で同じ言葉を何度も繰り返し、意味のない音へ変わってしまうこともある。
それでも、声は驚くほどよく通った。
母ナタリヤが古いピアノの蓋を開けると、オレーナはすぐに近寄ってくる。
「ママ、うた?」
「歌う?」
「うたう!」
「今日は何の歌にしましょう」
「ゆき!」
「今は夏よ」
「ゆき、うたう!」
「分かったわ。雪の歌ね」
ナタリヤは笑いながら鍵盤へ指を置いた。
古いピアノだった。
いくつかの鍵盤は少し黄ばみ、調律も完全ではない。
けれど、ナタリヤが弾くと、部屋の中へやわらかな音が流れた。
オレーナは小さな足でリズムを取る。
右へ。
左へ。
膝を曲げる。
両手を広げる。
「ラ、ラ、ラー」
歌詞は合っていない。
音程も時々外れる。
それでも、その声には不思議な透明感があった。
窓辺から差し込む光へ溶けていくような声。
雪の降る朝に、遠くから聞こえてくる鐘のような声。
まだ細く、幼く、頼りない。
けれど、聞く者の耳を自然に引き寄せる響きがあった。
ヴィクトルはソファで新聞を読んでいた。
最初は紙面へ目を落としていたが、やがて読む手が止まった。
新聞を少し下げ、娘を見る。
オレーナは母のピアノに合わせ、夢中で歌っている。
「ナタリヤ」
「なに?」
「この子の声、すごいな」
ナタリヤは演奏を続けながら微笑んだ。
「ええ」
「前からこんなに通る声だったか?」
「生まれた時から泣き声は大きかったでしょう」
「歌声とは違う」
「そうね」
ナタリヤは娘を見つめた。
「まるで宝物みたい」
オレーナは両親が自分を見ていることに気づいた。
それまで少し真剣だった顔が、急に得意げな表情へ変わる。
「みて!」
「見てるよ」
「オレーナ、うたう!」
「上手だ」
「おどる!」
両手を大きく広げ、くるりと回る。
一回。
二回。
三回目で足元がふらつく。
そのままソファへ倒れ込んだ。
「オレーナ!」
ヴィクトルが新聞を放り出して立ち上がる。
だが、オレーナはソファの上で声を上げて笑った。
「もういっかい!」
「駄目だ。目が回っている」
「もういっかい!」
「少し休みなさい」
「おどる!」
ヴィクトルは頭を抱えた。
「誰に似たんだ、この元気さは」
「あなたじゃない?」
「俺は家の中で回らない」
「若い頃は似たようなことをしていたでしょう」
「何の話だ」
ナタリヤは笑いながら、今度はゆっくりした曲を弾き始めた。
「もう一回だけ。今度はゆっくりよ」
「ゆっくり!」
オレーナはソファから立ち上がった。
先ほどより慎重に、ゆっくりと体を回す。
片足を前へ出し、両腕を揺らす。
また歌声が重なった。
まだ幼い少女の歌は、家の中を明るくした。
暖炉の火よりも。
窓から差す陽射しよりも。
その声は、家族の心を温めていた。
歌い終わると、ヴィクトルは大きな拍手を送った。
「上手だったぞ」
「もういっかい!」
「まだやるのか?」
「うたう!」
「少し休みましょう」
「まだつかれてない」
「お父さんが疲れたみたいよ」
ナタリヤの言葉に、オレーナは父の顔をのぞき込んだ。
「パパ、つかれた?」
「少しな」
「じゃあ、オレーナ、うたってあげる」
「休ませてくれるんじゃないのか」
ヴィクトルの問いには答えず、オレーナはまた歌い始めた。
ナタリヤは笑いをこらえながら伴奏を続けた。
*
ある日、ナタリヤはオレーナを連れて、近所の小さな集まりへ出かけた。
地域の母親たちが子どもを連れて集まり、手作りのパンやスープ、焼き菓子を持ち寄る、ささやかな会だった。
場所は、近所の家の広い居間だった。
窓辺には色とりどりの花が飾られ、長いテーブルの上には料理が並んでいる。
大人たちは近況を語り合い、子どもたちは床へ座って玩具で遊んでいた。
オレーナも最初は、ほかの子どもたちと一緒に木製の人形を並べていた。
だが、部屋の隅で古いアコーディオンが鳴り始めると、すぐに顔を上げた。
近所の男性が、古い民謡をゆったりと奏でている。
オレーナは手にしていた人形を置いた。
音のするほうへ歩いていく。
そして、誰に言われたわけでもないのに体を揺らし始めた。
「まあ、かわいい」
一人の女性が声を上げた。
「踊ってるわ」
「音楽が好きなのね」
オレーナは大人たちに見られていることに気づいた。
急に動きを止める。
恥ずかしくなったのか、ナタリヤの後ろへ隠れた。
「どうしたの?」
母が尋ねる。
オレーナは母の服をつかみ、顔の半分だけをのぞかせた。
「みんな、みてる」
「かわいいから見てるのよ」
「オレーナ、うたわない」
「無理に歌わなくていいの」
ナタリヤは娘を前へ出そうとはしなかった。
背中へ手を添え、そのまま隣に座らせる。
「聞くだけでもいいのよ」
オレーナはしばらく黙ってアコーディオンを聞いていた。
曲が一つ終わる。
次の曲が始まる。
大人たちの注目も、少しずつ別のところへ移った。
するとオレーナは、母の手を離した。
一歩前へ出る。
もう一歩。
アコーディオンを弾く男性の近くへ立った。
「歌うの?」
男性が優しく尋ねた。
オレーナは小さくうなずいた。
ナタリヤは驚いたが、何も言わなかった。
男性は曲をゆっくり弾き直した。
オレーナは最初、小さな声で歌った。
部屋のざわめきに消えてしまいそうな声だった。
けれど、近くにいた一人が会話を止める。
続いて、別の人も静かになる。
次第に部屋全体が、幼い少女の声へ耳を傾け始めた。
オレーナの声は、少しずつ伸びていった。
高い音では、わずかに揺れる。
歌詞を間違える。
一か所、同じ言葉を繰り返す。
完璧な歌ではない。
それでも、その声には誰かを黙らせる力があった。
大人たちは息をのんだ。
幼い子どもの歌。
短く、素朴な歌。
それなのに、なぜか胸の奥へ残った。
ナタリヤは娘を見つめていた。
家で歌う時とは違う。
多くの人の前で、最初は怖がっていた。
それでも、自分から一歩前へ出た。
誰かに強く勧められたからではない。
歌いたいと思ったから。
その気持ちだけで、小さな体を前へ進めた。
歌が終わる。
オレーナは最後の音を伸ばしたあと、不安そうに周囲を見た。
数秒の沈黙。
自分が失敗したと思ったのかもしれない。
唇をきゅっと結び、母を探す。
その直後、部屋中から拍手が起きた。
「上手だったわ」
「きれいな声ね」
「もう一曲聞きたいくらい」
オレーナは驚き、目を大きく開いた。
それから母のもとへ走った。
「ママ」
ナタリヤは娘を抱き上げた。
「よく歌えたわね」
「まちがえた」
「少しだけね」
「だめだった?」
「全然駄目じゃないわ」
ナタリヤの目には涙が浮かんでいた。
「とても上手だった。何より、歌いたいと思って自分から前へ出たことが素敵だったわ」
オレーナは母の首へ腕を回した。
「みんな、ぱちぱちした」
「あなたの歌を聞いて嬉しかったのよ」
「また、うたう」
「ええ。あなたが歌いたい時にね」
その日から、近所の人々はオレーナを見ると、冗談交じりにこう呼ぶようになった。
「歌う小さな星」
最初にそう呼んだのは、アコーディオンを弾いていた男性だった。
「この子は小さいけれど、声には光がある」
彼は笑いながら言った。
「歌う小さな星だ」
オレーナには言葉の意味がよく分からなかった。
「オレーナ、ほし?」
「そうね」
ナタリヤは娘の頬を撫でた。
「でも、空へ行かなくていいのよ。お母さんのそばにいてね」
「いる!」
オレーナは即座に答えた。
その無邪気な声に、集まっていた人々は笑った。
*
夕暮れ。
ブチャの空は、淡い橙色から紫色へゆっくりと変わっていった。
ペトレンコ家では、一日の仕事を終えたミハイロが工具を片づけていた。
使ったドライバーを布で拭く。
ペンチを決まった場所へ戻す。
ネジを缶へ分ける。
オレクサンドルも自分の小さな工具箱を開け、父の真似をしていた。
布で木製のスパナを拭く。
ドライバーを置く。
向きが違う。
もう一度置き直す。
「これはここ?」
「そうだ」
「こっちは?」
「その隣だな」
「できた」
「きれいに片づいたな」
オレクサンドルは満足そうに工具箱の中を見つめた。
「パパとおなじ」
「ああ。少しずつ同じになってきた」
「サーシャ、おおきくなったら、パパみたいになる」
ミハイロの手が止まった。
「そうか」
「ひかり、つける」
「うん」
「こわれたの、なおす」
「うん」
「パパより、じょうずになる」
ミハイロは思わず笑った。
「ずいぶん大きく出たな」
台所からカテリーナが顔を出す。
「いいじゃない。頼もしいわ」
「まだネジ一本だぞ」
「あなたも最初はネジ一本だったでしょう」
「覚えてないな」
「じゃあ、サーシャのほうが一歩先ね」
オレクサンドルは父の膝へ上がった。
小さな工具箱を抱えたまま、体を預ける。
一日中動き回っていたため、眠気が一気に押し寄せたのだろう。
まぶたが重くなっていく。
「まだ、ねない」
「眠そうだぞ」
「ねない」
そう言いながら、すぐに目を閉じた。
手には小さなドライバーが握られている。
ミハイロは、息子を起こさないようそっと指を開かせた。
ドライバーを取り、工具箱へ戻す。
眠ったオレクサンドルの顔を見つめながら、小さく言った。
「この子は、いつか俺より器用になるな」
カテリーナが椅子へ座る。
「あなたより落ち着きもあるかもしれないわね」
「それは助かる」
「でも、頑固なところはあなたに似てるわ」
「誰に似てもいいさ」
ミハイロは息子の髪を撫でた。
「好きなものを見つけて、それを大事にできるなら」
カテリーナは、父の腕の中で眠る息子を見つめた。
「この子、本当に工具が好きなのね」
「ああ」
「遊んでいるだけじゃないのかしら」
「最初はそれでいい」
ミハイロは静かに答えた。
「遊びながら、もっと知りたいと思う。その気持ちが続けば、いつか本当の力になる」
窓の外では、日の残りが屋根の向こうへ沈んでいった。
*
同じ頃。
シェフチェンコ家では、オレーナが母の膝へ頭を乗せていた。
近所の集まりで歌った疲れが出たのか、帰宅してからはいつもより静かだった。
「今日はたくさん歌ったな」
ヴィクトルが言う。
オレーナは目を閉じたまま答えた。
「みんな、ぱちぱちした」
「聞いたよ」
「パパ、みてなかった」
「仕事だったからな。次は必ず見る」
「ほんとう?」
「約束する」
「オレーナ、もっとじょうずになる」
「今でも上手だ」
ナタリヤは娘の髪を撫でた。
「上手になることも大事だけれど、歌うのが楽しいと思う気持ちを忘れないでね」
「たのしい」
「それならいいわ」
「ママ、うたって」
「何の歌?」
「いつもの」
ナタリヤは小さく歌い始めた。
オレーナが生まれる前から、お腹へ向かって歌っていた子守歌。
冬が来ても、春は戻る。
夜が深くても、朝は来る。
怖がらなくていい。
あなたは一人ではない。
そのような願いが込められた歌だった。
オレーナは母の声を聞きながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
小さな手が布団の上でわずかに動く。
まるで眠りの中でも、音楽に合わせて踊っているようだった。
ヴィクトルはその様子を見つめ、静かに言った。
「この子は、いつか人前で歌うかもしれないな」
ナタリヤは娘の額へかかった髪をそっと払った。
「ええ」
「大きな舞台かもしれない」
「そうかもしれないわね」
「たくさんの人が聞くかもしれない」
「でも、まずは」
ナタリヤは娘の小さな手を包んだ。
「この子自身が、歌うことを好きでいてくれたら、それでいい」
ヴィクトルはうなずいた。
「誰かのためだけじゃなく、自分のためにも歌ってほしい」
「そうね」
「苦しい時にも、歌がこの子のそばにいてくれるように」
「きっと、そうなるわ」
夜が訪れる。
ブチャの街に、家々の灯りが一つずつともった。
ペトレンコ家では、オレクサンドルが父の腕の中で眠っている。
シェフチェンコ家では、オレーナが母の歌を聞きながら眠っている。
一人は道具で光を灯すことを覚え始めた。
一人は歌で人の心を温めることを覚え始めた。
二人はまだ出会っていない。
互いの名前も知らない。
同じ通りを歩いたこともなければ、同じ場所で空を見上げたこともない。
それでも、同じブチャの街が二人を育てていた。
古い家。
白樺の並木。
冬の雪。
春の土の匂い。
夏の夕暮れ。
家族の声。
父の手。
母の歌。
そうした一つひとつが、二人の心の中へ静かに積み重なっていく。
やがてオレクサンドルは、光を扱う者になる。
やがてオレーナは、歌を届ける者になる。
しかし今はまだ、小さな少年と少女だった。
褒められれば笑い。
転べば泣き。
眠くなれば、父や母の腕の中へ帰る。
夜空には、スピカが白く輝き、アークトゥールスが橙色の光を放っていた。
春の夫婦星と呼ばれる二つの星は、季節を越えてなお、同じ街の上から二人の成長を静かに見守っていた。
オレクサンドルの小さな工具箱は、ベッドのそばへ置かれていた。
オレーナの眠る部屋には、母の歌の余韻が残っていた。
二つの才能は、まだ誰にも未来を知られないまま、それぞれの家の中で小さく灯り始めていた。
次回予告
父ミハイロの仕事についていったオレクサンドルは、古い建物の天井に取り付けられた大きな照明器具を目にする。
いくつもの電球。
複雑につながる配線。
暗い空間を一瞬で変える光。
少年は初めて、光が人の姿や場所の雰囲気まで変えることを知る。
一方、オレーナは母ナタリヤに連れられ、小さな音楽会を訪れる。
目の前で歌う歌手。
演奏を支える楽器。
観客の拍手。
少女は初めて、自分もあの場所に立ちたいと願う。
光に魅せられる少年。
歌に導かれる少女。
まだ交わらない二人の道が、少しずつ形を持ち始める。
次回、第4話。
「光と歌の子どもたち」
才能とは、誰かに見つけられる前に、自分の中で静かに灯るもの。




