歌う少女の秋
第2話
歌う少女の秋
1996年10月3日。
ブチャの街には、静かに秋が深まっていた。
春には透き通るような若葉を揺らしていた白樺の並木も、今は黄色や淡い橙色に染まり、冷たい風が吹くたびに、細かな葉を石畳の上へ落としていた。
通りを歩く人々は、夏の軽い服装から厚手の上着へと変わり始めている。
朝晩の空気はすでに冷たく、息を吐けば、うっすらと白く見えることもあった。
遠くに連なる山々の頂には、数日前から雪が姿を見せていた。
初めは、白い絵の具を筆先で置いたような小さな雪だった。
けれど、日を追うごとにその白さは広がり、ゆっくりと山肌を下り始めていた。
やがて、あの雪は街まで降りてくる。
屋根を白く覆い、道を隠し、春まで長い眠りにつかせる。
ブチャに暮らす人々は、その冬を迎えるための準備を始めていた。
家々の軒先には薪が積まれ、窓枠の隙間には布が詰められる。市場には保存用の野菜や干した肉が並び、冬支度を急ぐ人々の声が飛び交っていた。
季節は少しずつ、確実に冬へ向かっていた。
その日の夕方。
シェフチェンコ家の小さな家では、暖炉に赤い火が入っていた。
乾いた薪が、ぱちぱちと小さな音を立てる。
揺れる炎は、古い壁紙や木製の家具を柔らかく照らし、部屋全体を夕焼けのような色に染めていた。
暖炉の近くに置かれた椅子には、ナタリヤ・シェフチェンコが腰掛けていた。
身重の体を支えるように背中へクッションを当て、両手で大きくなったお腹を包んでいる。
予定日は近い。
医師からも、いつ生まれてもおかしくないと言われていた。
隣には、夫のヴィクトル・シェフチェンコが座っていた。
仕事から帰ったばかりだったが、上着を脱ぐより先に妻の様子を確かめ、暖炉の火を強くして、足元へ毛布をかけていた。
「寒くないか?」
ヴィクトルは、何度目か分からない質問をした。
ナタリヤは思わず笑った。
「大丈夫よ。もう十分暖かいわ」
「本当に?」
「ええ」
「窓の近くは冷えるんじゃないか」
「あなたが窓の隙間を全部ふさいでくれたでしょう」
「暖炉の薪をもう一本足そうか」
「今より暖かくしたら、春になってしまうわ」
ナタリヤが穏やかに返すと、ヴィクトルはようやく少しだけ安心したように息をついた。
それでも視線は、妻の顔とお腹の間を何度も行き来している。
ナタリヤは、その様子を愛おしそうに眺めた。
「あなたのほうが落ち着かないみたい」
「そんなことはない」
「さっきから十回くらい時計を見てるわ」
「十回も見ていない」
「十二回かしら」
「数えていたのか?」
「あなたが分かりやすいから」
ヴィクトルは困ったように眉を下げた。
その時、ナタリヤのお腹が大きく動いた。
「あっ」
彼女は目を見開き、すぐに笑顔になった。
「動いたわ」
ヴィクトルは椅子から身を乗り出した。
「今か?」
「ええ。ここ」
ナタリヤが示した場所へ、ヴィクトルは恐る恐る手を当てた。
しばらくすると、手のひらの下で小さな命がもう一度動いた。
ヴィクトルの表情が変わった。
驚き。
喜び。
そして、言葉では表せないほどの愛情。
それらが一度に胸へ押し寄せたようだった。
「元気だな」
「ええ。今日は特によく動くの」
「早く外に出たいのかもしれない」
「それとも、あなたの声が大きいから驚いてるのかも」
「そんなに大きくない」
「この子には全部聞こえてるわよ」
ナタリヤは、お腹へ向かって話しかけた。
「お父さんはね、あなたに会えるのが待ちきれないの」
「それはお前も同じだろう」
「もちろん」
夫婦は顔を見合わせた。
待ち望んだ子どもだった。
無事に育ってくれるだろうか。
無事に生まれてくれるだろうか。
親になれるだろうか。
幸せにしてあげられるだろうか。
喜びの中には、いつも小さな不安が混じっていた。
それでも二人は、まだ見ぬわが子を信じていた。
裕福ではない。
大きな家もない。
未来に何が待っているかも分からない。
けれど、この子を愛することだけは、誰にも負けない。
二人はそう思っていた。
ナタリヤは暖炉の炎を見つめながら、小さく歌い始めた。
古くから伝わるウクライナの子守歌だった。
夜を怖がらなくていい。
冬が来ても、春は必ず戻ってくる。
母の腕の中で、安心して眠りなさい。
そのような願いが込められた、静かで温かな歌だった。
ヴィクトルは黙って聞いていた。
ナタリヤの声は決して大きくない。
けれど、部屋の隅々まで届き、暖炉の火と一緒に家全体を包み込むようだった。
歌い終えると、ヴィクトルが言った。
「この子は、きっと歌が好きになる」
「そうかしら」
「毎日、お腹の中で聞いてるんだ。生まれた時には、もう全部覚えてるかもしれない」
「生まれたばかりで歌い出したら、病院の人が驚くわ」
「それなら、ブチャで一番早く歌った子になる」
「あなた、本気で言ってるの?」
「半分は」
二人は笑った。
その笑い声に反応したように、お腹の子がまた動いた。
夜が深くなるにつれ、風は強くなった。
窓の外では、落ち葉が道の上を滑るように転がっている。
遠くで犬の鳴き声が聞こえ、教会の鐘が静かに時刻を告げた。
ナタリヤは早めに休むことにした。
ヴィクトルは寝室の暖かさを確かめ、湯を用意し、枕の位置を何度も直した。
「もういいわ、ヴィクトル」
「高すぎないか?」
「ちょうどいい」
「毛布は?」
「十分よ」
「水はここに置くぞ」
「ありがとう」
「何かあったら、すぐ起こしてくれ」
「あなた、隣で寝るでしょう」
「そうだった」
ナタリヤは笑いながら横になった。
ヴィクトルも灯りを小さくし、妻の隣へ入った。
けれど彼はなかなか眠れなかった。
妻の呼吸。
外の風。
暖炉の残り火がはぜる音。
そのすべてに耳を澄ませていた。
しばらくして、ナタリヤが小さく息をのんだ。
ヴィクトルはすぐに体を起こした。
「どうした?」
「少し、お腹が痛いの」
「痛い?」
「まだ分からないわ。前にも似たようなことがあったから」
「病院へ行くか?」
「落ち着いて。もう少し様子を見ましょう」
ナタリヤはそう言ったが、その後も痛みは間隔を置いて繰り返した。
最初は弱かった。
しかし、次第に痛みの波は強くなり、間隔も短くなっていく。
ナタリヤはベッドの縁につかまりながら、ゆっくりと呼吸した。
「ヴィクトル」
「うん」
「たぶん……始まったわ」
一瞬、ヴィクトルの動きが止まった。
「始まった?」
「赤ちゃんが生まれるの」
「今?」
「今すぐではないけれど、病院へ行ったほうがいいわ」
「病院」
「ええ」
「荷物」
「玄関のそばに置いてあるでしょう」
「分かった」
ヴィクトルは立ち上がった。
そして寝室を飛び出し、廊下を走り、玄関へ向かった。
数秒後。
戻ってきた彼の両腕には、なぜか大きな薪の束が抱えられていた。
ナタリヤは痛みに耐えながら、その姿を見つめた。
「ヴィクトル」
「なんだ?」
「それじゃないわ」
ヴィクトルは自分が抱えている物を見下ろした。
「……薪だ」
「ええ」
「病院に薪は要らないな」
「たぶんね」
「どうして俺は薪を持っているんだ?」
「私に聞かないで」
痛みの合間だったにもかかわらず、ナタリヤは吹き出した。
ヴィクトルは顔を赤くしながら薪を元へ戻し、今度こそ出産用の荷物を持ってきた。
「落ち着いて」
ナタリヤが言った。
「俺は落ち着いている」
「薪を持って病院へ行こうとした人の言葉とは思えないわ」
「もう薪の話は忘れてくれ」
「無理ね。一生忘れないと思う」
ヴィクトルは妻の肩へ厚いコートをかけた。
笑いながらも、その手は少し震えていた。
ナタリヤは、その手を握った。
「大丈夫」
「俺が言う言葉だ」
「今は私が言うわ」
ヴィクトルは強くうなずいた。
外へ出ると、夜の空気は肌を刺すほど冷たかった。
街灯の下には、無数の落ち葉が散っている。
風に舞い上がる葉の中を、ヴィクトルはナタリヤの体を支えながら歩いた。
一歩ずつ。
焦らず。
けれど、できるだけ急いで。
病院へ向かう道は、いつもより長く感じられた。
「痛むか?」
「ええ。でも、まだ歩けるわ」
「無理するな」
「あなたこそ、転ばないでね」
「大丈夫だ」
その直後、ヴィクトルは落ち葉に足を取られかけた。
「ヴィクトル」
「今のは転んでいない」
「危なかったわ」
「支えられる側が、支える側を心配しないでくれ」
ナタリヤは再び小さく笑った。
笑うと痛む。
それでも、夫がそばにいることで恐怖は少しだけ和らいだ。
ブチャ市立病院の入口へ到着すると、看護師たちがすぐに駆け寄ってきた。
ナタリヤは診察室へ運ばれ、ヴィクトルは廊下に残された。
「ここで待っていてください」
看護師にそう言われ、彼は椅子へ座った。
けれど、じっとしていられない。
座っては立ち上がり、数歩歩いてはまた座る。
時計を見る。
扉を見る。
窓を見る。
また時計を見る。
窓の外では、夜風に吹かれた木々が大きく揺れていた。
病院の廊下には、薬品の匂いと、古い暖房の音が漂っている。
時折、遠くから看護師たちの足音が聞こえた。
それだけだった。
時間は、信じられないほどゆっくりと流れた。
やがて、分娩室の中からナタリヤの声が聞こえた。
ヴィクトルは胸の前で手を組んだ。
何か祈らずにはいられなかった。
妻が無事でありますように。
子どもが無事でありますように。
二人とも、どうか帰ってきてくれますように。
それだけだった。
数時間後。
夜が明け始める少し前。
静まり返っていた廊下へ、突然、力強い赤ん坊の泣き声が響いた。
小さな体から出ているとは思えないほど、まっすぐな声だった。
ヴィクトルは椅子から立ち上がった。
心臓が大きく鳴る。
その声を聞いた瞬間、彼はすべてを理解した。
生まれた。
自分たちの子どもが、この世界へ来た。
扉が開き、看護師が姿を見せた。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「おめでとうございます」
ヴィクトルは息を止めるように看護師を見た。
「奥さんも赤ちゃんも無事です」
「本当ですか」
「ええ。元気な女の子ですよ」
「女の子」
ヴィクトルは、その言葉を何度も胸の中で繰り返した。
女の子。
娘。
自分たちの娘。
急に全身から力が抜け、彼は近くの椅子へ腰を下ろした。
両手で顔を覆う。
泣くつもりはなかった。
けれど涙が止まらなかった。
「ありがとうございます」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
医師へ。
看護師へ。
妻へ。
生まれてきた娘へ。
そして、この瞬間を与えてくれたすべてのものへ。
しばらくして、ヴィクトルは病室へ案内された。
扉を開けると、窓の外には淡い朝の光が差し始めていた。
ナタリヤはベッドの上で、白い布に包まれた赤ん坊を抱いていた。
顔には深い疲れが残っている。
髪も乱れ、唇にも血の気が少ない。
それでも、彼女の目はこれまでに見たことがないほど穏やかで、幸福に満ちていた。
「ヴィクトル」
ナタリヤが小さく呼んだ。
ヴィクトルは、壊れ物へ近づくように慎重に歩いた。
「大丈夫か」
「ええ」
「本当に?」
「あなたは、そればかりね」
「だって」
「大丈夫よ。見て」
ナタリヤは腕の中の赤ん坊を少しだけ見せた。
「私たちの娘よ」
ヴィクトルは息をのんだ。
小さい。
あまりにも小さい。
赤みを帯びた頬。
固く閉じられたまぶた。
小さな鼻。
細い指。
母親の胸の中で、赤ん坊は小さく呼吸をしていた。
胸が上下するたび、ヴィクトルは安心と不安を同時に感じた。
生きている。
ここにいる。
それが奇跡のように思えた。
「触ってもいいのか」
ヴィクトルは尋ねた。
ナタリヤは微笑んだ。
「あなたの娘よ」
ヴィクトルは人差し指を差し出した。
赤ん坊の手の近くへ、そっと触れる。
すると、小さな指が彼の指を握った。
ほんのわずかな力だった。
それでもヴィクトルには、強く引き止められたように感じられた。
行かないで。
そばにいて。
そう言われているようだった。
「握った」
「ええ」
「俺の指を握った」
「あなたのことが分かるのかもしれないわ」
「もう?」
「声はずっと聞いていたでしょうから」
ヴィクトルは娘の小さな手を見つめたまま、また涙をこぼした。
ナタリヤは、それを笑わなかった。
彼女の目にも涙が浮かんでいた。
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ娘を見つめていた。
どれだけ見ても見飽きなかった。
赤ん坊が少し口を動かす。
眉を寄せる。
息を吐く。
それだけで二人は顔を見合わせた。
「今、笑ったか?」
「まだ笑ってないわ」
「でも口元が動いた」
「あくびじゃない?」
「いや、きっと笑った」
「そういうことにしておきましょう」
ナタリヤは、娘の頬を指先で優しくなぞった。
「名前」
「ああ」
「決めていたでしょう?」
ヴィクトルはうなずいた。
二人は、まだ妊娠が分かったばかりの頃から何度も名前を考えていた。
男の子だった場合。
女の子だった場合。
紙に書いては消し、呼んでみては顔を見合わせた。
最後に二人の心へ残った名前があった。
「オレーナ」
ヴィクトルが言った。
ナタリヤも娘へ向かって、同じ名前を口にした。
「オレーナ」
二人の声が病室の中で重なった。
「オレーナ・シェフチェンコ」
その瞬間、赤ん坊が小さく身じろぎした。
閉じていた口が少し開き、かすかな声を上げる。
ナタリヤは目を細めた。
「気に入ったみたい」
「自分の名前だと分かったのかもしれない」
「あなた、すぐそういうことを言うのね」
「でも、返事をした」
ヴィクトルは娘の顔を見つめながら、ゆっくりと言った。
「オレーナ。俺たちのところへ来てくれて、ありがとう」
ナタリヤは娘の額へ口づけた。
「あなたを待っていたのよ」
病室の窓から朝の光が差し込んだ。
その光は、白い布に包まれた赤ん坊の頬を優しく照らした。
秋の冷たい朝だった。
けれど、その部屋だけは春のように暖かかった。
ナタリヤは娘を抱いたまま、かすかな声で子守歌を歌い始めた。
出産前まで何度もお腹へ聞かせていた歌だった。
オレーナは泣かずに、その声を聞いていた。
母の声を覚えているかのように。
ヴィクトルはベッドのそばへ椅子を寄せ、妻と娘を見つめた。
「やっぱり歌が好きになる」
「まだ分からないわ」
「今、歌を聞いて静かになった」
「赤ちゃんは母親の声を聞くと安心するものよ」
「それなら、なおさらだ」
ナタリヤは微笑んだ。
「この子が歌を好きになっても、ならなくてもいいわ」
「そうだな」
「自分の好きなものを見つけてほしい」
「うん」
「でも」
ナタリヤは娘の頬を見つめた。
「もし誰かが暗い場所にいる時、この子がその人のそばにいられるような人になってくれたら嬉しい」
ヴィクトルは静かにうなずいた。
「人の心を照らせる子に」
「ええ」
「歌でも、言葉でも、ただ隣に座るだけでも」
「そうね」
二人は、まだ何も知らない娘の未来を思い描いた。
この街を歩く姿。
落ち葉を踏んで遊ぶ姿。
雪の中で転ぶ姿。
学校へ通う姿。
笑う姿。
泣く姿。
誰かを好きになる姿。
いつか自分たちのもとを離れていく姿。
そのすべてが、今はまだ遠い。
けれど確かに、この小さな命の中に続いている。
数日後。
オレーナは、両親とともにシェフチェンコ家へ帰ってきた。
ヴィクトルは玄関を開ける前に、何度も家の中を確認していた。
暖炉の火は十分か。
ベッドは整っているか。
窓から冷たい風が入らないか。
湯は用意できているか。
揺りかごの毛布はずれていないか。
「あなた、昨日から二十回くらい確認してるわ」
ナタリヤが言った。
「赤ん坊を迎えるんだ。念には念を入れないと」
「病院へ薪を持っていこうとした人とは思えないわね」
「その話はもう忘れてくれ」
「オレーナが大きくなったら話してあげる」
「やめてくれ」
「お父さんは、あなたが生まれる時、薪を抱えて病院へ行こうとしたのよって」
「父親としての威厳がなくなる」
「最初からそんなにないでしょう」
ナタリヤが笑う。
ヴィクトルも、結局は笑った。
家の中へ入ると、暖炉の火が赤く燃えていた。
揺りかごは部屋の中央に置かれている。
白い布。
小さな枕。
ナタリヤが編んだ毛糸の飾り。
ヴィクトルが削って作った木製の小鳥。
二人が何か月もかけて準備した、娘のための場所だった。
「ここが、あなたの家よ」
ナタリヤはオレーナを抱きながら、ゆっくりと部屋を見せた。
「ここで眠って、ここで泣いて、ここで笑うの」
ヴィクトルが横から言う。
「できれば夜は長く眠ってくれると助かる」
「生まれたばかりの子に、無理なお願いをしないの」
「一応、希望は伝えておこうと思って」
オレーナは父の願いを聞き入れる様子もなく、その日の夜から何度も大きな声で泣いた。
最初の泣き声。
ヴィクトルは飛び起きた。
「どうした!」
「赤ちゃんは泣くものよ」
ナタリヤは眠そうに言いながら、娘を抱き上げた。
「お腹がすいたのかしら」
しばらくして眠ったと思えば、また泣いた。
ヴィクトルは再び起きる。
「今度は何だ?」
「おむつかもしれないわ」
「分かった。俺が替える」
「できるの?」
「父親だからな」
数分後。
布のおむつを前に、ヴィクトルの動きは完全に止まった。
「これは、どちらが前だ?」
「あなた、さっき自信満々だったでしょう」
「構造を確認しているんだ」
「機械じゃないのよ」
「分かっている」
何度もやり直し、ようやくおむつを替え終える。
ところが左右の位置がずれていた。
ナタリヤは笑いをこらえながら直した。
「難しいな」
「これから毎日練習できるわ」
「その言い方は、ありがたいような怖いような感じがする」
寝不足の日々が始まった。
それでも、二人は不思議なほど幸福だった。
眠い。
疲れる。
何をしても泣き止まない時もある。
抱き方が悪いのではないか。
体調が悪いのではないか。
寒いのではないか。
暑いのではないか。
小さな変化の一つひとつに、二人は心を揺らした。
けれど、オレーナが眠りにつき、穏やかな顔を見せると、それまでの疲れがすべて消えていくように感じた。
ヴィクトルは仕事から帰ると、まず揺りかごをのぞき込んだ。
「今日はどうだった?」
「朝はよく寝ていたわ。昼からはずっと元気に泣いてた」
「元気ならいい」
「あなたが帰ってきたら、少し静かになったわね」
「俺の声が分かるんだ」
「大きいからでしょう」
「それでも分かっていることには変わりない」
ヴィクトルは娘を抱こうとした。
まだ慣れておらず、肩や腕に力が入っている。
「もっと力を抜いて」
「落としそうで怖い」
「しっかり支えれば大丈夫」
「これでいいか?」
「もう少し頭を高くして」
「こう?」
「そう」
オレーナは父の腕の中で少し顔を動かした。
やがて、胸元へ頬を寄せて静かになった。
ヴィクトルは身動きできなくなった。
「眠った」
「ええ」
「俺の腕で眠ったぞ」
「大声を出したら起きるわ」
「分かった」
それからヴィクトルは、小声でしか話さなくなった。
腕が疲れても、立ち上がれない。
鼻がかゆくても、かけない。
少しでも動けば起こしてしまいそうだった。
「揺りかごへ戻してもいいのよ」
ナタリヤが言った。
「いや、もう少しこのままでいる」
「腕が震えてるわ」
「鍛えているんだ」
「無理しないで」
「今しかできないかもしれない」
その言葉に、ナタリヤは何も言わなかった。
ただ、父の腕の中で眠る娘と、その娘を見つめる夫の姿を静かに眺めた。
オレーナが生まれてから、家の中の音が変わった。
以前は、暖炉の火の音と、食器の触れ合う音と、夫婦の会話だけだった。
今はそこへ、赤ん坊の泣き声が加わった。
小さなくしゃみ。
寝息。
口を動かす音。
布がこすれる音。
どれも些細なものだった。
けれどシェフチェンコ家にとっては、何よりも大切な音になった。
ナタリヤは毎日、揺りかごのそばで歌った。
昔から知っている子守歌。
母から教わった歌。
自分で言葉を変えた短い歌。
秋の白樺を歌う歌。
遠い山の雪を歌う歌。
暖炉の火を歌う歌。
オレーナの名前を何度も呼ぶ歌。
歌声が聞こえると、オレーナは泣き止むことがあった。
時には、小さな口から「あう」と声を出した。
ナタリヤは、そのたびに目を輝かせた。
「今、歌ったわ」
「声を出しただけじゃないか?」
「いいえ。私に合わせたのよ」
「俺と同じことを言っているな」
「何のこと?」
「病院で俺が笑ったと言った時、あくびだと否定しただろう」
「それとこれは違うわ」
「どう違う?」
「母親には分かるの」
「便利な言葉だ」
二人は笑った。
オレーナは、両親の笑い声に驚いたように目を開けた。
そして、また小さな声を上げた。
その声に、二人はさらに笑った。
秋は、少しずつ終わりへ近づいていた。
白樺の葉はほとんど落ち、遠くの山だけでなく、ブチャの空にも白い雪雲が流れ始めていた。
ある朝。
窓の外に、今年初めての細かな雪が舞った。
ヴィクトルが最初に気づいた。
「ナタリヤ、雪だ」
ナタリヤは眠っていたオレーナを抱き上げ、窓辺へ連れていった。
外では、小さな雪が音もなく降っている。
屋根。
道。
木の枝。
まだ積もるほどではない。
けれど冬が来たことを告げるには十分だった。
「見える?」
ナタリヤは娘へ囁いた。
「オレーナ。あれが雪よ」
赤ん坊は、まだ景色の意味も分からない。
母の声に反応して、わずかに顔を動かしただけだった。
「いつか、あなたもあの道を歩くの」
ナタリヤは続けた。
「秋には落ち葉を踏んで、冬には雪で遊んで、春には花を摘んで、夏には風の中を走るの」
ヴィクトルは妻と娘の隣に立った。
「転んだら、俺が起こす」
「でも、自分で立ち上がることも覚えないと」
「その時は、立ち上がるまでそばにいる」
「そうね」
「泣いた時も」
「ええ」
「笑った時も」
「もちろん」
二人は、雪の向こうにある娘の未来を見つめるように、窓の外を眺めた。
広い家ではなかった。
豊かな暮らしでもなかった。
何の不安もない未来が約束されていたわけでもない。
それでも、シェフチェンコ家には確かな幸福があった。
暖炉の火。
母の歌。
父の大きな手。
小さな揺りかご。
そして、その中で眠るオレーナ。
家族は、それだけで一つの世界を持っていた。
同じブチャの街の別の場所では、春に生まれた少年オレクサンドルも、家族の愛に包まれながら少しずつ育っていた。
少年はまだ、秋に生まれた少女を知らない。
少女もまた、春に生まれた少年を知らない。
けれど二人は、同じ空の下で眠っていた。
春の夜に生まれた少年。
秋の歌の中で生まれた少女。
二つの命は、まだ遠く離れている。
それでも同じ街の風を感じ、同じ街の雪を待ち、同じ季節の中を未来へ向かっていた。
ブチャには、やがて本格的な冬が訪れる。
雪は山から街へ下り、屋根を白く染め、道路を覆い、子どもたちの小さな足跡を残していく。
その雪の下で、二人の命は育っていく。
まだ戦争を知らずに。
まだ別れを知らずに。
ただ家族に愛されながら。
そしてオレーナは、母の歌を聞きながら眠っていた。
いつかその歌声が、多くの人の心へ届く日が来ることなど、誰もまだ知らなかった。
次回予告
冬のブチャ。
雪に覆われた街の一角で、幼いオレクサンドルは父ミハイロ・ペトレンコの仕事を間近で見つめる。
壊れたラジオ。
光を失った懐中電灯。
古い工具。
小さなネジ。
機械いじりが大好きな少年は、父の手が壊れた物へ再び命を吹き込む瞬間に心を奪われていく。
そして父から渡される、小さな工具箱。
次回、第3話。
「小さな工具箱」
少年はまだ知らない。
光を直すその手が、いつか大切な人の舞台を照らすことを。




