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光は息をしている  作者: リンダ


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2/22

白樺の街の春

第一話


「白樺の街の春」


 1995年5月20日。


 ウクライナ、キーウ州ブチャ。


 その年の春は、少し遅れてやって来た。


 長く冷たい季節がようやく遠ざかり、街のあちこちで花々が一斉に咲き始めていた。白樺の並木は若葉をまとい、庭先には黄色や白の小さな花が揺れ、道端の草も、まるで待ちわびていた時間を取り戻すように光を浴びていた。


 空は、どこまでも澄んでいた。


 深く、青く、雲ひとつない。


 その青空の下で、ブチャの街は静かに息をしていた。


 ソビエト連邦が崩壊し、ウクライナが独立国家としての道を歩み始めてから、まだ数年しか経っていない。


 人々の暮らしは、決して豊かではなかった。


 店に並ぶ品物は限られ、古い建物にはまだ過去の影が残り、誰もが新しい時代の中で手探りを続けていた。


 それでも、街には希望があった。


 遠くの畑では、収穫へ向けて育つ小麦が風に揺れていた。

 金色になる前の若い穂が、春の光を受けて波のように動く。


 その風景を見ていると、人々は思えた。


 今年も、実りは来る。

 今年も、パンを焼ける。

 今年も、家族で食卓を囲める。


 そんな当たり前の願いが、何より大切だった。


 夜になると、ブチャの空には春の星座が広がった。


 街の灯りは今ほど強くなく、晴れた夜には星がよく見えた。


 南の空には、乙女座のスピカが白く澄んだ光を放つ。


 その近くで、牛飼い座のアークトゥールスが、あたたかなオレンジ色に輝いていた。


 白いスピカ。

 橙のアークトゥールス。


 二つの星は、夜空で寄り添うように見えた。


 人々はそれを、春の夫婦星のようだと語った。


 白い光と、あたたかな光。

 違う色で輝きながら、同じ春の空を彩る二つの星。


 その星の下で、一つの命が生まれようとしていた。



 ブチャ市立病院。


 古い建物だった。


 壁には少しひびがあり、廊下の照明は時々頼りなく瞬いた。けれど、そこには確かに命を迎える場所のぬくもりがあった。


 分娩室の外で、若い男が落ち着きなく歩き回っていた。


 ミハイロ・ペトレンコ。


 額には汗が浮かび、何度も両手をこすり合わせていた。


「大丈夫だ……大丈夫だ……」


 そう自分に言い聞かせながらも、声は震えている。


 その奥の部屋では、妻のカテリーナ・ペトレンコが、命をかけて新しい命を迎えようとしていた。


 やがて、分娩室の中から赤ん坊の泣き声が響いた。


 ミハイロは足を止めた。


 その声は、小さかった。


 けれど、力強かった。


 まるで春の空に向かって、自分がここにいると叫んでいるようだった。


 看護師が扉を開ける。


「男の子です」


 その一言を聞いた瞬間、ミハイロの顔がくしゃりと歪んだ。


 泣くつもりなどなかった。


 父親になるのだから、しっかりしなければと思っていた。


 けれど、涙は勝手にあふれた。


 病室へ入ると、カテリーナが疲れ切った顔で、それでも満ち足りた表情を浮かべていた。


 腕の中には、小さな男の子。


 赤い顔で、ぎゅっと拳を握り、まだ不満そうに泣いている。


 ミハイロはそっと近づいた。


「カテリーナ……」


 カテリーナは微笑んだ。


「見て。あなたに似て、よく泣くわ」


「俺はそんなに泣かない」


「今、泣いてるじゃない」


 ミハイロは何も言い返せなかった。


 カテリーナは赤ん坊を少し持ち上げる。


「名前、決めていたでしょう?」


 ミハイロは深く息を吸った。


 窓の外には、春の青空が広がっている。


 その青の下で、彼は息子の名を呼んだ。


「オレクサンドル」


 赤ん坊が、少しだけ泣き止んだ。


「オレクサンドル・ペトレンコ」


 カテリーナは静かにうなずいた。


「強い子になってほしい?」


「強いだけじゃない」


 ミハイロは、赤ん坊の小さな手に指を差し出した。


 オレクサンドルの手が、その指をきゅっと握る。


 あまりにも小さな力。


 けれど、その力にミハイロは胸を打たれた。


「優しい子になってほしい。誰かを守れる強さと、誰かの痛みに気づける優しさを持った子に」


 カテリーナは目を細めた。


「きっとなるわ」


 春の光が病室に差し込む。


 古いカーテンを透かして、やわらかく、あたたかく。


 その光の中で、オレクサンドルはまた泣き出した。


 命が始まった音だった。



 その夜。


 ミハイロは病院の外に出て、空を見上げた。


 昼間の青空は消え、ブチャの上には深い夜が降りていた。


 春の星座が、静かに輝いている。


 白いスピカ。


 オレンジ色のアークトゥールス。


 二つの星は、まるで寄り添う夫婦のように見えた。


 ミハイロは思わず笑った。


「お前も、いつか誰かと出会うのかな」


 まだ生まれたばかりの息子に向けて、心の中で語りかける。


「その時は、大事にしろよ。人を愛するってのは、簡単じゃない。でも、人生で一番大事なことかもしれないからな」


 風が吹いた。


 遠くの小麦畑が、夜の闇の中で静かに揺れている。


 ブチャは平和だった。


 貧しさもあった。

 不安もあった。

 新しい国としての迷いもあった。


 けれど、銃声はなかった。


 爆撃の音もなかった。


 子どもが生まれた夜に聞こえるのは、風と、星と、遠くの犬の鳴き声だけだった。


 ミハイロは両手をポケットに入れ、もう一度空を見上げた。


「オレクサンドル」


 その名を、ゆっくりと口にする。


 春の夫婦星が輝く夜。


 白樺の街に、一人の少年が生まれた。


 この時、まだ誰も知らない。


 この穏やかな街に、いつか戦車が入ってくることを。


 この青空の下で、いつか人々が逃げ惑うことを。


 そして、この日に生まれた少年が、やがて父となり、愛する妻と娘を守るために、想像を絶する運命へ踏み込んでいくことを。


 けれど今だけは。


 この夜だけは。


 世界は静かだった。


 星は美しく、風はやさしく、ブチャの街は新しい命を抱きしめていた。



次回予告


 一年と四か月後。


 秋のブチャに、もう一つの命が生まれる。


 母の歌声に包まれ、父の大きな腕に抱かれた女の子。


 彼女の名は、オレーナ・シェフチェンコ。


 まだ出会っていない二つの光が、同じ街で育ち始める。


 次回、

 第2話

 「歌う少女の秋」


 春に生まれた少年と、秋に生まれた少女。

 その運命は、静かに近づいていく。

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