声楽科の留学生
第48話
「声楽科の留学生」
東京での生活が始まって、ソフィーアは毎日必死だった。
朝は世田谷の家を出て、電車を乗り継ぎ、文京区の音楽大学へ向かう。
発声練習。
日本語の発音。
歌曲研究。
舞台表現。
合唱。
伴奏合わせ。
最初は、授業についていくだけで精いっぱいだった。
けれど、彼女の声は少しずつ東京の教室に響き始めた。
遠い国から来た声。
戦争の記憶を抱えた声。
それでも、誰かを包み込もうとする声。
同級生たちは、最初こそ遠慮がちだったが、次第に彼女の周りへ集まるようになった。
「ソフィーア、この旋律にウクライナ語の響き入れられる?」
「できると思う」
「じゃあ、私が日本語詞を書くから、一緒に合わせてみよう」
「いいね。ここ、少し和音を変えたらもっと広がるかも」
いつしか彼女は、音大の仲間たちと作詞作曲をし、アレンジにも参加するようになっていた。
声楽科の留学生。
それだけではない。
音で人と人をつなぐ存在になり始めていた。
⸻
週末の夜。
世田谷の山田家では、ウクライナとのビデオ通話がつながっていた。
画面の向こうには、オレーナの笑顔。
その隣に、なぜか半分だけ映っているオレクサンドルの肩。
「ソフィーア、元気?」
「元気。大学、忙しいけど楽しいよ」
山田オレナが横から言う。
「日本語もずいぶん上手になりましたよ」
山田尚幸も頷く。
「この前なんて、駅員さんに普通に道を聞いてました」
ソフィーアは照れた。
「まだ間違えるよ」
オレーナは笑った。
「でも顔つきが変わったわ。東京で頑張ってる顔ね」
「ママも元気?」
「元気よ。ただね」
オレーナは少し悪戯っぽく笑った。
「お父さんが、あなたがいなくなって寂しがってる」
画面の端が揺れた。
「ちょっと、オレーナ」
低い声。
ソフィーアが笑う。
「お父さん?」
すると、画面の端からオレクサンドルが、にゅるっと顔を出した。
まるでカメラの隙間から生えてきたみたいに。
「寂しがってなどいない」
山田尚幸が吹き出した。
山田オレナも口元を押さえる。
ソフィーアは大笑いした。
「お父さん、映り方が変!」
オレーナも笑いながら言う。
「ほら、寂しがってるから出てきた」
「違う。通信状態を確認していただけだ」
「顔で?」
「父親の顔認証だ」
ソフィーアは涙が出るほど笑った。
「お父さん、日本語の冗談覚えた?」
「少しな」
山田尚幸が言った。
「かなり上達してますよ、そのボケ」
オレクサンドルは真面目に頷く。
「東京には娘だけでなく、父のギャグセンスも留学している」
「それは帰国させた方がいいかもしれない」
山田オレナの一言で、全員が笑った。
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そんな時間が、ソフィーアを支えていた。
東京の生活は楽しい。
けれど、寂しくないわけではない。
夜、ふとキーウの空を思い出すこともある。
父が灯した光。
母が歌った歌。
病院で見た涙。
戦争で失った祖父母。
それらは、彼女の中から消えない。
でも、消えなくていいのだと、東京で少しずつ分かってきた。
記憶は重荷であると同時に、歌の芯にもなる。
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一年が経つ頃。
ソフィーアの日本語は、かなり上達していた。
日常会話なら、ほとんど困らない。
友人たちとも普通に話せるようになった。
「ソフィーア、今日のアレンジどうする?」
「サビ前で少し静かにして、最後に一気に広げたい」
「おお、日本語で音楽理論言えるようになってる」
「まだ難しい言葉は調べるよ」
「でもすごいよ」
ソフィーアは笑った。
「みんなが教えてくれたから」
彼女はもう、ただ遠い国から来た留学生ではなかった。
仲間と一緒に曲を作り、声を重ね、時には日本語詞にも挑戦する学生になっていた。
そして、その成長を、遠く福岡からまだ知らずに近づいてくる双子がいた。
光子と優子。
音大のオープンキャンパスで出会うまで、もうすぐだった。
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次回予告
東京での一年を重ねたソフィーア。
日本語にも慣れ、音大の仲間たちと新しい曲作りに挑戦していく。
そんなある日、福岡から二人の少女がオープンキャンパスにやって来る。
幼い頃、画面越しにソフィーアの歌を聴いた双子。
まだ互いにその記憶を知らないまま、三人の歌声が同じ教室で響く。
次回、
第49話
「オープンキャンパスの出会い」
遠い国の歌と、博多の笑い。
その二つが出会う時、新しい音が生まれる。




