世田谷の朝
第47話
「世田谷の朝」
まず覚えるべきは、学校までの道だった。
世田谷の家から、文京区にある音楽大学まで。
近くの駅から東急世田谷線に乗り、三軒茶屋へ。
そこからさらに電車を乗り継ぎ、都心へ向かう。
人の流れ、改札、案内表示、乗り換え。
キーウの街とは違う速さで、東京は動いていた。
「ここで降りるのよ」
隣で教えてくれるのは、世田谷のおばちゃん。
名前は、山田オレナ。
ウクライナ出身で、日本人の夫と結婚し、今は世田谷で暮らしている。
夫は、山田尚幸。
落ち着いた話し方の男性で、ソフィーアを見るたびに優しく笑った。
「東京の電車は、最初は迷路みたいに見えるよ。でも慣れれば大丈夫」
ソフィーアは路線図を見上げた。
「……これは、楽譜より難しいです」
オレナが笑った。
「最初はみんなそう言うの」
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音楽大学の門をくぐった時、ソフィーアは息をのんだ。
ここで学ぶ。
声楽科で、四年間。
母オレーナから受け継いだ歌。
祖母ナタリヤから続く歌。
戦争の中で見つけた歌う理由。
それを、この東京で磨いていく。
胸が高鳴った。
同時に、不安もあった。
言葉。
授業。
発音。
生活。
友達。
けれど、彼女は小さくつぶやいた。
「大丈夫。歌は、国境を越える」
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帰り道。
三軒茶屋へ戻る電車の中で、山田尚幸が言った。
「今日はよく歩いたね」
「はい。足、少し疲れました」
オレナが微笑む。
「でも、乗り換えはだいぶ覚えたわね」
ソフィーアは少し自信なさそうに言った。
「三軒茶屋、乗り換え。次、地下鉄。文京区。大学……たぶん」
尚幸が笑う。
「たぶん、で最初は十分」
ソフィーアも笑った。
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日本語も少しずつ覚えていった。
「おはようございます」
「ありがとうございます」
「すみません」
「大丈夫です」
「乗り換え」
「声楽科」
「発声練習」
オレナは毎晩、簡単な日本語を教えてくれた。
尚幸は、駅の名前や買い物の言葉を紙に書いてくれた。
「これは?」
「定期券」
「ていきけん」
「そう。毎日学校へ行くなら大事」
「定期券、大事」
「うん。かなり大事」
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ある夜。
ソフィーアは世田谷の家の窓から、東京の夜を見ていた。
キーウとは違う光。
ブチャとは違う空。
けれど、不思議と寂しさだけではなかった。
この街にも、誰かの暮らしがある。
誰かの朝がある。
誰かの歌がある。
山田オレナが、そっと声をかけた。
「不安?」
ソフィーアは少し考えた。
「はい。でも、楽しみもあります」
「それでいいのよ。不安があるから、丁寧に歩ける」
ソフィーアはうなずいた。
「私、ここで学びます。ちゃんと」
尚幸が台所から言った。
「まずは明日、ひとりで大学まで行けるかだね」
ソフィーアは一瞬固まった。
「ひとり……」
オレナが笑う。
「大丈夫。途中まで一緒に行くから」
「お願いします。東京、強いです」
尚幸が吹き出した。
「東京に負けないように、ゆっくり慣れよう」
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こうして、ソフィーアの東京での四年間が始まった。
まだ、福岡の双子とは出会っていない。
けれど、その日へ向かって、彼女の声は少しずつ磨かれていく。
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次回予告
東京の音大で学び始めたソフィーア。
発声、発音、日本語、舞台表現。
慣れない環境に戸惑いながらも、彼女の歌声は少しずつ周囲を驚かせていく。
そして一年後、福岡からやって来る双子が、オープンキャンパスで彼女の歌を耳にする。
次回、
第48話
「声楽科の留学生」
遠い国から来た声は、東京の教室で新しい響きを得る。




