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光は息をしている  作者: リンダ


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退院の日

 第38話

「退院の日」


 退院の日。


 病院の玄関を出た瞬間、オレクサンドルは空を見上げた。


 青空だった。


 けれど、その青さを心から信じることは、まだできなかった。


 遠くで大きな音がすれば、体がこわばる。

 車の急ブレーキの音に、息が詰まる。

 夜になれば、まだ悪夢が戻ってくる。


 病院を出ることは、終わりではなかった。


 もう一度、生きる場所へ戻ることだった。


 家に戻ってから、オレクサンドルは少しずつ普段の生活を取り戻そうとした。


 朝、起きる。


 顔を洗う。


 ソフィーアの髪を整える。


 壊れた棚のネジを締め直す。


 オレーナが歌の練習をする横で、照明の角度を見てしまう。


 そんな小さな日常が、彼を少しずつ現実へ戻していった。


 だが、戦争は変わらず続いていた。


 ロシアからのミサイル攻撃。

 ドローン攻撃。

 停電。

 警報。

 避難。


 家にいても、安心は完全には戻らなかった。


 ある夜。


 空襲警報が鳴った。


 家族三人は、慣れてしまった手順で安全な場所へ移動した。


 ソフィーアは、毛布を抱きしめていた。


 しばらく黙っていたが、ぽつりと言った。


「ママ」


「なあに?」


「なんで、私たちはこんなに攻撃されないといけないの?」


 オレーナは言葉を失った。


 ソフィーアは続けた。


「私たちが何か悪いことしたから、ロシアの人が怒ってるの?」


 その問いは、幼すぎるほどまっすぐだった。


 だからこそ、残酷だった。


 オレクサンドルは拳を握りしめた。


 怒りが込み上げる。


 けれど、娘の前で憎しみだけを渡すわけにはいかなかった。


 その時、たまたま家を訪れていたオレーナの祖父母が、静かにソフィーアのそばへ座った。


 オレーナの祖父、ミハイロ・シェフチェンコ。

 祖母、リュドミラ・シェフチェンコ。


 二人もまた、戦争で多くを失っていた。


 娘夫婦、ヴィクトルとナタリヤを失った痛みは、今も消えていない。


 それでも、幼いひ孫に向ける声は優しかった。


 リュドミラが、ソフィーアの小さな手を包む。


「ソフィーア」


「なに?」


「あなたは、何も悪いことしていないよ」


 ソフィーアは祖母を見つめた。


「ほんと?」


「ほんとよ」


 ミハイロもゆっくり言った。


「子どもが爆弾を落とされる理由なんて、どこにもない。家で眠っている人が、攻撃されていい理由なんてない」


 ソフィーアは小さくうなずいた。


「じゃあ、なんで?」


 大人たちは、答えに詰まった。


 完全な答えなどなかった。


 だが、リュドミラは言葉を選んだ。


「世の中には、自分のものではないものまで欲しがる人がいるの。人の家や、街や、国まで、自分のものにしたがる人がいる」


 ミハイロは続けた。


「でも、それはあなたのせいじゃない。あなたのお父さんやお母さんのせいでもない」


 オレクサンドルは、目を伏せた。


 カテリーナがかつて言った言葉を思い出していた。


 どれだけ強欲なのか。


 その問いは、今も答えを持たないままだった。


 ソフィーアは、しばらく黙っていた。


 そして、毛布をぎゅっと抱きしめた。


「じゃあ、私は歌う」


 オレーナが顔を上げる。


「ソフィーア?」


「私は、苦しんでる人に届く歌を頑張る」


 その声は小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「爆弾は止められないかもしれないけど、泣いてる人がちょっとだけ楽になる歌を歌いたい」


 リュドミラは泣き出した。


 ミハイロも、目元を押さえた。


 オレーナは娘を抱きしめた。


「あなたの歌は、きっと届くわ」


 オレクサンドルは、少し離れた場所でその光景を見ていた。


 自分は、怒りに飲まれかけていた。


 だが娘は、歌を選んだ。


 苦しみを知っても、誰かを苦しめる方ではなく、支える方を選ぼうとしている。


 そのことが、彼の胸を深く打った。


 警報は、しばらくして解除された。


 家の外には、冷たい夜が広がっていた。


 オレクサンドルは、窓のそばに立つ。


 遠くの空が、わずかに赤く見えた。


 まだ戦争は終わっていない。


 まだ攻撃は続いている。


 まだ失われるものがある。


 それでも、彼は振り返った。


 オレーナがいる。


 ソフィーアがいる。


 ミハイロとリュドミラがいる。


 歌がある。


 自分の手も、まだ動く。


 完全ではない。


 でも、動く。


 彼は小さくつぶやいた。


「まだ、できることがある」


 オレーナが聞き返す。


「何?」


「明かりを直す。ソフィーアの歌が届く場所を作る」


 ソフィーアがぱっと顔を上げた。


「お父さんが光?」


 オレクサンドルは、久しぶりにやわらかく笑った。


「ああ。お父さんが光をつける」


 ソフィーアは胸を張った。


「私が歌う」


 オレーナが微笑む。


「ママは教える」


 リュドミラが涙声で言った。


「じゃあ、私たちは聞くわ」


 ミハイロも静かにうなずいた。


「そして、覚えておく」


 退院の日は、終わりではなかった。


 むしろ、始まりだった。


 壊れた体で。

 傷ついた心で。

 失った家族の記憶を抱えて。


 それでも、もう一度生きる場所へ戻る。


 ソフィーアの小さな決意は、その家族に新しい道を示していた。


 歌を奪わせない。


 光を消させない。


 そして、子どもに「自分が悪かったのか」と思わせる世界を、少しでも変えていく。


 次回予告


 ソフィーアは、苦しむ人に届く歌を歌いたいと願い始める。


 オレーナは娘の才能を本格的に伸ばすため、歌とダンスの練習を続ける。


 オレクサンドルは、戦争で壊された学校や避難施設の電気設備を直す活動に少しずつ関わり始める。


 そんな中、家族の小さな活動は、地域の人々を支える輪へと広がっていく。


 次回、

 第39話

「届く歌」


 小さな声でも、必要としている人がいるなら、それは希望になる。

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