小さな音楽会
第37話
「小さな音楽会」
オレクサンドルが退院するまでに、一年がかかった。
体の傷は、少しずつ塞がった。
手も、完全ではないが、工具を握れるところまで戻った。
けれど心の傷は、目に見えないぶん、もっと深かった。
夜になると悪夢にうなされる。
突然の物音に肩が跳ねる。
廊下で誰かが大きな声を出すだけで、呼吸が乱れる。
オレーナはそのたびに、そっと隣に座った。
ソフィーアも、小さな手で父の手を握った。
「お父さん、こわい?」
オレクサンドルは、無理に笑わなかった。
「ああ。少し怖い」
「じゃあ、歌うね」
ソフィーアはそう言って、覚えたばかりの歌を小さく口ずさんだ。
⸻
その頃、病院の待合室で、小さな音楽会を開く計画が持ち上がった。
避難してきた子どもたち。
負傷した兵士。
家族を待つ人々。
退院の日を迎える人。
もう帰る家がなくなった人。
そんな人たちのために、ほんの短い時間でも、歌を届けようというものだった。
主役は、ソフィーア。
オレーナが毎日レッスンをした。
「息を吸って」
「すー」
「言葉を大事に」
「ことばをだいじに」
「踊る時は、転んでもいい。でも、最後まで音を聞いて」
「ころんでも、たつ」
オレーナは微笑んだ。
「そう。転んでも、立つ」
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音楽会当日。
待合室には、古い椅子が並べられた。
照明は明るすぎず、やわらかく。
オレクサンドルが、退院前の最後の仕事のように、病院スタッフへ光の角度を指示した。
「少し左です」
「このくらい?」
「はい。ソフィーアの顔に影が出ないように」
看護師が笑った。
「すっかり舞台監督ですね」
オレクサンドルは少し照れた。
「昔、照明をやっていたので」
ソフィーアは、そんな父を見て胸を張った。
「お父さんが光。ママが歌。私は歌とダンス」
オレーナが笑う。
「三人でステージね」
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やがて、音楽会が始まった。
オレーナが静かに手拍子でリズムを取る。
ソフィーアは前へ出た。
小さな体。
少し緊張した顔。
けれど、目はまっすぐだった。
彼女は歌い始めた。
まだ幼い声だった。
けれど、美しかった。
透き通るようで、やわらかくて、聞いている人の胸にすっと入ってくる声。
待合室の空気が変わった。
兵士が目を閉じる。
車椅子の女性が涙を拭く。
母親に抱かれた子どもが、泣くのをやめる。
ソフィーアは、歌に合わせて小さく踊った。
白鳥のように腕を広げる。
少しだけよろける。
けれど、転ばない。
いや、たとえ転んでも、きっと立ち上がっただろう。
その姿に、待合室から自然と笑みがこぼれた。
⸻
歌が終わった。
一瞬、静けさがあった。
そして、拍手。
大きな拍手だった。
病院の待合室とは思えないほど、あたたかな拍手。
ソフィーアは驚いて、母を見る。
オレーナは涙を浮かべながらうなずいた。
「届いたのよ」
ソフィーアは、少し照れながらお辞儀をした。
すると、拍手はさらに大きくなった。
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オレクサンドルは、後ろの席で泣いていた。
悪夢は消えていない。
体はまだ完全ではない。
人生も、戦争前と同じには戻らない。
それでも、娘の歌を聞いている間だけは、心が少しだけ戦場から離れた。
オレーナが隣に座る。
「大丈夫?」
オレクサンドルは涙を拭いた。
「大丈夫じゃない」
「うん」
「でも……生きててよかったと思った」
オレーナは、そっと彼の手を握った。
「それだけで十分よ」
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その日、病院の待合室は小さな劇場になった。
壊れた教室にも、避難所にも、病院にも、歌は響く。
舞台は場所ではない。
誰かを思って歌う心があるなら、そこが舞台になる。
そしてソフィーアは、その最初の舞台で、人の心に届く歌を確かに歌った。
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次回予告
退院したオレクサンドルは、家族と共に新しい生活を始める。
だが、外の世界はまだ戦争のただ中にある。
仕事に戻るには体も心も不安定で、家族を守りたい気持ちだけが空回りする日もある。
一方、ソフィーアの歌声は少しずつ人々の間で知られるようになり、避難者支援の小さな活動へとつながっていく。
次回、
第38話
「退院の日」
病院を出ることは、終わりではない。
もう一度、生きる場所へ戻ることだった。




