眠れない父
第32話
「眠れない父」
戦場から帰ってきた。
オレーナのもとへ。
ソフィーアのもとへ。
帰る場所へ。
けれど、戦争はオレクサンドルを手放してはくれなかった。
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深夜。
オレクサンドルは突然飛び起きた。
全身が汗で濡れている。
呼吸が荒い。
心臓が激しく脈打つ。
「はぁ……はぁ……!」
夢だった。
だが、夢ではなかった。
戦場だった。
爆発音。
銃声。
叫び声。
血。
炎。
ソコロフの顔。
拷問部屋の冷たい床。
そして――
オレーナとソフィーア。
助けを求めている。
手を伸ばしている。
だが届かない。
何度走っても間に合わない。
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「オレクサンドル」
隣から優しい声がした。
オレーナだった。
彼女は何も言わず、そっと夫の背中に手を置いた。
オレクサンドルは震えていた。
「またか……」
かすれた声。
「うん」
「今度は……ソフィーアだった」
オレーナは何も聞かなかった。
夢の内容を聞けば、彼がまた傷つくと分かっていた。
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別の日。
今度は自分が撃たれる夢だった。
弾丸が胸を貫く。
地面に倒れる。
遠くでソフィーアが泣いている。
オレーナが叫んでいる。
それでも体は動かない。
そこで目が覚める。
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また別の日。
夢の中で彼はウクライナ兵へ銃を向けていた。
引き金を引く。
相手が倒れる。
顔を見た瞬間、目が覚める。
相手はミコラだった。
親友だった。
汗が止まらない。
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さらに別の日。
拷問部屋だった。
何度も。
何度も。
終わらない。
目覚めても現実と区別がつかない。
しばらく自分がどこにいるのか分からなくなる。
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オレーナは、そのたびに寄り添った。
責めない。
急がせない。
忘れろとも言わない。
ただ隣に座る。
そして歌う。
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ナタリヤから教わった歌。
幼い頃に聞いた歌。
結婚式で歌った歌。
ソフィーアがお腹にいる時に歌った歌。
オレクサンドルが好きだった歌。
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最初は反応できなかった。
歌など意味がないと思う日もあった。
だが。
少しずつ。
本当に少しずつ。
彼の呼吸は落ち着いていく。
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「その歌……」
ある夜、オレクサンドルが言った。
「覚えてる?」
オレーナは微笑む。
「もちろん」
「初めて君の家に行った時」
「ピアノのある家?」
「うん」
オレクサンドルは天井を見上げた。
「ナタリヤさんが調律してた」
「ママらしい」
「その横で君が歌ってた」
オレーナは少し泣きそうになった。
「覚えてるんだ」
「忘れられるわけない」
⸻
オレーナは静かに歌い続けた。
歌声が部屋を満たす。
ソフィーアも毛布にくるまりながら聞いている。
やがて小さな声で一緒に歌おうとする。
まだ言葉にならない。
それでも一生懸命だった。
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オレクサンドルは娘を見つめた。
戦争を知らない子。
いや。
戦争の中で育っている子。
それでも笑える子。
その姿を見ると、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。
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2022年7月7日。
遠く離れた日本。
福岡・博多。
そこでは、後にソフィーアの人生と深く関わることになる双子の女の子が誕生していた。
青空の下。
祝福の声の中。
二つの命が産声を上げる。
その子たちは、まだウクライナのことを知らない。
ソフィーアのことも知らない。
もちろん、将来自分たちが日本とウクライナを結ぶ架け橋の一部になることも知らない。
だが運命は、静かに動き始めていた。
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一方。
キーウ近郊の小さな部屋。
オレーナは歌う。
ソフィーアは父の腕に寄り添う。
オレクサンドルは目を閉じる。
悪夢は消えていない。
怒りも消えていない。
傷も残っている。
だが。
歌を聞いている時だけは。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ。
心が戦場から離れることができた。
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「ありがとう」
オレクサンドルが小さく言った。
オレーナは首を振る。
「まだ終わってない」
「うん」
「だから一緒に戻ろう」
オレクサンドルは娘の寝顔を見る。
そして、オレーナを見る。
「帰る場所があるって、こんなにありがたいんだな」
オレーナは静かにうなずいた。
「だから帰ってきたんでしょう?」
オレクサンドルは久しぶりに、本当に久しぶりに少しだけ笑った。
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次回予告
戦争は続く。
だが、オレクサンドルは家族と共に少しずつ日常を取り戻そうとしていた。
そんな中、ソフィーアは初めて音楽に強い興味を示し始める。
ピアノ。
歌。
そして母から受け継がれる才能。
一方で戦場から帰還した兵士たちの心の傷も、社会の大きな課題となっていく。
次回、
第33話
「最初の音」
絶望の中でも、人は未来へ続く音を見つける。




