生きて帰った男
第31話
「生きて帰った男」
オレクサンドルが生きている。
その知らせが届いた時、オレーナはしばらく動けなかった。
何度も夢に見た言葉だった。
何度も願った言葉だった。
けれど、いざ現実になると、声が出なかった。
ソフィーアが母の袖を引く。
「ママ?」
オレーナは、震える手で娘を抱きしめた。
「お父さん……帰ってくる」
ソフィーアの目が大きく開いた。
「お父さん?」
「うん。お父さんよ」
再会の場所は、後方の医療施設だった。
オレーナはソフィーアの手を引き、廊下を歩いた。
心臓が痛いほど鳴っている。
会いたい。
怖い。
抱きしめたい。
でも、どんな姿でいるのか分からない。
扉の前で足が止まった。
看護師が静かにうなずく。
オレーナは息を吸い、扉を開けた。
ベッドの上に、男がいた。
痩せていた。
頬はこけ、唇は切れ、腕には包帯が巻かれている。
手は腫れ、指は痛々しく固定されていた。
顔には深い疲労が刻まれ、目の奥には、以前のやわらかさとは違う暗い影があった。
オレーナは、その場で息をのんだ。
オレクサンドル。
確かに彼だった。
でも、彼女の知っている、優しさに満ちたオレクサンドルとは別人のように見えた。
「……オレーナ」
かすれた声。
その声を聞いた瞬間、オレーナは駆け寄った。
「オレクサンドル!」
抱きしめたい。
でも、どこに触れていいか分からない。
体中が傷だらけだった。
彼女はそっと、彼の肩に手を置いた。
オレクサンドルは震えた。
「ごめん」
「謝らないで」
「帰るのが……遅くなった」
「いいの。帰ってきた。帰ってきてくれた」
ソフィーアが母の後ろから顔を出した。
「お父さん?」
オレクサンドルの目が揺れた。
小さな娘。
写真の中でしか見られなかった娘。
守るために、すべてを耐えた娘。
「ソフィーア……」
彼は手を伸ばそうとした。
だが、壊れた手が痛み、途中で止まる。
ソフィーアは少し戸惑いながらも、ベッドのそばへ近づいた。
「お父さん、痛い?」
オレクサンドルは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「少しだけ」
「ママが、帰ってくるって言ってた」
その言葉に、オレクサンドルの目から涙がこぼれた。
「ママは……正しかったな」
しばらくして。
オレーナは、言わなければならないことを思い出した。
両親のこと。
ヴィクトルとナタリヤのこと。
彼女は椅子に座り、膝の上で手を握った。
「オレクサンドル」
彼は顔を上げた。
「伝えなきゃいけないことがあるの」
その声だけで、彼は何かを察した。
オレーナは涙をこらえながら言った。
「パパとママが……」
言葉が詰まる。
「ミサイル攻撃に巻き込まれて……亡くなった」
病室の空気が止まった。
オレクサンドルの目が見開かれる。
ナタリヤ。
ピアノを調律してくれた人。
オレーナに歌を教えた人。
ヴィクトル。
不器用に笑い、娘を守ってきた人。
二人が、もういない。
オレクサンドルの顔が、怒りに染まった。
やせ細った顔の中に、燃えるような憎しみが浮かぶ。
「また……奪ったのか」
声が低く震えた。
「どこまで奪えば気が済むんだ」
包帯を巻いた手が、シーツを握ろうとして震える。
「殺してやる……」
その言葉を聞いた瞬間、オレーナは泣きながら首を振った。
「だめ」
オレクサンドルは彼女を見る。
「何がだ」
「あなたまで、優しさを忘れたらだめ」
「優しさで何が守れた」
「お願い」
オレーナの声が崩れた。
「あなたまで、あいつらと同じ闇に行かないで」
オレクサンドルは黙った。
オレーナは彼の胸に顔を寄せ、泣き崩れた。
「もうどこにも行かないで」
「オレーナ……」
「私とソフィーアを、ひとりにしないで」
その言葉は、怒りよりも強かった。
復讐よりも深かった。
オレクサンドルは、壊れた手では抱きしめられなかった。
だから、動く方の腕で、そっとオレーナの背に触れた。
「ごめん」
「謝らないで。いて。ここにいて」
「……いる」
声は小さかった。
「もう一度、戻れるか分からない」
「一緒に戻るの」
「僕は、前の僕じゃない」
「それでも、あなたはあなたよ」
オレーナは涙で濡れた顔を上げた。
「私が覚えてる。ソフィーアも覚える。あなたがどんな人だったか、私たちが忘れない」
ソフィーアは、二人を見ていた。
まだすべては分からない。
けれど、父と母が泣いていることは分かる。
彼女は小さな手を伸ばし、オレクサンドルの包帯のない指に触れた。
「お父さん、帰ってきた」
オレクサンドルは、その小さな手を見た。
戦争が壊せなかったもの。
ソコロフが脅しに使ったもの。
自分が帰る理由にしたもの。
それが、今ここにある。
彼は声を震わせた。
「ただいま」
ソフィーアは、少し考えてから言った。
「おかえり」
その一言で、オレクサンドルは崩れるように泣いた。
帰ってきた。
けれど、戦場から心まで戻れたわけではない。
それでも、帰る場所はまだ残っていた。
オレーナの腕の中に。
ソフィーアの小さな声の中に。
そして、失われた人々の記憶の中に。
次回予告
家族のもとへ戻ったオレクサンドル。
だが、夜になると拷問の記憶と脅迫の声がよみがえる。
眠れない父。
泣き続ける母。
不安げに見つめる幼い娘。
オレーナは、壊れかけた夫をもう一度この世界につなぎ止めようとする。
次回、
第32話
「眠れない父」
帰還は、救いの始まりであって、苦しみの終わりではない。




