壊れた手
第30話
「壊れた手」
夜明け前。
ロシア軍拠点の外側で、静かに影が動いていた。
ウクライナ軍の奇襲部隊だった。
彼らがここへたどり着けた理由は、一つ。
オレクサンドルのベルトだった。
かつて共に行動していた仲間、ミコラ・クレンコが、オレクサンドルのベルトの革の内側に、薄く小さなGPS発信機を仕込んでいたのだ。
捕虜になる前、ミコラは冗談めかして言っていた。
「念のためだ。お前は機械には強いが、自分の身を守るのは下手そうだからな」
その小さな細工が、オレクサンドルの命綱になっていた。
⸻
最初の爆発が、拠点の外壁を揺らした。
ロシア兵たちが怒号を上げる。
「敵襲!」
「ウクライナ軍だ!」
銃声が飛び交う。
照明が割れ、無線が乱れ、廊下に煙が広がる。
捕虜として奥の部屋に転がされていたオレクサンドルは、かすかに目を開けた。
体は限界だった。
手は腫れ、指は思うように動かない。
工具を握っていた手。
ソフィーアを抱いた手。
オレーナの手を握った手。
その手は、戦争によって壊されかけていた。
⸻
扉が蹴破られた。
「オレクサンドル!」
聞き覚えのある声。
ミコラだった。
その後ろには、タラス・ボンダレンコ、セルヒー・リトヴィン、そしてウクライナ軍の指揮官、アンドリー・マルチェンコ大尉がいた。
ミコラは駆け寄り、オレクサンドルの拘束を切った。
「やっと見つけたぞ」
オレクサンドルは、かすれた声で言った。
「……遅い」
ミコラは泣きそうな顔で笑った。
「文句言えるなら生きてるな」
タラスが肩を貸す。
「立てるか?」
「分からない」
「なら担ぐ」
その時、廊下の向こうから足音が響いた。
アレクセイ・ソコロフ少佐だった。
⸻
ソコロフは銃を構えていた。
だが、すぐに形勢が悪いと悟ったのか、表情を変えた。
「待て」
マルチェンコ大尉が銃口を向ける。
「武器を捨てろ」
ソコロフはゆっくり銃を下ろした。
「私は命令に従っただけだ」
オレクサンドルの目が開く。
その声。
その顔。
忘れるはずがなかった。
ソコロフは言葉を重ねる。
「私は将校だ。捕虜として扱われる権利がある。国際法に従え」
ミコラが低く唸った。
「よく言えたな」
ソコロフはオレクサンドルをちらりと見た。
その目には、先ほどまでの傲慢さはなかった。
命乞いをする人間の目だった。
「頼む。撃つな」
マルチェンコ大尉は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「お前が捕虜にした者たちにも、その言葉を聞かせてやりたかったな」
乾いた銃声が響いた。
ソコロフはその場に崩れ落ちた。
即死だった。
⸻
周囲のロシア兵たちは、次々と武器を捨てた。
ウクライナ兵たちは彼らを拘束し、捕虜として連行していく。
セルヒーは厳しい顔で言った。
「こいつらにも法は適用する。俺たちは奴らとは違う」
タラスがうなずく。
「それを忘れたら終わりだ」
オレクサンドルは、ぼんやりとその言葉を聞いていた。
憎い。
許せない。
ソコロフの名も、声も、顔も、絶対に忘れない。
けれど、ここで自分たちまで人間であることを捨てたら、本当に何も残らなくなる。
その境界線を、ウクライナ兵たちは必死に守っていた。
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ミコラがオレクサンドルの壊れた手を見た。
「ひどいな」
「動く?」
「今は動かすな。医療班へ運ぶ」
オレクサンドルは首を振ろうとした。
「通信機……」
「馬鹿か」
ミコラが怒鳴った。
「今直すのはお前だ」
その言葉で、オレクサンドルの目から涙がこぼれた。
自分はまだ、直される側にいていいのか。
壊れたまま捨てられるわけではないのか。
そう思った瞬間、張り詰めていたものが切れた。
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担架に乗せられ、拠点の外へ運ばれる。
空は少しずつ明るくなっていた。
夜が終わる。
朝が来る。
信じられなかった。
次の朝を信じられなくなっていた彼に、本当に朝が来た。
オレクサンドルは、かすれた声で言った。
「オレーナ……」
ミコラが答えた。
「連絡する。必ず」
「ソフィーア……」
「生きて帰れ。自分で抱け」
オレクサンドルは目を閉じた。
壊れた手。
壊れかけた心。
それでも、まだ帰る場所は残っている。
彼はそのことだけを胸に、意識を手放した。
⸻
次回予告
ウクライナ軍に救出されたオレクサンドル。
だが、彼の体と心には深い傷が残っていた。
オレーナのもとへ、ついに夫が生きているという知らせが届く。
しかし、再会は喜びだけでは終わらない。
次回、
第31話
「生きて帰った男」
帰ってきた。
けれど、戦場から心まで戻れるとは限らない。




