帰る場所
第29話
「帰る場所」
ロシア軍の拠点に、緊張が走っていた。
遠くから砲声が響く。
ウクライナ軍が前進している。
補給線は不安定になり、兵士たちは苛立ちを隠せなくなっていた。
捕虜として拘束されていたオレクサンドルも、その空気を感じ取っていた。
薄暗い部屋。
そこへ入ってきたのは、ロシア軍の将校だった。
男の名は アレクセイ・ソコロフ少佐。
冷たい目をした男だった。
ソコロフは机の上にカラシニコフを放り投げる。
金属音が部屋に響いた。
「お前の忠誠を試す時が来た」
オレクサンドルは黙っていた。
「ウクライナ軍が近づいている」
ソコロフは窓の外を指差した。
「これを持て」
オレクサンドルは動かない。
ソコロフは笑った。
「家族を守りたいんだろう?」
その言葉に、オレクサンドルの表情がわずかに変わった。
ソコロフは一枚の写真を取り出した。
オレーナ。
ソフィーア。
避難先で撮られた写真だった。
オレクサンドルの血の気が引く。
「やめろ……」
ソコロフは写真を見ながら言う。
「いい家族だな」
その口調が、オレクサンドルには耐え難かった。
「黙れ」
「我々に協力しろ。そうすれば家族の安全は保証される」
オレクサンドルは歯を食いしばった。
「お前らの言葉なんか信用できるか」
ソコロフの笑みが消える。
「なら選べ」
部屋は静まり返った。
オレクサンドルは床の銃を見た。
その重さは、武器の重さではなかった。
人間の良心を試す重さだった。
彼はゆっくり銃を拾った。
ソコロフは満足そうにうなずく。
「そうだ。それでいい」
だがオレクサンドルは顔を上げた。
その目には、憎しみではなく怒りが宿っていた。
「アレクセイ・ソコロフ」
突然、自分の名前を呼ばれた少佐が眉をひそめる。
「何だ?」
オレクサンドルは低く言った。
「お前の名前、絶対忘れねぇ」
部屋の空気が変わる。
「何?」
「何があっても忘れねぇ」
オレクサンドルは真っ直ぐ相手を見た。
「お前がやったことも」
「お前が壊したものも」
「お前が脅した人間の名前も」
ソコロフの顔から笑みが消える。
オレクサンドルはさらに続けた。
怒鳴り声ではない。
低く唸るような声だった。
「生きて帰れると思うな」
部屋が凍り付く。
次の瞬間。
ロシア兵たちがオレクサンドルへ飛びかかった。
「このクソ野郎!」
拳が飛ぶ。
床へ叩きつけられる。
蹴りが飛ぶ。
オレクサンドルの口から血が流れる。
だが彼は声を上げなかった。
ただソコロフを睨み続けた。
それが余計に兵士たちを苛立たせた。
「まだそんな目をするのか!」
さらに殴られる。
視界が霞む。
それでも。
オレクサンドルの中には一つだけ残っていた。
オレーナ。
ソフィーア。
帰る場所。
そのためだけに耐えていた。
やがて外から砲撃音が響いた。
今度は近い。
兵士たちが一斉に振り返る。
「ウクライナ軍だ!」
誰かが叫ぶ。
ソコロフは舌打ちした。
その一瞬の隙に、オレクサンドルは空を見上げた。
夜空は見えない。
だが心の中には、ブチャの春の星空が浮かんでいた。
スピカ。
アークトゥールス。
幼い頃に見上げた夫婦星。
オレーナと初めて出会った頃の空。
「帰る」
オレクサンドルは小さくつぶやく。
「絶対に帰る」
その声は誰にも届かなかった。
だが、その言葉だけが、壊れかけた彼を支えていた。
次回予告
ウクライナ軍の攻勢はさらに激しくなる。
ロシア軍拠点は混乱に包まれ、捕虜たちにも脱出の機会が訪れようとしていた。
しかしオレクサンドルの体は限界に近い。
そしてソコロフ少佐は、最後の手段に出る。
次回、
第30話
「壊れた手」
人間を縛れるのは縄だけではない。
恐怖もまた、人を捕虜にする。




