眠れない夜
第27話
「眠れない夜」
夜襲だった。
暗闇の中で、爆発音が拠点を揺らした。
照明が落ちる。
無線が乱れる。
怒号が飛ぶ。
誰かが倒れる。
オレクサンドルは工具箱を抱え、通信機の修理に向かおうとした。
その瞬間、背後から強い衝撃を受けた。
視界が揺れる。
膝が崩れる。
最後に見えたのは、床に転がった工具と、赤く点滅する非常灯だった。
⸻
目を覚ました時、彼は縛られていた。
冷たい床。
湿った空気。
見知らぬ部屋。
ロシア兵の声。
捕虜になったのだと理解するまで、時間はかからなかった。
尋問は激しかった。
殴られ、蹴られ、眠ることも許されなかった。
それでもオレクサンドルは、血の味がする口で笑った。
「それが……お前らの正義か」
ロシア兵が眉を動かす。
オレクサンドルは、よろめきながらも顔を上げた。
「あんたらの国の老いぼれ独裁者は、偉そうな御託を並べてたな。だが、やってることは殺戮じゃねぇか」
兵士の一人が彼の腹を蹴った。
オレクサンドルは床に崩れた。
それでも、声を絞り出した。
「あんな年老いた男一人に、反抗すらできないのかよ……てめぇらのお偉方は」
部屋の空気が変わった。
怒りではない。
もっと冷たいものだった。
ロシア兵の一人が、ゆっくりと近づいてきた。
「強い男のつもりか」
オレクサンドルは答えない。
兵士は、薄汚れた封筒から一枚の写真を取り出した。
「これが誰か、分かるか」
オレクサンドルの血が凍った。
オレーナ。
ソフィーア。
避難先で撮った、二人の写真だった。
オレーナは娘を抱き、疲れた顔で、それでも優しく笑っていた。
ソフィーアは母の胸に頬を寄せていた。
ロシア兵は下卑た笑いを浮かべた。
「綺麗な嫁さんだな。かわいい娘もいる」
オレクサンドルは、縛られた手を震わせた。
「どこで……」
「知っているぞ。居場所も、移動経路もな」
兵士は写真をひらひらと振った。
「大人しく従え。そうすれば、この二人の命は保証してやる」
オレクサンドルは声を失った。
「逆らえば、どうなるか分かるな。ブチャで起きたことが、また起きるかもしれない」
その言葉は、刃物より深く刺さった。
ブチャ。
故郷。
沈黙。
報道で聞いた蛮行。
消えた命。
泣き叫ぶことすら許されなかった人々。
それを、妻と娘に向けると言っている。
オレクサンドルの中で、何かが崩れた。
⸻
「今後は我々に従え」
ロシア兵は淡々と言った。
「お前は電気技術者だ。使い道はある」
「……何をさせる気だ」
「我々に帯同しろ。通信、車両、装備品を整備しろ。そして必要なら、ウクライナ兵を殺すための装置も直せ」
オレクサンドルは歯を食いしばった。
「断る」
その瞬間、兵士は写真を踏みつけるように床へ落とした。
「なら、嫁と娘の安全はない」
部屋が静まり返る。
オレクサンドルの耳には、自分の心臓の音だけが響いていた。
父ミハイロの声がよみがえる。
お前の手は、人を壊すためじゃない。
光を作るためにある。
母カテリーナの声。
憎しみに支配されてはいけない。
オレーナの声。
帰ってきて。
ソフィーアの小さな声。
パパ。
彼は床の写真を見た。
守るために戦っていた。
守るために徴兵された。
守るために工具を握った。
なのに今、その守りたいものを人質にされている。
戦争は、人間の一番弱い場所を正確に撃ち抜いてくる。
⸻
長い沈黙のあと。
オレクサンドルは、かすれた声で言った。
「……妻と娘には、手を出すな」
ロシア兵は笑った。
「賢い判断だ」
オレクサンドルは顔を上げた。
その目は、死んでいなかった。
「俺は、お前らを許したわけじゃない」
「許しなど要らん」
「俺は……家族を守るために従うだけだ」
兵士は冷たく答えた。
「それで十分だ」
オレクサンドルは、床に落ちた写真を見つめた。
オレーナ。
ソフィーア。
ごめん。
心の中で、何度も謝った。
自分がこれから何をさせられるのか。
その先に、自分が自分でいられるのか。
何も分からなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
この夜から、彼の眠れない日々が始まる。
⸻
次回予告
家族を人質に取られ、ロシア軍への帯同を強制されたオレクサンドル。
彼は敵の装備を直しながら、自分の手が何に使われているのかに苦しみ続ける。
一方、オレーナは夫の消息が途絶えたことに気づき、ソフィーアを抱きしめながら必死に祈る。
次回、
第28話
「壊される心」
人を壊すのに、銃弾だけが必要なわけではない。
愛する人を盾にされた時、心は音もなく裂けていく。




