↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光は息をしている  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/56

父の選択

第25話


「父の選択」


 西側諸国は動き始めた。


 EU加盟国、NATO加盟国を中心に、ウクライナへの軍事支援が進む。


 防弾装備。

 通信機器。

 対戦車兵器。

 医療物資。

 燃料。

 発電機。


 同時に、ロシア産原油や液化天然ガスへの禁輸措置、金融制裁、輸出規制が相次いで打ち出された。


 世界は、ウクライナを見捨てなかった。


 だが、ロシアは核兵器の使用すらちらつかせ、世界を恫喝した。


「どこまで卑劣なんだ……」


 オレクサンドルは、ラジオを聞きながら低くつぶやいた。


 オレーナは、ソフィーアを抱いたまま黙っていた。


 戦争は、もう地図の上の話ではなかった。


 家族のすぐ隣に来ていた。



 やがて、ウクライナ政府は国内の成人男性に動員をかけた。


 二十歳以上、六十歳までの男子。


 国を守るため。


 家族を守るため。


 街を守るため。


 その名簿の中に、オレクサンドルの名前もあった。


 彼は銃を持つ兵士としてではなく、電気技術者として召集された。


 装備品の電気系統。


 通信機器。


 車両の配線。


 武器の制御系統。


 発電設備。


 それらの整備を命じられることになった。



 通知を受け取った夜。


 オレーナは何も言えなかった。


 ソフィーアは、父の膝の上で小さな手を伸ばしていた。


「パパ」


 まだはっきりした発音ではない。


 けれど、確かにそう聞こえた。


 オレクサンドルは娘を抱きしめる。


「行きたくない」


 彼は初めて、本音をこぼした。


「君たちのそばにいたい」


 オレーナは涙をこらえながらうなずいた。


「私だって、行ってほしくない」


 それでも、分かっていた。


 この国が壊れれば、家族の未来も壊れる。


 誰かが守らなければならない。


 誰かが支えなければならない。


 オレクサンドルは銃を撃つためではなく、命をつなぐ機械を直すために呼ばれた。


 それが救いなのか、さらに残酷なのか、二人には分からなかった。



 出発の朝。


 オレーナは、彼の作業服の襟を整えた。


「憎しみに支配されないで」


 それは、かつて両親たちが二人に言い続けた言葉だった。


 オレクサンドルは小さくうなずく。


「分かってる」


「壊すためじゃなくて、守るために行って」


「うん」


「帰ってきて」


 その言葉だけは、声が震えた。


 オレクサンドルはオレーナを抱きしめた。


「必ず帰る」


 約束できることではなかった。


 それでも、約束しなければならなかった。


 ソフィーアが、父の指を握る。


 小さな手。


 あの日、地下へ逃げる階段で握った手。


 その手を離すことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


「ソフィーア」


 オレクサンドルは娘の額に口づけた。


「父さん、行ってくる」



 兵站拠点には、さまざまな男たちが集められていた。


 元整備士。


 工場勤務者。


 通信技師。


 電気工事士。


 農機具を直してきた者。


 劇場設備を扱ってきた者。


 みな、普通の生活から引き剥がされてきた人々だった。


 オレクサンドルは、壊れた通信機の前に座った。


 配線をたどる。


 接点を確認する。


 焦げた部品を交換する。


 幼い頃からやってきたことだった。


 けれど、今は違う。


 直した機械は舞台を照らすためではない。


 戦場で命令を伝えるため。


 兵士の位置を知らせるため。


 負傷者を救うため。


 攻撃を避けるため。


 それが分かるたび、胸が重くなった。


「俺の手は、何を直しているんだろうな」


 彼は小さくつぶやいた。


 隣の整備兵が言った。


「命だよ」


 オレクサンドルは顔を上げる。


「少なくとも、俺たちはそう思わないとやってられない」


 その言葉は、苦かった。


 でも、真実だった。



 夜。


 オレクサンドルは短い通話でオレーナの声を聞いた。


「無事?」


「無事だ」


「ソフィーア、今日あなたの写真に向かって手を振ってた」


「泣かせるなよ」


「もう泣いてるでしょ」


「少しだけ」


 オレーナは小さく笑った。


 そして、歌った。


 電話越しの子守歌。


 雑音混じり。


 途切れそうな通信。


 それでも、オレクサンドルには届いた。


 彼は目を閉じる。


 戦場のすぐ近くで、妻の歌を聞く。


 それは、彼を人間の側へつなぎ止める細い糸だった。



 守るために逃げる。


 守るために残る。


 守るために離れる。


 戦争は、家族にそんな選択ばかりを突きつける。


 オレクサンドルは工具を握り直した。


 この手で、誰かを殺すのではない。


 この手で、少しでも命をつなぐ。


 そう信じるしかなかった。



次回予告


 電気技術者として軍に動員されたオレクサンドル。


 装備品、通信機器、発電設備の整備に追われる日々が始まる。


 一方、オレーナはソフィーアを守りながら避難先で暮らし、歌で周囲の人々を励まそうとする。


 だが、ロシア軍の攻撃はさらに激しくなり、オレクサンドルのいる拠点にも危険が迫る。


 次回、

 第26話

 「工具箱と軍服」


 彼は兵士になりたかったわけではない。

 ただ、守りたい家族がいただけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。