父の選択
第25話
「父の選択」
西側諸国は動き始めた。
EU加盟国、NATO加盟国を中心に、ウクライナへの軍事支援が進む。
防弾装備。
通信機器。
対戦車兵器。
医療物資。
燃料。
発電機。
同時に、ロシア産原油や液化天然ガスへの禁輸措置、金融制裁、輸出規制が相次いで打ち出された。
世界は、ウクライナを見捨てなかった。
だが、ロシアは核兵器の使用すらちらつかせ、世界を恫喝した。
「どこまで卑劣なんだ……」
オレクサンドルは、ラジオを聞きながら低くつぶやいた。
オレーナは、ソフィーアを抱いたまま黙っていた。
戦争は、もう地図の上の話ではなかった。
家族のすぐ隣に来ていた。
⸻
やがて、ウクライナ政府は国内の成人男性に動員をかけた。
二十歳以上、六十歳までの男子。
国を守るため。
家族を守るため。
街を守るため。
その名簿の中に、オレクサンドルの名前もあった。
彼は銃を持つ兵士としてではなく、電気技術者として召集された。
装備品の電気系統。
通信機器。
車両の配線。
武器の制御系統。
発電設備。
それらの整備を命じられることになった。
⸻
通知を受け取った夜。
オレーナは何も言えなかった。
ソフィーアは、父の膝の上で小さな手を伸ばしていた。
「パパ」
まだはっきりした発音ではない。
けれど、確かにそう聞こえた。
オレクサンドルは娘を抱きしめる。
「行きたくない」
彼は初めて、本音をこぼした。
「君たちのそばにいたい」
オレーナは涙をこらえながらうなずいた。
「私だって、行ってほしくない」
それでも、分かっていた。
この国が壊れれば、家族の未来も壊れる。
誰かが守らなければならない。
誰かが支えなければならない。
オレクサンドルは銃を撃つためではなく、命をつなぐ機械を直すために呼ばれた。
それが救いなのか、さらに残酷なのか、二人には分からなかった。
⸻
出発の朝。
オレーナは、彼の作業服の襟を整えた。
「憎しみに支配されないで」
それは、かつて両親たちが二人に言い続けた言葉だった。
オレクサンドルは小さくうなずく。
「分かってる」
「壊すためじゃなくて、守るために行って」
「うん」
「帰ってきて」
その言葉だけは、声が震えた。
オレクサンドルはオレーナを抱きしめた。
「必ず帰る」
約束できることではなかった。
それでも、約束しなければならなかった。
ソフィーアが、父の指を握る。
小さな手。
あの日、地下へ逃げる階段で握った手。
その手を離すことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
「ソフィーア」
オレクサンドルは娘の額に口づけた。
「父さん、行ってくる」
⸻
兵站拠点には、さまざまな男たちが集められていた。
元整備士。
工場勤務者。
通信技師。
電気工事士。
農機具を直してきた者。
劇場設備を扱ってきた者。
みな、普通の生活から引き剥がされてきた人々だった。
オレクサンドルは、壊れた通信機の前に座った。
配線をたどる。
接点を確認する。
焦げた部品を交換する。
幼い頃からやってきたことだった。
けれど、今は違う。
直した機械は舞台を照らすためではない。
戦場で命令を伝えるため。
兵士の位置を知らせるため。
負傷者を救うため。
攻撃を避けるため。
それが分かるたび、胸が重くなった。
「俺の手は、何を直しているんだろうな」
彼は小さくつぶやいた。
隣の整備兵が言った。
「命だよ」
オレクサンドルは顔を上げる。
「少なくとも、俺たちはそう思わないとやってられない」
その言葉は、苦かった。
でも、真実だった。
⸻
夜。
オレクサンドルは短い通話でオレーナの声を聞いた。
「無事?」
「無事だ」
「ソフィーア、今日あなたの写真に向かって手を振ってた」
「泣かせるなよ」
「もう泣いてるでしょ」
「少しだけ」
オレーナは小さく笑った。
そして、歌った。
電話越しの子守歌。
雑音混じり。
途切れそうな通信。
それでも、オレクサンドルには届いた。
彼は目を閉じる。
戦場のすぐ近くで、妻の歌を聞く。
それは、彼を人間の側へつなぎ止める細い糸だった。
⸻
守るために逃げる。
守るために残る。
守るために離れる。
戦争は、家族にそんな選択ばかりを突きつける。
オレクサンドルは工具を握り直した。
この手で、誰かを殺すのではない。
この手で、少しでも命をつなぐ。
そう信じるしかなかった。
⸻
次回予告
電気技術者として軍に動員されたオレクサンドル。
装備品、通信機器、発電設備の整備に追われる日々が始まる。
一方、オレーナはソフィーアを守りながら避難先で暮らし、歌で周囲の人々を励まそうとする。
だが、ロシア軍の攻撃はさらに激しくなり、オレクサンドルのいる拠点にも危険が迫る。
次回、
第26話
「工具箱と軍服」
彼は兵士になりたかったわけではない。
ただ、守りたい家族がいただけだった。




