ブチャの沈黙
第23話
「ブチャの沈黙」
地下鉄駅の避難生活は、日に日に重くなっていった。
人は増え続ける。
毛布は足りない。
水は足りない。
食料も足りない。
それでも人々は分け合った。
オレクサンドルは壊れた照明や配線を直し、オレーナは子守歌を歌い、ソフィーアは母の胸の中で眠った。
だが、ラジオから流れるニュースは、日に日に暗さを増していった。
キーウ近郊。
イルピン。
ホストメリ。
そして、ブチャ。
その地名が読まれるたび、オレクサンドルとオレーナは息を止めた。
かつて二人が生まれ、育ち、夏祭りで初めてすれ違った街。
白樺の並木。
小さな市場。
ピアノのある家。
工具箱のある家。
その街に、ロシア軍が入った。
海外メディアは、ブチャでの民間人殺害、拷問、略奪、性暴力などの疑いを相次いで報じ始めた。後に国連人権高等弁務官事務所も、ブチャで少なくとも多数の民間人の違法殺害を確認したと報告している。
オレーナは、ラジオの前で動けなくなった。
「ブチャ……?」
声が出なかった。
オレクサンドルも、工具を握ったまま固まっていた。
ソフィーアは、何も知らずに眠っている。
その寝顔が、あまりにも無垢で、かえって苦しかった。
「父さんたちは……」
オレクサンドルがつぶやく。
ミハイロとカテリーナ。
ヴィクトルとナタリヤ。
四人は、ロシア軍が迫る中、必死に避難していた。
ブチャを離れ、キーウ周辺の混乱を抜け、西へ、西へ。
やがて彼らは、ポーランドとの国境近くまで避難していた。
疲れ切っていた。
持ち出せた荷物はわずか。
家も、思い出の品も、ほとんど置いてきた。
だが、生きていた。
それだけが救いだった。
地下鉄駅の片隅で、オレーナはスマートフォンを握りしめていた。
電波は不安定だった。
何度も通話が切れる。
ようやく、母ナタリヤの声が届いた。
「オレーナ?」
「ママ!」
その瞬間、オレーナは泣き崩れた。
「生きてる? パパは? みんなは?」
「生きてる。大丈夫。こっちは国境近くまで来たわ」
「よかった……」
ナタリヤの声も震えていた。
「あなたたちは?」
「地下鉄の駅にいる。ソフィーアも無事」
「よかった……本当に……」
互いに何度も「よかった」と言った。
それ以外の言葉が見つからなかった。
一方、南部では、マリウポリの製鉄所をめぐる悲劇と抵抗が報じられていた。
アゾフスタリ製鉄所には、兵士だけでなく多くの民間人も避難していたとされ、国際赤十字も人道状況の悪化を深く懸念し、民間人と負傷者の安全な退避と人道支援を求めていた。
地下の人々は、そのニュースを無言で聞いた。
地下鉄駅の寒さ。
製鉄所の地下の暗闇。
逃げ場のない人々。
場所は違っても、恐怖は同じだった。
オレクサンドルは、低く言った。
「人間がすることじゃない」
オレーナはソフィーアを抱きしめた。
「でも、同じ人間がやってる」
その言葉が、いちばん恐ろしかった。
ブチャの沈黙。
それは、ただ音がないという意味ではなかった。
助けを呼ぶ声が届かない沈黙。
家族を探す声が途切れる沈黙。
誰かがいたはずの家から、生活の音が消える沈黙。
かつて二人が歩いた街が、恐怖の名前になっていく。
オレクサンドルは壁にもたれ、目を閉じた。
夏祭りの灯りが浮かぶ。
オレーナが踊っていた。
自分は電球を見ていた。
あの街に、こんな未来が来るなんて思わなかった。
オレーナは、そっと歌い始めた。
声は小さかった。
けれど、周囲の人々が少しずつ顔を上げた。
泣いていた子どもが母の胸で静かになる。
疲れ切った老人が、目を閉じる。
オレクサンドルは、その歌を聞きながら、壊れた照明のスイッチをもう一度確かめた。
歌と光。
二人が子どもの頃から信じてきたもの。
それは戦車を止められない。
爆弾を防げない。
けれど、人の心が完全に暗闇へ沈むのを、ほんの少しだけ食い止めることはできた。
次回予告
ブチャの惨状を知ったオレクサンドルとオレーナ。
故郷を失った痛みは、二人の心に深く刻まれる。
それでも、ソフィーアを守るため、避難生活は続く。
だが、地下駅にも危険が迫り、移動を決断しなければならない時が来る。
次回、
第24話
「逃げる道」
生きるために逃げる。
その選択さえ、戦争は残酷にする。




