小さな手
第21話
「小さな手」
2022年2月。
北京で、冬のオリンピックが開催されていた。
テレビには、雪と氷の競技が映し出されている。
選手たちは、自分の限界に挑み、四年に一度の舞台で力を尽くしていた。
オリンピックは、平和の祭典。
少なくとも、建前の上ではそうだった。
だがその頃、世界中のニュースは、競技の結果と同じくらい、ある問いを伝えていた。
ロシアは、本当にウクライナへ侵攻するのか。
国境付近には大規模なロシア軍が集結していた。
衛星写真。
軍事演習。
外交交渉。
各国首脳の警告。
どのニュースも、同じ暗い予感を帯びていた。
ブチャのアパートで、オレクサンドルはテレビの音量を下げた。
ソフィーアが眠っていたからだ。
まだ一歳半ほどの、小さな娘。
彼女は、世界がどれほど危うい場所に立っているのかを知らない。
父の不安も、母の祈りも、国境の向こうの軍靴の音も知らない。
ただ、柔らかな毛布の中で、小さな手を握ったり開いたりして眠っていた。
「この子には、何も聞かせたくない」
オレーナが言った。
オレクサンドルは、ソフィーアの寝顔を見つめた。
「うん」
「でも、聞こえてくるね」
「うん」
ラジオも、テレビも、スマートフォンも、不安を運んでくる。
家の中に閉じこもっていても、世界は入ってくる。
その頃、オレクサンドルとオレーナは、首都キーウ近郊の少し広いアパートに転居していた。
ソフィーアが生まれ、前の部屋では手狭になったこと。
オレクサンドルの仕事の都合。
オレーナの音楽活動のため。
理由はいくつもあった。
だが、後になって振り返れば、その転居は、家族の運命を大きく変えることになる。
彼らは、ブチャで後に起きる凄惨な殺戮と、ロシア軍兵士による性犯罪の被害から逃れることになった。
もちろん、この時の二人はそんな未来を知らない。
ただ、ソフィーアのために少し広い部屋を選んだだけだった。
窓辺には、オレーナが育てる花。
棚には、ソフィーアの絵本。
壁際には、オレクサンドルが調整した小さな照明。
そして部屋の隅には、ナタリヤから譲られた楽譜が置かれていた。
家族三人の新しい暮らし。
そのささやかな平和が、あとどれほど続くのか。
誰にも分からなかった。
2月20日。
北京オリンピックが閉幕した。
世界がまだ閉会式の余韻を語っていた頃、ウクライナをめぐる空気は急激に重くなっていく。
数日後。
2022年2月24日。
夜明け前。
ロシア大統領はテレビ演説で、ウクライナに対する「特別軍事作戦」を開始すると表明した。
その声明でロシア側は、ドンバスの人々を守るため、ウクライナを「非軍事化」「非ナチ化」するためだと主張した。さらに、NATOの東方拡大やウクライナの軍事化がロシアにとって脅威だと訴え、ウクライナ領土の占領は意図していないとも述べ、他国が介入すれば重大な結果を招くと警告した。これらの主張は、ウクライナや多くの国々から侵略を正当化するための虚偽・根拠薄弱な口実として退けられた。
演説の直後。
ウクライナ全土に向けて、大規模な攻撃が始まった。
キーウ。
ハルキウ。
オデーサ。
ドンバス。
各地で爆発音が響いた。
空が、震えた。
オレクサンドルは、窓の外を見た。
遠くで、低い音がした。
雷ではない。
工事でもない。
体の奥が、その音を拒否していた。
オレーナがソフィーアを抱き上げる。
「オレクサンドル……」
その声は震えていた。
ソフィーアは、母の腕の中で泣き出した。
何が起きたのか分からない。
ただ、父と母の恐怖を感じ取っていた。
オレクサンドルは、すぐに非常用の荷物を引き寄せた。
水。
食料。
薬。
ソフィーアのおむつ。
小さな毛布。
書類。
懐中電灯。
そして、オレーナの楽譜の一部。
「地下へ行く」
彼は言った。
声は落ち着いていた。
だが、手は震えていた。
オレーナはうなずいた。
「ソフィーア、怖くないよ。ママがいるよ」
そう言いながら、彼女自身が恐怖で泣きそうだった。
階段を下りる途中、ソフィーアの小さな手がオレクサンドルの指を握った。
ぎゅっと。
あまりにも小さな力だった。
けれど、その瞬間、オレクサンドルは思った。
もう逃げられない。
父親であることから。
この子を守ることから。
世界がどれほど壊れても、この手を離してはいけないという現実から。
「大丈夫だ」
彼は娘に言った。
「父さんがいる」
その言葉が本当かどうか、彼自身にも分からなかった。
けれど、言わずにはいられなかった。
オレーナは隣で、小さく子守歌を歌い始めた。
爆発音の合間に、母の声が震えながら響く。
ソフィーアの泣き声が、少しだけ弱くなる。
地下へ向かう家族。
遠くで鳴る爆発音。
閉じられていく日常。
小さな手。
それは、オレクサンドルが父として本当に立ち上がった瞬間だった。
次回予告
ロシア軍の攻撃は、ウクライナ全土へ広がっていく。
キーウ近郊の街々は混乱に包まれ、人々は地下室や駅へ避難する。
オレクサンドルとオレーナは、ソフィーアを抱えて避難生活に入る。
食料、水、薬、そして赤ん坊の泣き声。
すべてが命に直結する現実となっていく。
次回、
第22話
「空が裂けた朝」
その朝、世界は変わった。
誰も望まなかった形で。




