ソフィーアのいる朝
第20話
「ソフィーアのいる朝」
ソフィーアが生まれてから、ペトレンコ家の朝は一変した。
以前なら、オレクサンドルが先に起き、ラジオをつけ、オレーナがゆっくりお茶を入れる。
そんな静かな朝だった。
だが今は違う。
「泣いてる!」
「おむつ?」
「ミルクかも!」
「両方かも!」
二人は眠い目をこすりながら、毎朝のように小さな娘のもとへ駆け寄った。
ソフィーアは、まだ何も知らない。
ウクライナとロシアが軍事的に緊張していることも。
クリミアが占領されたままであることも。
東の国境で不穏な演習が増えていることも。
パンデミックで世界中の人々が不自由な暮らしを続けていることも。
何も知らない。
ただ、泣き、眠り、ミルクを飲み、父と母の腕の中で小さく笑う。
その純真無垢な瞳には、柔らかい光が宿っていた。
オレーナは、ソフィーアの頬をそっと撫でる。
「この子の目、きれいね」
オレクサンドルは隣からのぞき込む。
「うん。空みたいだ」
「あなた、もう完全に親ばかね」
「否定しない」
オレーナは笑った。
⸻
外の世界は、明るい話ばかりではなかった。
パンデミックは長引いていた。
人々は距離を取り、マスクをつけ、誰かと会うことさえ慎重になった。
劇場の仕事は減り、音楽会も制限され、オレクサンドルもオレーナも不安を抱えていた。
それでも、ソフィーアが朝に目を開けるだけで、部屋の空気は変わった。
小さな手が動く。
口元が少し緩む。
意味のない声を出す。
それだけで、二人は笑えた。
「今、笑った?」
「笑った」
「絶対?」
「絶対」
「ただ口が動いただけかも」
「笑った」
オレクサンドルは真剣だった。
オレーナは呆れながらも、その顔を見るのが好きだった。
⸻
同じ頃。
遠い日本では、ひとつの結婚式が行われていた。
パンデミックの影響で、画面越しの結婚式。
新婦は、黒崎美鈴。
新郎は、小倉優馬。
のちに「令和の爆笑女王」と呼ばれる双子、光子と優子の父母となる二人である。
画面の向こうで笑い、泣き、祝福される二人。
その未来に、どれほどにぎやかで、どれほど人を笑わせる娘たちが生まれるのか。
その娘たちが、やがてウクライナの少女ソフィーアと深くつながっていくのか。
この時、日本の小倉家も、ウクライナのペトレンコ家も、知るはずがなかった。
ブチャの小さな部屋で、ソフィーアが父の指を握っている。
日本の画面越しの結婚式で、美鈴と優馬が未来を誓っている。
二つの家族は、まだ遠い。
国も、言葉も、暮らしも違う。
けれど、未来は静かに糸を結び始めていた。
⸻
夜。
オレーナはソフィーアを抱いて、子守歌を歌った。
オレクサンドルは、部屋の明かりを少し落とす。
柔らかな光が、母と娘を包む。
「この子には、怖いニュースより、あなたの歌を覚えてほしい」
オレクサンドルが言った。
オレーナは小さくうなずく。
「この子には、爆弾の音じゃなくて、拍手の音を聞かせたい」
ソフィーアは、母の腕の中で眠っていた。
小さな胸が、静かに上下している。
それは、どんな政治声明よりも、どんな軍事ニュースよりも、確かな現実だった。
命がここにある。
守りたい未来がここにある。
ソフィーアのいる朝。
それは、ペトレンコ家にとって、世界がまだ完全には壊れていない証だった。
⸻
次回予告
ソフィーアの成長とともに、ペトレンコ家には笑顔が増えていく。
寝返り。
初めての声。
母の歌に反応する小さな手。
だが、国境付近ではロシア軍の動きがさらに活発になり、世界は再び緊張を強めていく。
オレクサンドルは、父として守るべきものの重さを痛感し始める。
次回、
第21話
「小さな手」
その手を握った瞬間、父はもう逃げられなくなる。




