父になる日
第19話
「父になる日」
2019年の終わり。
オレクサンドルとオレーナは、生まれてくる子どものための準備を少しずつ進めていた。
窓辺には花。
壁には小さな棚。
ミハイロが作ってくれた木製の揺りかご。
ナタリヤが選んだ子守歌の楽譜。
まだ見ぬ命を迎えるために、家族みんなが少しずつ動いていた。
しかし、その頃、世界では別の異変が起き始めていた。
中国で確認された原因不明の感染症。
当初、多くの人は遠い国の出来事だと思っていた。
だが、2020年に入ると状況は一変する。
感染は世界中へ広がり、やがてパンデミックとなった。
新型コロナウイルス。
人々は初めて聞く名前に戸惑い、恐れた。
ウクライナも例外ではなかった。
外出自粛。
イベント中止。
学校の休校。
劇場やコンサートホールの閉鎖。
街から人の姿が消えていく。
オレーナは妊娠中だった。
それが何よりも心配だった。
「大丈夫かな……」
夜、オレーナはお腹をさすりながら言った。
すでにお腹は目立つほど大きくなっている。
オレクサンドルは隣に座った。
「大丈夫だ」
「でも、まだ何も分かってない病気なんだよ」
それが怖かった。
当時はまだ分からないことが多かった。
妊婦が感染したらどうなるのか。
胎児に影響はあるのか。
後遺症は残るのか。
世界中の医師たちも手探りだった。
オレーナは不安だった。
オレクサンドルも同じだった。
だが、彼は妻の前ではなるべく平静を装った。
「必要以上に怖がらない」
「うん」
「でも油断もしない」
「うん」
二人は外出を必要最低限にした。
買い物も短時間。
人混みは避ける。
手洗い。
消毒。
換気。
できることはすべてやった。
だが、オレクサンドルの仕事は簡単ではなかった。
舞台照明や音響の仕事は、現場へ行かなければ分からないことが多い。
設備の状態。
配線。
照明機材。
音響トラブル。
図面だけでは判断できないことも多かった。
だから彼は現場へ向かった。
マスク。
消毒液。
距離の確保。
感染防止を徹底しながら。
帰宅すると、まず手洗い。
服を着替える。
シャワーを浴びる。
それからようやくオレーナの隣へ行く。
「おかえり」
「ただいま」
その何気ない言葉が、以前よりずっと大切になっていた。
今日も無事だった。
感染していなかった。
それだけで、胸をなで下ろす日々だった。
世界は静まり返っていた。
劇場は閉まり。
音楽会は中止になり。
街から歌声が消えた。
それでもオレーナは歌うことをやめなかった。
お腹の子に向かって歌った。
朝も。
昼も。
夜も。
ナタリヤから教わった子守歌。
民謡。
やさしいクラシック。
オレクサンドルはそれを聞きながら思う。
この子が生まれた時、最初に覚える音は母親の声かもしれない。
そして。
2020年6月20日。
その日がやって来た。
病院の廊下を、オレクサンドルは何度も往復していた。
落ち着かない。
じっとしていられない。
ミハイロが肩を叩く。
「座れ」
「無理」
「床に穴が開く」
「無理」
ヴィクトルも苦笑した。
「俺もそうだった」
「本当ですか」
「五分おきに時計を見ていた」
「僕は一分おきです」
「負けた」
そんな会話をしていても、時間は長く感じられた。
やがて。
病室の奥から。
小さな声が聞こえた。
最初はかすかだった。
そして。
力強く。
高く。
生命そのもののような声が響いた。
産声だった。
オレクサンドルは動けなかった。
耳が熱くなる。
視界がにじむ。
助産師が微笑みながら出てくる。
「おめでとうございます」
その言葉で、ようやく現実になった。
病室。
オレーナは疲れ切っていた。
それでも幸せそうだった。
腕の中には、小さな命。
かわいい女の子。
金色の髪。
小さな指。
小さな鼻。
小さな寝息。
オレクサンドルは震える手で娘を抱いた。
「こんにちは」
涙が止まらなかった。
「僕はお父さんだ」
赤ちゃんは眠っていた。
何も知らない。
戦争も。
政治も。
パンデミックも。
何も知らない。
ただ生まれてきた。
それだけだった。
「名前は?」
助産師が尋ねた。
オレーナとオレクサンドルは顔を見合わせる。
そして、同時に答えた。
「ソフィーア」
知恵。
希望。
未来。
そんな願いを込めた名前だった。
ペトレンコ家も。
シェフチェンコ家も。
久しぶりに涙を流して喜んだ。
クリミアの占領。
パンデミック。
不安なニュース。
それらが消えたわけではない。
それでも。
新しい命は人々に前を向く力を与えてくれる。
ソフィーアは、家族の光だった。
だが。
この時。
まだ誰も知らない。
この小さな女の子が。
後に日本へ留学し。
音楽によって多くの人と出会い。
日本とウクライナを結ぶ架け橋になることを。
そして。
ソフィーアの娘たち――
スヴィトリャーナとクリリナが。
戦争で傷ついた人々の心を癒すために。
キーウに「リトル博多」と呼ばれるコミュニティを作り。
笑いと音楽と優しさで人々を支える存在になることを。
まだ誰も知らなかった。
病院の窓の外では、夏の光が街を照らしていた。
ブチャの空は青かった。
未来はまだ見えない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
ソフィーアは愛されて生まれてきた。
たくさんの祈りの中で。
たくさんの希望の中で。
世界が不安に包まれていても。
彼女の誕生は、確かに人々の心を照らしていた。
次回予告
新米パパとママになったオレクサンドルとオレーナ。
夜泣き。
おむつ。
ミルク。
眠れない夜。
それでも、ソフィーアの笑顔がすべてを吹き飛ばしていく。
一方で世界は、パンデミックの長期化に揺れ続ける。
そして東の国境では、不穏な軍事演習が少しずつ増え始めていた。
次回、
第20話
「ソフィーアのいる朝」
小さな笑顔は、どんな暗いニュースよりも強い。




