花のある窓辺
第18話
「花のある窓辺」
2019年11月。
ブチャの空は、冬へ向かう灰色を帯びていた。
クリミアでは、ロシア軍による占領が続いていた。
ロシア本土へ続く橋も完成し、テレビや新聞では、その巨大な橋がまるで偉業のように取り上げられていた。
前年には、ロシアでワールドカップが開催された。
世界中がサッカーの祭典に沸いた。
華やかな開会式。
熱狂する観客。
美しいスタジアム。
だが、ウクライナの人々の中には、それを冷めた目で見ていた者も多かった。
他国へ軍事侵攻し、その一部を占領した国で行われる、平和と交流の祭典。
そこに違和感を覚えない方が難しかった。
テレビに映るロシア大統領の演説を見ながら、オレクサンドルは吐き捨てるように言った。
「なんであんな奴が、偉そうなこと言ってんだよ」
隣でオレーナも、険しい顔をしていた。
「言ってることと、やってることが逆じゃない」
「平和だの友好だの、どの口で言ってるんだ」
「何の感情もこもってない。薄っぺらい言葉にしか聞こえない」
怒りは消えていなかった。
クリミアの傷も、ウクライナ社会の不安も、ずっと残っていた。
それでも、日々は続いていく。
仕事をし、食事を作り、買い物に行き、夜には同じベッドで眠る。
歴史がどれだけ揺れても、生活は止まらない。
そしてその生活の中に、ある日、小さな変化が訪れた。
⸻
最初に気づいたのは、オレーナだった。
朝、いつものように台所に立とうとして、ふいに体が重く感じた。
食欲があるようで、ない。
眠い。
少し気持ちが悪い。
胸の奥が落ち着かない。
オレクサンドルが心配そうに声をかける。
「大丈夫か?」
「うん……たぶん」
「顔色が悪い」
「少し疲れてるだけ」
そう言いながらも、オレーナ自身、心のどこかで予感していた。
数日後。
病院で検査を受けた。
医師は穏やかな表情で言った。
「妊娠しています」
その瞬間、オレーナは何も言えなくなった。
手が震えた。
泣きたいのか、笑いたいのか、自分でも分からなかった。
病院の外で待っていたオレクサンドルに、彼女はゆっくり歩み寄った。
「オレクサンドル」
「どうだった?」
オレーナは彼の手を取った。
そして、小さな声で言った。
「赤ちゃんがいる」
オレクサンドルは固まった。
「……え?」
「私たちの赤ちゃん」
彼はしばらく瞬きもできなかった。
それから、顔をくしゃくしゃにして、オレーナを抱きしめた。
「本当に?」
「うん」
「本当に、僕たちの?」
「他に誰の子なのよ」
「いや、そうじゃなくて……」
オレーナは笑いながら泣いた。
オレクサンドルも泣いていた。
道行く人が少し驚いて二人を見る。
けれど、二人にはもう周りが見えていなかった。
⸻
その知らせは、すぐに両家へ伝えられた。
ペトレンコ家。
ミハイロは、しばらく言葉を失ったあと、立ち上がってオレクサンドルの肩を強く抱いた。
「父親になるのか」
「うん」
「そうか……そうか」
何度も同じ言葉を繰り返した。
カテリーナは、オレーナを抱きしめて泣いた。
「よかった。本当によかった」
そして少し離れて、オレクサンドルを見る。
「あなた、しっかりしなさいよ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃないわ。完全に魂が抜けてる」
「ちょっと抜けた」
「戻しなさい。父親になるんだから」
その言葉に、皆が笑った。
⸻
シェフチェンコ家でも、同じように大騒ぎになった。
ナタリヤはオレーナの手を握ったまま、涙をこぼした。
「あなたが、お母さんになるのね」
「うん」
「小さかったあなたが……」
「ママ、泣きすぎ」
「泣くわよ。母親だもの」
ヴィクトルは腕を組み、何とか落ち着いて見せようとしていた。
「俺は冷静だ」
ナタリヤが即座に言った。
「さっきから同じ場所を三回歩いてるわ」
「確認だ」
「何の?」
「……床の強度」
オレーナが吹き出した。
久しぶりに、家族全員が心から笑った。
⸻
それは、ペトレンコ一家とシェフチェンコ一家にとって、久しぶりの明るい話題だった。
クリミアは戻っていない。
ロシアの圧力も消えていない。
国の未来には、まだ暗い影があった。
けれど、新しい命が宿った。
それだけで、家族の空気は変わった。
カテリーナは早速、赤ちゃん用の布を探し始めた。
ナタリヤは、子守歌の楽譜を整理した。
ミハイロは、赤ん坊のために小さな木製の揺りかごを作れないかと考えた。
ヴィクトルは、赤ちゃんが生まれた時に必要なものを妙に真剣な顔でメモし始めた。
オレクサンドルは、家に帰るなり、部屋の照明を見直した。
「ここ、少し暗いな」
オレーナが笑う。
「まだ生まれてないよ」
「今から準備する」
「気が早い」
「遅いよりいい」
彼は真剣だった。
コンセントの位置。
夜中に起きた時の明かり。
ベビーベッドを置く場所。
ラジオの音量。
すべてを考え始めていた。
オレーナは窓辺の花に水をやりながら、その姿を見つめた。
「ねえ」
「なに?」
「嬉しい?」
オレクサンドルは振り返った。
そして、少し困ったように笑った。
「怖いくらい嬉しい」
オレーナはお腹に手を添えた。
「私も」
⸻
夜。
二人はベッドに並んでいた。
オレクサンドルは、まだほとんど膨らんでいないオレーナのお腹に、そっと手を置いた。
「ここにいるんだな」
「うん」
「小さいんだろうな」
「まだ本当に小さいと思う」
「聞こえるかな」
「まだ早いんじゃない?」
オレクサンドルは少し考えてから、小さく言った。
「父さんだよ」
オレーナは笑った。
「早いって」
「練習」
「何の?」
「父親の」
オレーナは彼の手に自分の手を重ねた。
「じゃあ、私も練習する」
彼女はお腹に向かって、やさしく歌い始めた。
それは、ナタリヤから教わった子守歌だった。
まだ生まれていない命に向けた、最初の歌。
オレクサンドルは、その歌を聞きながら思った。
この子には、爆弾の音ではなく、この歌を聞かせたい。
この子には、政治家の空虚な演説ではなく、母の声を聞かせたい。
この子には、恐怖ではなく、光の中で目を覚ましてほしい。
窓辺の花が、静かに揺れていた。
外の世界には、まだ暗い影がある。
それでもこの部屋には、新しい命がいた。
静かに。
確かに。
未来が、ここに宿っていた。
⸻
次回予告
オレーナの妊娠を知った二人は、少しずつ親になる準備を始める。
名前を考え、部屋を整え、子守歌を選ぶ日々。
しかし、ウクライナを取り巻く緊張は消えない。
オレクサンドルは、父になる喜びと、守らなければならないものが増える怖さの間で揺れ始める。
次回、
第19話
「父になる日」
命を授かる喜びは、同時に、失うことへの恐れも連れてくる。




