小さなアパート
第17話
「小さなアパート」
結婚したオレクサンドルとオレーナの新しい暮らしは、ブチャの小さなアパートから始まった。
広くはない。
古い家具。
少しきしむ床。
窓辺に置かれた花。
オレクサンドルの自作ラジオ。
オレーナが母ナタリヤから譲り受けた楽譜。
それだけの部屋だった。
けれど二人にとっては、世界で一番大切な場所だった。
⸻
夕方。
仕事を終えたオレクサンドルが帰ってくると、オレーナも少し遅れて戻ってきた。
「ただいま」
「おかえり。疲れた?」
「少し。でも大丈夫」
オレクサンドルは工具鞄を置き、オレーナは楽譜の入った鞄を椅子にかけた。
二人は顔を見合わせて、自然に笑った。
「スーパー、行く?」
「行こう。卵とパンが少ない」
「あと、玉ねぎ」
「あなた、またラジオの部品買おうとしてない?」
「スーパーには売ってない」
「売ってたら買う気だったのね」
オレクサンドルは黙った。
オレーナは笑いながら、彼の腕を軽く叩いた。
⸻
近くのスーパーで食材を買い足し、二人は並んで帰った。
袋の中には、パン、卵、野菜、少しの肉、そしてオレーナがこっそり入れた小さな甘い菓子。
「それ、いつ入れたの?」
「秘密」
「家計管理担当として見逃せない」
「新婚特別予算」
「そんな予算あった?」
「今できた」
オレクサンドルは呆れたように笑った。
部屋に戻ると、二人で食事の準備をした。
オレーナが野菜を切り、オレクサンドルがスープの鍋を見る。
途中で塩を入れすぎそうになり、オレーナに止められる。
「それ以上入れたら、黒海よりしょっぱくなる」
「危なかった」
「危なかったじゃないわよ」
小さな台所に、笑い声が響いた。
⸻
食後、二人は片づけを済ませ、順番に入浴した。
窓の外では、夜のブチャが静かに息をしている。
遠くではまだ、クリミアをめぐる不安が消えていない。
ラジオから流れるニュースは、時折、重たい言葉を運んできた。
けれど、オレクサンドルはそっと音量を下げた。
今夜だけは、部屋の中の声を大切にしたかった。
オレーナは髪を拭きながら、楽譜を手に取る。
「少し歌ってもいい?」
「もちろん」
彼女の声が、静かな部屋に広がる。
オレクサンドルは窓辺の明かりを少し絞った。
やわらかな光。
歌に寄り添うような光。
オレーナは歌い終えると、彼を見た。
「また光、調整した?」
「君の声が一番きれいに聞こえる明るさにした」
「そういうこと、さらっと言うのずるい」
「本当のことだから」
オレーナは照れたように笑った。
⸻
夜。
二人は同じベッドに入った。
広くないベッドだった。
けれど、寄り添うにはちょうどよかった。
オレーナはオレクサンドルの胸に頬を寄せる。
「この部屋、好き」
「狭いよ」
「でも、あなたの声が近い」
オレクサンドルは、彼女の髪をそっと撫でた。
「僕も好きだ」
「部屋が?」
「君がいる部屋が」
オレーナは小さく笑った。
そして二人は、言葉を少しずつ減らしていった。
手を重ね、額を寄せ、互いの温もりを確かめる。
外の世界がどれだけ不安でも、この小さな部屋の中には、確かに守りたい幸福があった。
それは派手なものではない。
けれど、パンの匂いと、歌声と、やわらかな光と、愛する人の体温でできた幸福だった。
⸻
夜更け。
オレーナは眠りかけながら言った。
「いつか、子どもができたら」
オレクサンドルは、彼女を抱き寄せる腕に少し力を込めた。
「うん」
「その子にも、歌を聞かせたい」
「僕は、暗い部屋に明かりをつける」
「泣いたら?」
「君が歌う」
「あなたも抱っこする」
「もちろん」
二人は静かに笑った。
まだ見ぬ未来。
まだ名前もない命。
その話をするだけで、部屋の空気が少し明るくなる気がした。
オレーナは目を閉じる。
オレクサンドルも、彼女の呼吸に合わせるように眠りへ落ちていく。
小さなアパート。
古い家具。
窓辺の花。
自作のラジオ。
母から譲られた楽譜。
豊かではない。
けれど、確かな幸福がそこにはあった。
⸻
次回予告
小さな暮らしの中で、二人は少しずつ夫婦になっていく。
仕事、家事、音楽、照明。
すれ違う日もあり、笑い合う夜もある。
そしてある日、オレーナは自分の体に小さな変化を感じ始める。
次回、
第18話
「花のある窓辺」
新しい命は、いつも静かに訪れる。




