第9話:崩れゆく日常と、明日への決別
木曜日の午前中。オフィスに流れる空気は、澱みが消えたかのように澄んでいた。
俺は自分のデスクに向かい、以前から滞っていた他部署との調整資料を整理していた。間宮が担当していた頃は、いつも「確認します」という言葉だけで数日が過ぎ、結局は何も進んでいなかった案件だ。
「佐藤係長、この間の修正案、先方から大絶賛でしたよ。細かい数値の根拠まで完璧だって、課長も驚いてました」
通りがかった後輩の社員が、心底感心したように声をかけてきた。
「……そうか。それは良かった。俺は当たり前のことをしただけだよ」
「その『当たり前』が、うちの課では一番欠けていたものなんですよ。……正直、助かってます。今までは間宮さんの尻拭いばかりで、チーム全体が疲弊してましたから」
周囲の社員たちが、一人、また一人と俺の方を見て、小さく頷く。
かつて俺の誠実さを「退屈だ」と揶揄していた者たちの視線は、今や静かな信頼へと変わっていた。特別な才能があるわけではない。ただ、逃げずに誠実に向き合うことの価値を、この静かなフロアが証明してくれているようだった。
フロアの奥から、コツ、コツ、と聞き慣れた硬い足音が響く。
書類を抱えた九条部長が、俺のデスクの横を通り過ぎた。彼女は足を止めることなく、ただ一瞬だけ、眼鏡の奥の鋭い瞳でこちらに視線を向けた。
(……よくやっているわね)
言葉はなくとも、その微かな表情の変化だけで、彼女が今の職場の空気を肯定しているのが分かった。
◇
一方、俺が追い出されたあのマンションでは、かつての穏やかさは微塵も残っていなかった。
ダイニングテーブルの上には、コンビニ弁当の空き容器が山積みになり、シンクにはいつから放置されているのか分からない皿が、乾いた汚れと共に重なっている。
「ねえ、マミくん……洗濯物、いつになったらやってくれるの? 着る服がないんだけど」
由香が、乾いていないバスタオルを羽織ったまま、不機嫌そうに声を上げた。
「……うるさいな。俺だって自宅待機でストレス溜まってんだよ。洗濯機の回し方なんて知らないし、そもそもボタンが多すぎて意味分かんねーよ」
ソファで一日中スマホを弄っている間宮が、吐き捨てるように返す。
「誠は、黙ってても全部やってくれたわよ! 朝起きたら服は畳んであるし、家の中だってあんなに綺麗だったのに……。なんであんたは何もできないの!?」
「あいつと比べるんじゃねえよ! だったらあいつを呼び戻せばいいだろ! ……くそっ、この部屋、なんか臭くないか?」
生ゴミの異臭と、湿った布の匂い。
刺激を求めて選んだはずの二人の生活は、家事という名の「誠実な基盤」を失い、醜い責任のなすりつけ合いへと成り下がっていた。由香の手元にあるマンションローンの督促状が、彼女の焦燥をさらに加速させる。佐藤という存在を切り捨てた代償は、彼女たちの想像を絶する重さでのしかかっていた。
◇
退勤後、最寄り駅へ向かう道すがら、スマホに神崎弁護士から着信が入った。
「やあ、佐藤さん。……例の不誠実なカップルですがね、いよいよ足元から崩れ始めましたよ」
受話器の向こうで、神崎が楽しげに、けれど冷徹な笑い声を漏らした。
「……由香さんたちのことですか」
「ええ。今日、マンションの明け渡し請求を正式に送達しました。……どうやら彼女、ローンの督促が自分たちのパート代や間宮君の貯金では到底払えない額だと、ようやく理解したようです。由香さんが金を出せと詰め寄り、間宮君は『お前のわがままに付き合ったせいだ』と怒鳴り散らす。……不倫相手への『癒やし』なんて、もうどこにもありませんよ」
神崎の報告は、俺がかつて守ろうとしていた場所が、今や見る影もなく汚れ果てていることを物語っていた。
「明日が退去の期限です。彼らにはもう、あそこに留まる権利も、支払い能力もありません。……物理的な決着、楽しみにしていてください」
◇
帰宅し、怜奈さんのマンションのドアを開ける。
そこには、俺が整えた清潔な空間と、いつものようにソファで寛ぐ彼女がいた。
「……おかえりなさい、佐藤君」
「ただいま戻りました、部長」
怜奈さんは眼鏡を直し、ハーフアップにした髪を少し揺らして、手元のタブレットを置いた。
「神崎から聞いたわ。……明日、あそこに引導を渡すそうね」
「はい。先ほど連絡がありました」
彼女は俺を真っ直ぐに見つめ、少しだけ声を低くした。
「……貴方は、あそこにまだ戻りたいと思っているの?」
「え……?」
「あそこは、貴方がローンを払い、十年間も誠実に築いてきた場所でしょう。……リソースを無駄に消費したくないから聞くけれど。貴方は、あの女たちのために、再び自分を捧げたいと考えているのかしら。……あるいは、あの場所をまだ惜しんでいるの?」
それは、彼女らしい不器用な問いかけだった。
俺がまた、あんな不誠実な場所に戻ってしまうのではないかという危惧を、彼女は「合理性」という言葉で必死に包み隠していた。
「……いいえ」
俺は淀みなく答えた。
「俺の誠実さを『退屈』と捨てた場所には、もう俺の居場所はありません。……俺が今、守りたいと思っている基盤は、あそこじゃない。……この場所です」
俺の言葉に、怜奈さんは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線をそらした。
「……当然の判断ね。あんな不合理な場所に、貴方の価値を割く必要はないわ。……だいたい、次にあそこを掃除するのが誰だか考えただけでも、非効率極まりないわ」
耳元がわずかに赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
「……夕食、できています。今日は、温かい具沢山の汁物を作りました。少し多めに用意したので、しっかり食べてください」
「……そう。楽しみだわ。……早く準備しなさい。お腹が空いたわ」
明日は、かつての生活との物理的な決別の日。
それを前にして、俺の心は驚くほど穏やかだった。
整えられたリビングに漂う温かな香りと、ソファで不器用に待つ彼女の存在が、俺の新しい日常を優しく包んでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
下方の【評価(★★★★★)】や、ブックマーク等で応援いただけると、執筆の大きな励みになります。
何卒、よろしくお願いいたします!




