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誠実だけが取り柄の僕が、不倫した妻に家を追い出された夜。会社一冷徹な42歳の女上司に拾われたら、彼女の私生活はボロボロだった  作者: 寝不足魔王


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第9話:崩れゆく日常と、明日への決別

 木曜日の午前中。オフィスに流れる空気は、澱みが消えたかのように澄んでいた。

 俺は自分のデスクに向かい、以前から滞っていた他部署との調整資料を整理していた。間宮が担当していた頃は、いつも「確認します」という言葉だけで数日が過ぎ、結局は何も進んでいなかった案件だ。


「佐藤係長、この間の修正案、先方から大絶賛でしたよ。細かい数値の根拠まで完璧だって、課長も驚いてました」

 通りがかった後輩の社員が、心底感心したように声をかけてきた。

「……そうか。それは良かった。俺は当たり前のことをしただけだよ」

「その『当たり前』が、うちの課では一番欠けていたものなんですよ。……正直、助かってます。今までは間宮さんの尻拭いばかりで、チーム全体が疲弊してましたから」


 周囲の社員たちが、一人、また一人と俺の方を見て、小さく頷く。

 かつて俺の誠実さを「退屈だ」と揶揄していた者たちの視線は、今や静かな信頼へと変わっていた。特別な才能があるわけではない。ただ、逃げずに誠実に向き合うことの価値を、この静かなフロアが証明してくれているようだった。


 フロアの奥から、コツ、コツ、と聞き慣れた硬い足音が響く。

 書類を抱えた九条部長が、俺のデスクの横を通り過ぎた。彼女は足を止めることなく、ただ一瞬だけ、眼鏡の奥の鋭い瞳でこちらに視線を向けた。

(……よくやっているわね)

 言葉はなくとも、その微かな表情の変化だけで、彼女が今の職場の空気を肯定しているのが分かった。


 ◇


 一方、俺が追い出されたあのマンションでは、かつての穏やかさは微塵も残っていなかった。

 ダイニングテーブルの上には、コンビニ弁当の空き容器が山積みになり、シンクにはいつから放置されているのか分からない皿が、乾いた汚れと共に重なっている。


「ねえ、マミくん……洗濯物、いつになったらやってくれるの? 着る服がないんだけど」

 由香が、乾いていないバスタオルを羽織ったまま、不機嫌そうに声を上げた。

「……うるさいな。俺だって自宅待機でストレス溜まってんだよ。洗濯機の回し方なんて知らないし、そもそもボタンが多すぎて意味分かんねーよ」

 ソファで一日中スマホを弄っている間宮が、吐き捨てるように返す。


「誠は、黙ってても全部やってくれたわよ! 朝起きたら服は畳んであるし、家の中だってあんなに綺麗だったのに……。なんであんたは何もできないの!?」

「あいつと比べるんじゃねえよ! だったらあいつを呼び戻せばいいだろ! ……くそっ、この部屋、なんか臭くないか?」


 生ゴミの異臭と、湿った布の匂い。

 刺激を求めて選んだはずの二人の生活は、家事という名の「誠実な基盤」を失い、醜い責任のなすりつけ合いへと成り下がっていた。由香の手元にあるマンションローンの督促状が、彼女の焦燥をさらに加速させる。佐藤という存在を切り捨てた代償は、彼女たちの想像を絶する重さでのしかかっていた。


 ◇


 退勤後、最寄り駅へ向かう道すがら、スマホに神崎弁護士から着信が入った。


「やあ、佐藤さん。……例の不誠実なカップルですがね、いよいよ足元から崩れ始めましたよ」

 受話器の向こうで、神崎が楽しげに、けれど冷徹な笑い声を漏らした。

「……由香さんたちのことですか」

「ええ。今日、マンションの明け渡し請求を正式に送達しました。……どうやら彼女、ローンの督促が自分たちのパート代や間宮君の貯金では到底払えない額だと、ようやく理解したようです。由香さんが金を出せと詰め寄り、間宮君は『お前のわがままに付き合ったせいだ』と怒鳴り散らす。……不倫相手への『癒やし』なんて、もうどこにもありませんよ」


 神崎の報告は、俺がかつて守ろうとしていた場所が、今や見る影もなく汚れ果てていることを物語っていた。

「明日が退去の期限です。彼らにはもう、あそこに留まる権利も、支払い能力もありません。……物理的な決着、楽しみにしていてください」


 ◇


 帰宅し、怜奈さんのマンションのドアを開ける。

 そこには、俺が整えた清潔な空間と、いつものようにソファで寛ぐ彼女がいた。

「……おかえりなさい、佐藤君」

「ただいま戻りました、部長」


 怜奈さんは眼鏡を直し、ハーフアップにした髪を少し揺らして、手元のタブレットを置いた。

「神崎から聞いたわ。……明日、あそこに引導を渡すそうね」

「はい。先ほど連絡がありました」


 彼女は俺を真っ直ぐに見つめ、少しだけ声を低くした。

「……貴方は、あそこにまだ戻りたいと思っているの?」

「え……?」

「あそこは、貴方がローンを払い、十年間も誠実に築いてきた場所でしょう。……リソースを無駄に消費したくないから聞くけれど。貴方は、あの女たちのために、再び自分を捧げたいと考えているのかしら。……あるいは、あの場所をまだ惜しんでいるの?」


 それは、彼女らしい不器用な問いかけだった。

 俺がまた、あんな不誠実な場所に戻ってしまうのではないかという危惧を、彼女は「合理性」という言葉で必死に包み隠していた。


「……いいえ」

 俺は淀みなく答えた。

「俺の誠実さを『退屈』と捨てた場所には、もう俺の居場所はありません。……俺が今、守りたいと思っている基盤は、あそこじゃない。……この場所です」


 俺の言葉に、怜奈さんは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線をそらした。

「……当然の判断ね。あんな不合理な場所に、貴方の価値を割く必要はないわ。……だいたい、次にあそこを掃除するのが誰だか考えただけでも、非効率極まりないわ」


 耳元がわずかに赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。

「……夕食、できています。今日は、温かい具沢山の汁物を作りました。少し多めに用意したので、しっかり食べてください」

「……そう。楽しみだわ。……早く準備しなさい。お腹が空いたわ」


 明日は、かつての生活との物理的な決別の日。

 それを前にして、俺の心は驚くほど穏やかだった。

 整えられたリビングに漂う温かな香りと、ソファで不器用に待つ彼女の存在が、俺の新しい日常を優しく包んでいた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。

二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。


もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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何卒、よろしくお願いいたします!


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