第10話:マンション奪還と、本当の決別
金曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより鋭く感じられた。
俺はキッチンに立ち、九条部長――怜奈さんのために、丁寧に出汁を引いた和朝食を用意していた。炊き立ての米の香りと、味噌汁の湯気が、静かなリビングに広がっていく。
寝室から出てきた怜奈さんは、仕事用のスーツに身を包んでいたが、その表情にはどこか俺を案じるような色が混じっていた。彼女は一口、焼き魚を口に運ぶと、視線を落としたまま静かに告げた。
「……今日は定時で上がりなさい。私もそうするわ。神崎から、午後に全ての手続きを終えると連絡があったから」
「……はい。ありがとうございます」
「勘違いしないで。貴方のコンディションが乱れることは、私の仕事にとっても不利益だと言っているだけよ」
不器用な言葉だが、それが彼女なりの気遣いであることを、俺は痛いほど理解していた。今日、俺は自分が十年間守り続けてきた「家」という名の基盤に、最後の引導を渡しに行く。
◇
午後。俺は神崎弁護士と共に、かつて俺がローンを払い、家族の将来を夢見ていたあのマンションの前に立っていた。
「準備はいいですか、佐藤さん。……かなり、見苦しいことになっているようですが」
神崎が、チャコールグレーのスーツを正しながら、事務的なトーンで問いかけてきた。
「……覚悟はできています」
神崎がスペアキーでドアを開けた瞬間、俺を襲ったのは、懐かしい我が家の匂いではなかった。
生ゴミが腐敗したような不快な臭気と、湿った布が放つカビの匂い。
玄関ホールには、左右バラバラの靴と、中身の漏れ出したゴミ袋が放置されていた。
「あ、誠……っ!」
リビングから這い出すように現れたのは、髪を振り乱し、やつれ果てた由香だった。背後には、同じように薄汚れたTシャツ姿で、怯えたように立ち尽くす間宮がいる。
一糸乱れぬ生活を送っていたはずの場所が、わずか数週間で、これほどまでに容易く無残な姿に成り果てるのか。
「誠、お願い……あんなの、間違いだったのよ! マミくんとはもう終わりにするから! だから、前みたいに……あんたが掃除して、美味しいご飯を作ってくれたら、私……」
由香が、俺の裾を掴もうと手を伸ばす。
「……由香」
俺はその手を、静かに、けれど明確に拒絶して一歩引いた。
「俺の誠実さを『退屈』だと捨てた君が、今さら何を言っているんだ。君たちが求めた『刺激』の結果が、この部屋の有様じゃないか」
部屋の隅には、佐藤の給料で購入されたブランド品の箱が、ゴミに埋もれるように転がっている。かつての「誠実な基盤」は、不誠実な者たちの手によって、修復不能な泥濘へと変えられていた。
「おしゃべりはそこまでです」
神崎が、冷徹な響きのする書類を卓上に叩きつけた。
「本日付で、この物件の占有権は正式に佐藤誠さんに移転しました。貴方たちには、一時間以内に身の回りの物だけを持って退去していただきます。未払いのローン、および損害賠償、慰謝料については、別途裁判所を通じて請求いたしますので、そのつもりで」
「そんな……っ、行くところなんてないわよ!」
「それは君たちの問題だ。……さあ、行きなさい」
泣き叫ぶ由香と、終始俯いたままの間宮が、わずかな私物だけを抱えて、逃げるように玄関を出て行った。
バタン、とドアが閉まる音が、静まり返ったゴミの山の中に響いた。
◇
二人を追い出した後、俺は一人で空っぽの、けれど汚れ果てた部屋を歩いた。
壁に染み付いた汚れ、油でベタつくキッチン。俺が毎日、丁寧に磨き上げていた痕跡はどこにも残っていない。
ここにはもう、俺の居場所はない。……いや、俺が誠実さを注ぐべき場所ではないのだ。
「……神崎さん。この家、売却の手続きをお願いします」
「……賢明な判断です。その代金で、新しい人生の基盤を整えるべきだ」
俺は一度も振り返ることなく、マンションの鍵を神崎に預け、外へと出た。
◇
夜。怜奈さんのマンションのドアを開けると、そこにはシトラスの清潔な香りが漂っていた。
リビングに入ると、ソファには眼鏡をかけ、タブレットを眺める彼女の姿があった。俺の気配に気づくと、彼女は顔を上げ、不器用に口を開いた。
「……遅かったわね。待ちくたびれて、お腹が空きすぎて動けなくなるところだったわ。……夕食、まだかしら?」
その、いつも通りの「隙」に、俺の強張っていた心が、今度こそ完全に解き放たれた。
汚れた過去を捨て、俺を必要としてくれる、この清潔な場所へ。
「今すぐ作ります。怜奈さん」
「ええ。期待しているわ」
彼女の微かな微笑みに応えるように、俺はエプロンに手を通した。
本当の居場所を見つけた確かな感覚。俺の新しい誠実な日常が、ここからまた、静かに始まっていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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