第11話:氷の女王の「空白」
かつての住居を売却し、物理的な意味でも過去と決別してから、数日が過ぎた。
九条部長――怜奈さんのマンションは、俺が「家政夫」として入り込んだ当初の惨状が嘘のように、整然とした状態を保っている。
仕事から戻り、磨き上げられたフローリングにシトラスの香りが微かに漂う空間は、今や俺にとっても、そして彼女にとっても、静かな安らぎを伴う「当たり前」の光景になりつつあった。
だが、ふとした瞬間に、怜奈さんがその整ったリビングの真ん中で、所在なげに立ち尽くしているのを見かけることがあった。
窓の外に広がる夜景を眺めるわけでもなく、ただ清潔になった空間の広さに戸惑うかのように。それは、かつて彼女自身が切り捨て、忘れてしまったはずの「生活」という感覚に、どう馴染めばいいのかを自問しているようにも見えた。
その日の深夜。俺が翌朝の仕込みを終えてリビングに戻ると、ソファに座る怜奈さんの手元に、一冊の古いアルバムが置かれていた。
彼女は仕事用の眼鏡を外し、少し疲れた手つきで目元を揉んでいたが、俺の気配に気づくと力なく視線を上げた。
「……起きていたのか、佐藤君」
「あ、すみません。物音がしたので。……それは?」
「寝室の整理をしていたら、クローゼットの奥からこれが出てきてね。……懐かしいというより、今の私には酷く無機質に見えるわ」
彼女が差し出したアルバムには、十数年前、今の俺と同じくらいの年齢だった頃の彼女が写っていた。
写真の中の彼女は、今以上に鋭く、そして今以上に「完璧」だった。
隙のないスーツの着こなし、一切の乱れがない髪型。背景に写るかつての自室も、塵一つ落ちていないモデルルームのように整えられている。けれど、その瞳には、現在の彼女が時折見せる「隙」など微塵もなかった。ただ、張り詰めた糸のような危うい緊張感と、底知れない孤独だけが漂っている。
「……随分と、今とは雰囲気が違いますね。失礼ですが、以前は私生活も完璧になさっていたんですか?」
俺の問いに、怜奈さんは自嘲気味な笑みを浮かべ、手に持っていたワイングラスをゆっくりと傾けた。
「……そうね。かつての私は、すべてにおいて完璧でなければならないと信じ込んでいたわ。仕事も、家事も、周囲への配慮も。……けれど、その『誠実さ』や『完璧さ』は、他人にとっては単に利用するための、格好の標的でしかなかった。私が何でも一人で完璧にこなせばこなすほど、周囲は私に依存し、当然のように無茶な要求を重ねてきたわ」
彼女は遠くを見つめるような目で、絞り出すように言葉を継いだ。
「期待に応えようとすればするほど、心も体も、一歩手前まで削り取られていった。……だから、あの日、私は決めたのよ。一番守るべき『仕事』という砦以外のすべてを、徹底的に排除することにしたの。そうでもしなければ、私は自分という人間を保てなかったから」
彼女がかつて口にした、仕事以外にリソースを割かないという極端な生き方。
それは単なる怠惰ではなく、孤独な戦場の中で生き残り続けるために選んだ、あまりにも切実な防衛本能だったのだ。彼女はあえて私生活を「空白」にすることで、かろうじて立っていた。不器用なほどに真っ直ぐだった彼女は、自分を壊さないために、生活を捨てるという「合理性」に縋るしかなかったのだ。
「……だから、今のこの部屋には戸惑うのよ。貴方が、私がとうの昔に諦めたものを、あまりにも誠実に取り戻していくから。清潔な床、温かい食事、整えられた空気……。合理的に考えれば感謝すべきことなのに、私の中にあった『空白』が埋まっていく感覚に、どう対処すればいいのか、今の私には分からないのよ」
鉄の女と呼ばれた上司が漏らした、震えるような独白。
俺は、彼女の隣に座ることはせず、少し離れた位置で深く頭を下げた。
「……怜奈さん。俺は、貴方のその『空白』を埋めることが、今の俺の役割だと思っています。……貴方が戦い続けるために捨てざるを得なかったものを、俺が代わりに拾い上げる。……それが、俺という人間の、誠実さの使い道ですから」
「……貴方は、本当に損な生き方をするわね。……利用されていると思わないのかしら」
怜奈さんは顔をそむけたが、その声はいつになく穏やかで、僅かに温かみを帯びていた。
「……でも、悪くないわ。貴方が来てから、私の計算は狂いっぱなしだけれど。……明日も、朝食は貴方の淹れたコーヒーから始めたいわ。……淹れてくれるかしら」
「はい。喜んで、怜奈さん」
整えられた部屋の静寂が、以前のような拒絶の無機質さではなく、二人の間を繋ぐ温かな安らぎとして満ちていた。
氷の仮面の裏側にあった孤独な理由を知り、俺はまた一つ、この場所を本当の居場所にしたいと、心の底から願っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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