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誠実だけが取り柄の僕が、不倫した妻に家を追い出された夜。会社一冷徹な42歳の女上司に拾われたら、彼女の私生活はボロボロだった  作者: 寝不足魔王


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第12話:失われた季節の取り戻し

 窓から入り込む風が、いつの間にか微かな熱を帯び始めていた。

 俺は九条部長――怜奈さんの寝室のクローゼットを開け、冬物の厚手のスーツやコートを丁寧に防虫カバーに収めていた。代わって手前に並べるのは、初夏にふさわしい、風通しの良いリネン混のジャケットや淡い色のブラウスだ。


 由香と暮らしていた十年間、こうした「衣替え」は俺が勝手に終わらせておくべき、名もなき家事の一つだった。終わっていても気づかれず、やっていなければ「着る服がない」と責められる。そんな、誰にも見られない誠実さの積み重ねだった。


「……佐藤君、何をしているの?」

 背後から、着替えを終えた怜奈さんが不思議そうに声をかけてきた。

「衣替えですよ。もう日中は汗ばむ陽気ですから、薄手のものを用意しておきました」

「衣替え……。ああ、そういえばそんな習慣もあったわね。私は一年中、クローゼットの手前にあるものを適当に着回していたから、季節なんて意識したこともなかったわ」


 彼女は整えられたクローゼットを眺め、ふっと視線を落とした。

「……自分以外の誰かが、季節の移り変わりに気づいて、私の生活を整えてくれる。そんなことが、私の人生に再び訪れるなんて思ってもみなかった。……ありがとう、佐藤君」

「……いえ。俺にとっては、当たり前のことですから」

「その『当たり前』が、どれだけ贅沢なことか、貴方はもっと自覚すべきよ」


 不器用な感謝の言葉。彼女はそれ以上は何も言わず、少し照れたようにリビングへと戻っていった。


 ◇


 夕食のテーブルには、初鰹のたたきを並べた。たっぷりの薬味と、爽やかなポン酢の香りが食欲をそそる。

「……ん。この鰹、身が締まっていて美味しいわね」

「旬ですから。初夏の味覚を楽しんでいただければと思いまして」

「旬、か……。合理的に栄養を摂るだけならサプリメントで十分だと思っていたけれど、こうして季節のものを食べると、不思議と体の奥が温まる感覚があるわ。仕事の疲れが、解けていくような……」


 怜奈さんは箸を動かしながら、穏やかな表情を見せた。

「佐藤君。貴方が作るものは、単なる食事じゃないわね。……生活そのものを、血の通ったものに変えていく力がある。私、最近は会社にいても、早く帰りたいと思うようになってしまったわ」

「それは……俺にとっても、一番の褒め言葉です、怜奈さん」


 ◇


 一方、俺たちが穏やかな夕食を囲んでいるその頃。

 駅を数向こうに離れた、築古の安アパートの一室では、初夏の湿気が地獄のような惨状を作り出していた。


「ちょっと、マミくん! この部屋、暑すぎるし臭いんだけど!」

 由香が、汗ばんだ首元を扇ぎながら叫ぶ。狭い室内には、ゴミ出しを忘れて発酵し始めた生ゴミの異臭が立ち込めていた。

「……うるせえな! エアコンつけたら電気代がもったいないって言ったのはお前だろ! それより、この洗濯物の山、どうにかしろよ。全部生乾きで、着ると肌が痒くなるんだよ!」

「私だってパートで疲れてるのよ! あんた、自宅待機で暇なんだから、掃除くらいしなさいよ!」


 かつて俺が払っていたローンの広いマンションを追われ、二人の「刺激的な愛」は、物理的な不潔さと金銭的な焦燥に塗り潰されていた。

「……誠なら、こんなこと絶対にさせなかった。部屋はいつも涼しくて、服だって全部真っ白に洗い立てで……」

「またあいつの話かよ! じゃああいつの所へ帰れよ! 浮気した女が今さら相手にされるわけないだろ!」


 罵声が響き、ゴミの中に転がる。誠実な基盤を自ら壊した二人に残されたのは、互いを泥沼へと引きずり合う、不潔な日常だけだった。


 ◇


 夜。リビングの掃除を終え、俺がコーヒーを淹れて戻ると、ソファで怜奈さんがタブレットを抱えたまま、浅い眠りに落ちていた。

 眉間に少しだけ皺を寄せ、何かに耐えるような寝顔。俺はできるだけ音を立てないように近づき、ブランケットを肩に掛けようとした。


 その瞬間、彼女の長い睫毛が震え、薄く瞳が開いた。

「……ん……。佐藤君?」

「あ、すみません。起こしてしまいましたか」


 寝ぼけているのか、彼女の瞳はいつもの鋭さを失い、潤んでいるように見えた。

 彼女は、ブランケットを握る俺の指先に、そっと自分の手を重ねた。

「……どこにも、行かないわよね?」


 消え入りそうな、小さな声。42歳の「氷の部長」からは想像もつかない、子供のような脆さがそこにはあった。

「……はい。俺はここにいます、怜奈さん。明日の朝食も、ちゃんと用意しますから」


「……そう。なら、いいわ」

 彼女は安堵したように再び目を閉じ、規則正しい寝息を立て始めた。


 退屈だと言われ、捨てられた俺の誠実さ。

 けれどここでは、それが一人の女性の孤独を救い、新しい生活の礎になっている。

 俺は、重なった手の温もりを感じながら、静かに更けていく初夏の夜を愛おしく思っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。

二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。


もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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何卒、よろしくお願いいたします!


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