第13話:綻びの予兆
木曜日の午後のオフィスは、外の蒸し暑さを忘れさせるほど、冷房の効いた静寂に包まれていた。
俺は共有サーバーに格納された月次報告書を点検していたが、背後から数人の女子社員たちが囁き交わす声が、微かに耳に届いた。
「ねえ、最近の九条部長、ちょっと雰囲気変わったと思わない?」
「わかる。前はもっと……こう、近づくだけで凍りつきそうなオーラがあったけど、最近はどこか柔らかいっていうか」
「今朝も、佐藤係長が差し出した資料を受け取る時、一瞬だけ笑ったように見えたの。気のせいかな?」
俺を打つキーボードの指先が、一瞬だけ止まる。
心臓の鼓動が、わずかに速くなった。自分たちでは徹底して隠しているつもりでも、積み重なった生活の気配は、知らず知らずのうちに綻びとなって外へ漏れ出しているのかもしれない。
その時、コツ、コツ、と背後から凛とした足音が近づいてきた。
「佐藤係長。午後の会議資料、先方の修正案は反映済みかしら」
九条部長だ。振り返ると、そこには一糸乱れぬスーツ姿で、冷徹な仮面を纏った彼女が立っていた。
「はい。こちらになります。懸案だった物流コストの推移も補足しておきました」
「……ええ。助かるわ」
彼女が資料を受け取る際、指先がわずかに触れそうになる。
彼女の纏うシトラスの香りが、俺の鼻腔をくすぐった。それは俺が今朝、彼女のジャケットに軽くスプレーしておいたものだ。
周囲の社員たちが「やっぱり佐藤さん、部長の扱いが完璧だよね」と視線で会話しているのを感じ、俺は平静を装うのに必死だった。
◇
昼休み。給湯室でコーヒーを淹れていると、中堅社員の加藤がニヤニヤしながら近づいてきた。
「佐藤さん。ぶっちゃけ教えてくださいよ。部長に何か魔法でもかけたんですか?」
「魔法……? 何のことですか、加藤さん」
「いやあ、部長のお弁当ですよ。最近、毎日同じランチボックスじゃないですか。しかも、彩りが良くて栄養バランスも完璧そう。……あれ、もしかして、腕の良い家政夫でも雇ったんじゃないかって噂ですよ」
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
彼女の健康を考えて、毎朝心を込めて作っている弁当。その「誠実な痕跡」が、鋭い者たちの目には奇異に映っているのだ。
「……さあ、どうでしょう。部長も食生活を見直されたんじゃないですか」
俺はそれだけ答えて、逃げるように給湯室を後にした。
◇
午後の会議中、厳格な口調で部下のミスを叱咤する怜奈さんの横顔を見つめながら、俺はふと、昨夜の彼女の姿を思い出していた。
ソファに深く沈み込み、「あー、もう動きたくないわ……」とこぼしながら、俺の淹れたお茶を両手で包み込んでいた、あの無防備な姿。
他人が見ている「完璧な鉄の女」と、自分だけが知っている「ズボラで、少しだけ弱気な一人の女性」。
その巨大な落差を独占しているという感覚が、俺の中で得体の知れない優越感へと変わっていく。と同時に、彼女の見せる僅かな「隙」を、他の誰にも見つけられたくないという、自分でも驚くほど激しい独占欲が胸の奥で疼いた。
◇
その日の夜。帰宅してドアを開けると、彼女はすでにパンプスを放り出し、リビングでネクタイを緩め、ソファに足を投げ出していた。
「……おかえりなさい。今日は本当に疲れたわ。会議が長引くのは非効率の極みね」
いつもの、隙だらけの怜奈さんだ。
俺はスーツの上着を脱ぎ、キッチンへ向かう前に彼女の前に立った。
「……部長。会社では、もう少し隙を無くした方がいいかもしれません」
自分でも驚くほど、不躾で独占的なニュアンスを含んだ言葉が出てしまった。
怜奈さんは一瞬きょとんとして、瞬きを繰り返した。
「……隙? 私が仕事中に隙を見せていると言うの? 合理的に考えて、あり得ないわ」
「……お弁当や、雰囲気の変化を噂している者たちがいます。貴方の変化に、皆が気づき始めている」
俺の真意――他の男たちに、その柔らかい部分を察知されたくないという焦燥を、彼女は敏感に感じ取ったようだった。
怜奈さんの白い頬が、夕焼けのような朱色に染まっていく。
「……貴方に言われなくても、仕事中は完璧よ。……家では、貴方の前でしかこうならないわ」
彼女はそっぽを向きながら、蚊の鳴くような声で付け加えた。
「……他の誰かに、こんな姿を見せるリソースなんて、一ミリも残っていないもの」
言葉の端々に滲む、二人だけの特別な関係。
誠実な日常の中に、これまでになかった熱い何かが、静かに、けれど確実に混じり始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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