第14話:砂上の楼閣の末路
金曜日の朝。窓の外はどんよりとした雲に覆われ、梅雨特有の湿り気を帯びた風が、カーテンを重く揺らしていた。
俺がリビングで朝食の仕上げをしていると、寝室から着替えを終えた怜奈さんが現れた。彼女は鏡の前で一度だけ、自身のスーツの襟元を厳しく整え、それから俺の方へと視線を向けた。
「……佐藤君。昨日の今日で、あまり根を詰めないことね」
彼女は俺が弁当の包みを結ぶ手元をじっと見つめ、事務的なトーンを保ちつつも、どこか不器用な響きで続けた。
「仕事と生活の両立は、貴方が思っている以上にリソースを消費するわ。……私への配慮は、貴方の余裕がある範囲で構わないのよ。合理的に考えて、共倒れになるのが一番非効率だもの」
それは、昨夜の俺の独占的な進言に対する、彼女なりの答えだった。
無理をさせたくないという労いを、彼女は「効率」という言葉で包み隠している。42歳のキャリアウーマンとしての矜持が、そう言わせるのだろう。
「……はい。ありがとうございます、怜奈さん。ですが、これが俺のペースですから、心配いりませんよ」
俺が微笑んで答えると、彼女は「……そう。ならいいわ」と、僅かに耳を赤くして視線をそらした。
◇
同じ日の午後。
街外れの、壁の薄い安アパートの一室では、初夏の湿気が地獄のような閉塞感を作り出していた。
狭い玄関には脱ぎっぱなしの靴が散乱し、換気扇の下には吸い殻の山。窓を開けても風は通らず、ただ生ゴミの腐敗臭が室内を循環している。
「……ちょっと、マミくん。この電気代の督促状、どうするつもりなのよ! 今月、私のパート代だけじゃ全然足りないって言ってるじゃない!」
由香が、髪を振り乱して食卓を叩いた。卓上には、数日前の汚れがこびりついたコンビニの弁当容器が放置されている。
「……うるせえな! 俺だって自宅待機で、給料だって削られてんだよ。貯金を切り崩せって言ってるだろ!」
「貯金なんて、あんたがスマホゲームの課金に使い果たしたじゃない! ……誠なら、誠ならこんな情けないこと、絶対にさせなかった……っ」
由香の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
刺激を求めて選んだ不倫の果て。かつての「誠実な基盤」を自ら壊した彼女たちに残されたのは、家計の管理も掃除もできない、互いを重荷として憎み合うだけの泥沼だった。
「またあいつの話かよ! だったらあいつの所へ縋りに行けよ! ……どうせ、もう相手にもされないだろうけどな!」
間宮の罵声が、湿った空気の中に虚しく響いた。
◇
夕刻。神崎弁護士から、マンション明け渡し後の事務手続きについて俺に電話が入った。
「……ああ、佐藤さん。例の件ですがね、残置物の処分費用の請求先について連絡をしたら、向こうは今、電話越しに地獄絵図ですよ」
受話器から聞こえる神崎の声には、事務的な冷徹さと、僅かな呆れが混じっていた。
「由香さんに費用負担の話をしたら、横から間宮君が『俺の金は一円も出すな』と喚き散らしましてね。それを聞いた由香さんは、半狂乱で『誠実だった元旦那に戻りたい、あんたなんか死ね』と泣き叫ぶ始末。……弁護士として数多くの修羅場を見てきましたが、ここまで不誠実ななすりつけ合いは、そうそうお目にかかれるものではありませんよ」
神崎の報告は、彼らがかつて謳歌していた「自由」が、いかに他人の誠実さに寄生していただけだったかを証明していた。
「……そうですか。ご苦労をおかけして、すみません、神崎さん」
「いいんですよ。……これでようやく、物理的にも、そして精神的にも、佐藤さんの過去は清算されそうですね」
◇
夜。帰宅し、怜奈さんのマンションのリビングで、俺は神崎からの報告を簡潔に伝えた。
彼女はソファでワイングラスを揺らしながら、「ふん……」と鼻で笑い、窓の外の夜景に目を向けた。
「不誠実な繋がりなんて、利害が一致しなくなれば、即座に食い合いを始めるだけの脆弱な契約よ。……妥当な満了ね」
彼女はそう切り捨てると、ふと、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
「佐藤君。……貴方はまだ、あちらの声が聞こえる場所へ、戻りたいと思っているのかしら?」
「……いいえ」
俺は淀みなく答えた。
「俺にはもう、あの方たちの声は届きません。……俺が誠実さを注ぐべき場所は、もう決まっていますから」
俺の言葉に、怜奈さんは僅かに目を見開き、それから「……当然ね」と満足げに頷いた。
「余計なことに脳のリソースを使うのは、今日で終わりにしなさい。……さあ、冷めないうちに夕食にしましょう。……今日は、私の好きなものでいいかしら?」
「はい。喜んで、怜奈さん」
外は雨が降り始めていたが、この清潔な空間には、嵐の気配など微塵もなかった。
俺は新しい基盤の上に立ち、彼女のために料理を並べ始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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